坂井修一さんが「連載 かなしみの歌人たち」で渡辺順三さんを取り上げておられます。明治二十七年(一八九四年)富山県富山市生まれ。実家は士族ですが例によって御一新を機に没落しています。東京に出て歌人としてのキャリアをスタートさせますが一九二〇年代の大正デモクラシー時代にプロレタリア短歌の騎手の一人となりました。しかしすぐに当局の弾圧が厳しくなり昭和十六年(一九四一年)十二月九日に治安維持法違反で検挙されています。真珠湾攻撃による太平洋戦争開戦翌日の左翼一斉検挙でした。戦後もプロレタリア系歌人として活躍しました。高度経済成長真っ只中の昭和四十七年(一九七二年)没。享年七十八歳。
とまあわかったようなことを書きましたが急いで調べただけです。渡辺順三さんについては坂井さんの連載で初めて知りました。プロレタリア短歌(自由詩や小説も同じですが)というと政治的イデオロギーのために文学を利用した作家というイメージがありますが坂井さんが取り上げておられるのですから決してそんなことはありません。では素晴らしい短歌を書いた作家なのか。そんなに単純ではないですね。渡辺さんにとって技法などはトリビアルなものです。技法などを超えた短歌の本質を体現したような作家の一人です。
日本の
ブルジヨワの学者が口にする
労働問題こそ悲しかりけれ 『貧乏の歌』
敗戦を俺は喜ぶ
この日から、
圧政の鎖が断ち切られたのだ。 『新しき日』
順三は空穂に師事しましたが三行書き形式は啄木の影響のようです。啄木をプロレタリア作家と呼ぶことはできませんが『時代閉塞の現状』にあるように社会主義に強い興味を示していました。明治四十三年の大逆事件が社会主義者弾圧の端緒になったのは言うまでもありません。
引用の二首はまあ言ってみればいかにもプロレタリア作家の短歌でストレートな社会批判です。社会主義者がおりおりの感情を短歌にして吐き出しただけだとも言えます。これだけなら順三はたいした歌人ではない。自己の思想表現のために歌を活用しているだけだからです。
泣く如く
同情を乞う孤児院の
きたなき児らを今日も憎みき 『貧乏の歌』
かつての特高とおなじ口調もて、
問いつむる語気
すぐどくけわし。 『日本の地図』
日本海の冬濤暗く寄せて鳴るそのひびきさえいまのまぼろし 『波動』
ゲバ棒を振う「学生」の暴力を憎しむ心かぎりなく燃ゆ 「民主文学」(一九六九・六)
肉落ちて皮膚たるみたる老妻の胸のあたりよりまなこをそらす 「新日本歌人」(一九六九・七)
ここにあるのは憎悪であり、喪失感である。何に起因する憎悪であるか。それは目前にいる薄汚れた孤児たちであり、庭にいる蟻の群れであり、詰問する警官であり、暴力をふるう学生たちである。彼らを生む社会の悪に対して、というのも当然あるだろうが、目前にいる人間たちや蟻たちが、まずは感情をぶつける相手となっている。
これらの中でも、「日本海の」「肉落ちて」を私は優れた作品と思う。こうした喪失感の深さをもって歌人としての人生を閉じていったところに、渡辺順三の人間としての悲劇が刻印されている。それは、プロレタリアのドグマを含みつつ、もっと大きな人間的な精神に包まれたものであった。
坂井修一「連載 かなしみの歌人たち 第三十回 渡辺順三のプロレタリア短歌」
技法的にも内容的にも特に説明の必要のない単純な歌なのでその評価は坂井さんが書いておられる通りだと思います。ただ「泣く如く/同情を乞う孤児院の/きたなき児らを今日も憎みき」といった歌には一筋縄ではいかない社会が表現されています。
たいていの場合世の中に絶対的弱者などいません。弱者は弱者であることを主張して強者になってゆくこともある。プロレタリア運動の底の底まで見た人でなければ書けない歌でしょうね。
また「日本海の冬濤(ふゆなみ)暗く寄せて鳴るそのひびきさえいまのまぼろし」には激情とも諦念ともつかぬ感情が表現されています。坂井さんが書いておられるように「プロレタリアのドグマを含みつつ、もっと大きな人間的な精神に包まれた」歌です。
順三は子どもの頃に短歌に魅せられた一人でしょう。大人になり社会人となりプロレタリア運動に参入しても短歌を手放さなかった。社会批判や政治的ドグマも書きましたが歌はじょじょに内面に食い込んでゆく。短歌を政治利用した人ではなく歌というものを理解していた歌人であったということです。歌を書き続けるうちに短歌の本質に近づいていったのかもしれない。
短歌が私を書く芸術だというのは本当のことだと思います。少なくともそれが短歌芸術の基本でありかつ短歌最大の富でもあります。順三は短歌のテクニックなどにはほとんど留意せず歌を書いていったわけですが私を書くという短歌の本質を抑えていたゆえに歌に深みが生まれています。作品を通読して作家の人生や時々の感情の揺らぎがハッキリわかるのは短歌だけでしょうね。
短歌史で名歌と呼ばれるのは内容だけでなく形式面でもある時代の精神を言語化した作品だと思います。ただ短歌の富はそれだけではありません。若い頃から晩年までの歌を通読すれば自ずと作家の全体像が浮かび上がってくる。作家の肉体的思想がわかる。短歌がこの富を手放すことはないでしょうね。
高嶋秋穂
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