商業句誌ではたまーに地域別俳人特集が組まれることがある。言ってみればおらが故郷自慢的特集である。こういった特集は楽しい。創作者はすべからくエゴのカタマリで俳人も例外ではないが、故郷自慢、古里紹介となると表現の前提が違ってくる。競作でトップを獲ろうとするよりも、手持ち札の中からどれを使って紹介しようかという方向に意識が向く。俳句がポジティブな感じになるんですね。
谺して山ほととぎすほしいまゝ
萍の遠賀の水路は縦横に
朝顔や濁り初めたる市の空
牡蠣舟や障子のひまの雨の橋
春潮に流るゝ藻あり矢の如く
杉田久女(坂本宮尾選)
特集は、まず九州を代表する物故俳人の作紹介から。
久女は虚子の小説『國子の手紙』でも知られる。虚子を神のように崇め、まあ言ってみれば一時期ストーカーのようにまとわりついた。双方言い分はあるだろうが虚子の対応は極めて慎重で常識的だった。久女は度を超したファンレター、というより恋文を虚子に送り続けていた。単なるファンレターなら「一度会いに来なさい、そしたらあなたが憧れている人は普通の人だとわかるから」とでも言えただろうが、手紙を読んで虚子はそれでは済まないと危険感を募らせたのだった。
ただ改めて久女の句を読むと実に繊細だ。「谺して山ほととぎす/ほしいまゝ」「萍の遠賀の水路は/縦横に」と下五の展開が素晴らしい。止めで情景が拡がりイメージが固定されている。こういった句は相当に推敲しないとできない。久女の研ぎ澄まされた句を見ていると、虚子久女誹謗はいわれのないフィクションだったのではないかという説にも説得力があるように思えてくる。しかしいくら虚子でもちょっと気に入らないくらいであれほど冷たい対応はしなかったのではないか。久女俳句の格調高さが虚子悪人説になった可能性もありますな。
ラガー等のそのかちうたのみじかけれ
枯蓮はCocteauの指無数に折れ
春夜の街見んと玻璃拭く蝶の形に
横山白虹(寺井谷子選)
氷上へひびくばかりのピアノ弾く
しんしんと肺碧きまで海のたび
蟻よバラを登りつめても陽が遠い
篠原鳳作(前田霧人選)
モダニズム俳句、新興俳句は別に九州独占ではないが、横山白虹と篠原鳳作を生んでいる。つい北原白秋の異国情緒たっぷりの『邪宗門』などの影響があるのではと思ってしまう。ただ白虹と鳳作の句を比べれば、鳳作の方が断然完成度が高い。いずれも新興俳句、モダニズム俳句として有名だが、鳳作句には一種独特の透明感がある。鳳作は熱心なキリスト教徒だった。その線に沿って読解することもできるだろう。中村草田男などと同様に数少ない宗教俳人と言ってもいいのではなかろうか。
曼珠沙華散るや赤きに耐へかねて
秋風や書かねば言葉きえやすし
み心に添ひさくら散るさくら
野見山朱鳥(野見山ひふみ選)
言わずと知れた「ホトトギス」系の俳句の名手である。「生命諷詠」を提唱し、良い俳句を詠むには俳人の内面の深さが必要だと唱えた。ただまあ、「赤きに耐へかね」「言葉きえやすし」と朱鳥の俳句はどこか説明的だ。初期秋櫻子よりもさらに風景を主観で捉えている。もちろん作家の主観が客体化され切っていないところが朱鳥俳句の醍醐味だと言えるでしょうが。
板ピエタ涙ながらに踏みにけん
胎児入れ六人霜の殉教碑
海鳴りをオラショとも聞く島の冬
吉岡乱水「踏絵」連作より
対岸は乱の島原若布刈る
阿蘇よりの伏流水や湖涼し
風光る鯱の載りたる天守閣
福永満幸「からしれんこん」連作より
雲なくば神話なからむ瓢の笛
天降りきしごとく稔田みはるかす
尾根の木は伐らぬ習ひや神楽月
布施伊夜子「真名井」連作より
現役俳人の皆さんも句とエッセイを書いておられる。吉岡乱水さんは長崎、福永満幸さんは熊本、布施伊夜子さんは宮崎が題材である。九州は沖縄を含めて八県だが、それぞれに特徴がある。古代から大陸の文明がまっさきに流入した地域であり遺跡や古い習俗なども多い。俳句は文学だとしゃちこばった公式回答を繰り返しているといろいろ矛盾が出てくるが、たまに文学であ、くらいに捉えておけばとりあえず矛盾に悩まされることはない。なにげない吟行や即詠を俳句から取り去ったら俳句は痩せてしまうでしょうね。
岡野隆
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