「特集 俳句における“無常”の世界」が組まれている。毎月出さなければならない月刊句誌ではこの手の特集は決して珍しくない。商業句誌の読者は俳句愛好者、それも初心者から中級者がメインターゲットだから、まあはっきり言えば、特集に合った名句が並んでいればそれでいいのである。それらを参考に句作に励んでください、という意になる。
ただまあ、んなお約束は俳壇インサイダー、つまりプロ俳人にはわかり切ったことなので、メディアの要請にキッチリ応じた上でそれなりの俳句や文章を書くのが腕の見せ所である。ただこの特集、なかなかハードルが高い。
夏草や兵どもが夢の跡 松尾芭蕉
しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり 与謝蕪村
露の世は露の世ながらさりながら 小林一茶
生も死もひょいと来るもの返り花 有馬朗人
あたたかにいつかひとりとなるふたり 黒田杏子
墓洗ふいっぽん帰る道のこし 清水径子
天上も淋しからんに燕子花 鈴木六林男
万緑や死は一弾を以て足る 上田五千石
虫のこゑいまなに欲しと言はるれば 石川桂郎
糸瓜棚この世のことのよく見ゆる 田中裕明
去るものは去りまた充ちて秋の空 飯田龍太
じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子
一生の楽しきころのソーダ水 富安風生
少年や六十年後の春の如し 永田耕衣
老いながら椿となつて踊りけり 三橋鷹女
戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡邊白泉
あやまちはくりかへします秋の暮 三橋敏雄
「無常が感じられる名句 30句」抄出 髙田正子
髙田正子さんが「無常が感じられる名句 30句」を抄出しておられる。冒頭から17句まで引用したが、うーんという感じは否めない。この世の儚さを詠んだ句として「露の世は露の世ながらさりながら」などは、まあまあスッと納得できる。しかしそのほかの句はどうでしょうね。「あたたかにいつかひとりとなるふたり」や「去るものは去りまた充ちて秋の空」などは、無常観というより恬淡とした諦念を表しているように思う。「戦争が廊下の奥に立つてゐた」「あやまちはくりかへします秋の暮」は、これはもう厭戦・反戦句と言った方がいいでしょうね。
別に髙田さんの抄出に文句を言っているわけではない。いずれの句も評釈レベルでは無常観を表現した句として解釈できるだろう。ただ本家の無常観とはなんだかそぐわないのである。
うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒み偲びつるかも 大伴家持
ねがはくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ 西行法師
水のうへに思なすこそはかなけれやがてきゆるをあはと見ながら 藤原定家
特集で堀切実さんが無常観を表した短歌を三首引用しておられる。無常観ならこちらの方が断然説得力がある。無常観は、これはもう短歌の独断場じゃなかろうか。
理由は簡単で、短歌は自我意識表現だからである。わたしがこう思う、こう感じるを表現するのが短歌の基本だ。定家の「見渡せば」や源実朝の「大海の」のような純写生歌に近い歌の方が稀なのだ。一個の人間が恋愛に燃えた若い頃から年老いるまでを詠むわけだから短歌は孤独な人間の精神を描き出しやすい。晩年になるにつれ「人間も草木も同じだわ」といった東洋的無常観表現が増える。ただし短歌は死の間際まで人間の生の表現だ。その意味で無常観と言っても短歌のそれはどこか生臭い。西行は桜に執着し、定家は消えゆく思いにこだわっている。
それに対して俳句は叙景(写生)中心だから作家の感情を表現しにくい。表現しても述志と呼ばれたりして、まあ俳句のアクセントくらいの扱いである。いろんな形で主観表現を織り込もうとするのだが結局は叙景表現に戻ってきてしまう。そのかわり此の世をあの世から見るような表現が可能である。
「天上も淋しからんに燕子花」や「糸瓜棚この世のことのよく見ゆる」などは現世を相対化して捉えた句だろう。仏教的無常観というのとは違うが、俳句は「俳」の漢字をバラした時のように、人に非ずの境地から詠まれた時に最も力を発揮する表現である。非人称的表現が作家性を際立たせると言うべきか。これがまた非常に難しい。
理知を駆使した力業で現世を相対化しようとしてもうまくいかない。単なる写生を繰り返していれば、僥倖のようにそんな句が生まれるのを待つしかない。弔句の痛切さでは短歌にかなわないだろう。人に非ずの境地はなかなか得難い。
いくつになっても忘れられない記憶のひとつに、幼稚園での椅子取りゲームがある。(中略)椅子の数が一つ足りないから、誰か坐れない人が出てくる。その「誰か」はいつも私だった。(中略)何度ゲームをしても、坐ることの出来ぬ私を見かねたのか、ある日宇、先生が一つ椅子を増やした。そして、私の手をひき、椅子に坐らせてくれた。「空しい」という言葉は知らなかったが、その時の感情はそうだったのかもしれない。それから八十年近く、いつも私はゲームのルール外の椅子に坐り続けていたような気がする。
秦夕美「猿猴捉月」
秦さんの特集に寄せたエッセイは俳句というものの真髄を捉えていると思う。俳句は基本、五七五に季語の言語ゲームである。ゲームに熱中すればするほど內へ內へと閉じてゆく。しかしそれで優れた句が書けるわけではない。むしろゲームに参加しながら「ゲームのルール外の椅子に坐り続け」た方がいい。この機微は俳句ならではである。
酔芙蓉おんぶお化けの足音らし
はじめての口紅雨の香の芒
みぞおちに音のこもれる萩月夜
たが夢のぬけがらかかる藤袴
悠然と更けゆく此の世菊の宿
素直に詠まれた句で写生句と言っていいのだが、明瞭な作家性がある。特集原稿でこういったエッセイと句をサラリと書ける力は相当なものだ。名人ですな。
岡野隆
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