田中翠香さんが歌壇時評を始めておられ「第一歌集という呪縛」を書いておられます。第六十六回角川短歌賞受賞歌人なので新人歌人さんだと言っていいでしょうね。歌壇時評も新人さんにしか書けない内容でとても面白かった。特に面白かったのは前半部で歌人に限らないですが俳人や自由詩の詩人も共通して抱く疑問というか壁について忌憚なくお書きになっていました。五十代六十代になったらなかなか書けないだろうなぁという感慨を持ったのでした。
田中さんは冒頭で「ネットと異なる紙媒体の宿命として、速報性のなさというものがある。この原稿を執筆しているのは十一月のはじめであるが、発売されるのは十二月の終わり近くである」と書いておられます。ニュースなどでは情報伝達は早いほうがいいですが文学で情報伝達即時性がどんな意義があるのかは考えものです。音声視覚媒体と比べて文学(文字)は最初から遅れの中にある。むしろ徹底して出来事の即時性から遅れて物事の本質を衝くのが文学の役割かもしれません。重大事を碑文などに残すのが書き文字の役割だったわけですから。
文学金魚は文学をジャンル別にではなく綜合的に捉えることを提言していますから書きますが一・二ヶ月くらい前に原稿依頼があるのは短歌・俳句・自由誌の詩のジャンルだけだと言っていいと思います。書評やエッセイですが小説誌の場合は最低でも三ヶ月前くらいには執筆依頼がある。小説の場合は半年一年掲載を待たされることはザラです。その間何もしないわけではありません。編集者の判断で何度か書き直しをするのが普通です。それでも編集長がOKを出さなくてボツになることもあります。
詩誌は執筆依頼から執筆までの期間が短いので原稿は書き飛ばしになります。編集部の依頼に沿った本などをかき集め半月ほどで書き飛ばすことになる。たまに作家論などの特集も組まれますが過去に長い評論でも書いていない限りそんな期間でまともな作家論が書けるはずがありません。
何を言いたいのかというと短期間の依頼で書き飛ばし原稿を書いてそれが商業誌に載るのは危険な面があるということです。依頼側だって原稿を詳細にチェックする時間がないですからほぼノーチェックで原稿が載ってしまうからです。いい加減な原稿でもこのレベルで通用するんだと思ってしまう。実際大物歌人たちも同じような期間で原稿を書いて横並びに目次に名前が並んでいるじゃないかということです。
ただ若さの勢いで進めるのはせいぜい四十代前半まで。いわゆる大物歌人たちは一ヶ月・一年単位で波のないところに波乱を起こすジャーナリズム仕事とは別に腰を据えた仕事を残している場合がほとんどです。特に短歌の場合はその傾向が強い。俳人はおしなべて不勉強で芭蕉や蕪村はもちろん神のように崇める虚子全集ですら通読した人は少ない。俳句を書くことに集中していると言えば聞こえがいいのですが要するに薄っぺらい。それは自由詩も同じで詩とは何かを一度も考えずに詩のような詩を書き詩人のような格好をして詩人のような話し方をしている詩人が大半です。それである程度通用するのがぬるい俳壇・詩壇ですが歌壇はもう少し厳しいでしょうね。背負っている歴史が長すぎる。すべての歌人は古代和歌から続く短歌の最前線にいます。それをなんらかの形で抑えていなければプロの名に値しない。多少短歌を詠むのが得意でちょっと歌人として知られているくらいではプロではないですね。プロは素人には及びもつかない力を持っている人のことです。
書き飛ばし原稿であっても人間は自分が成した仕事を決して無駄だと思いたくない動物です。一ヶ月単位で消費される書き飛ばし原稿をメインの仕事だと誤解するとマズイことになります。こういうことはジャーナリズムは教えてくれない。ジャーナリズムは平均的にある程度の質の原稿を書ける作家をいつも探しているからです。ただしそういう作家がものすごく重宝されるわけではない。本当に重宝されるのは歌壇・俳壇・詩壇外で評価されている作家です。なぜか。〝壇〟という狭い共同体を相対化する力を持った仕事を為しているからです。余裕を持ってこなせなければジャーナリズム仕事はある時点から作家の足をすくう要因になります。
言い添えておきますとこれらは田中さんのお原稿を読んでふと思いついたことを書いたまでで田中さんのお原稿の批判の意図はまったくありません。ああやっぱり今でもそうなのかぁと思ってしまいそれに付随する考えを書いたまでのことです。以下同です。
歌壇と多少なりとも関わりがあるならば、歌集とは基本的に自費出版、あるはそれにきわめて近しい形式であることは周知の事実であるかと思う。装丁やページ数によってその費用の幅はあるにせよ、ざっくり軽自動車一台分くらいが相場であるとも言われている。(中略)
よく短歌や歌集について「商業や資本主義とは別の原理で動いている」と評するものや、歌人の定義づけとして「歌集を一冊も出していないのであれば、まだ本格的な歌人としては認められない」と述べる文章を目にする。前者については「歌集の出版は決して利潤を目的として行うものではない」という意味であれば、ある程度は納得できる。しかし「歌集の作成や出版は現代の経済や社会とは別の原理で動いている」という意味であれば、それは明確に否であると言わざるを得ない。どれほど質の高い歌を何百首も用意したところで、それを歌集として出版するための出版費用を用意できるかという点は、歌人としての経歴も才覚も何ら関係あるものではなく、経済力の問題であるからだ。
田中翠香 歌壇時評「第一歌集という呪縛」
これは切実な問題ですね。歌人に限らず俳人・詩人もすべからく悩む問題です。ただ作品集一冊の出版費用が「ざっくり軽自動車一台分くらい」――つまり新車なら一五〇万円くらいというのは角川さんなどメディアを持つ有名出版社から本を出した場合です。詩壇はハッキリと自費出版が大きなビジネスというより結社広告と並ぶ収入の屋台骨になっているのでほとんど指摘する人がいませんが作品集一冊に一五〇万円もかかるわけがない。300部刷ったら1冊単純原価5千円になってしまう。商業出版ならその倍近い値段をつけなければ商売にならないわけで通常あり得ないコストです。装丁・組版・校正・印刷・配本を版元に丸投げするからそういう値段になる。
お金をかけたくないなら情報化社会です。自分で本制作の情報を集めて作る道もあります。詩書の作品集はせいぜい一〇〇ページくらいです。並製なら印刷費は三〇万あれば十分でしょう。今の出版物はほぼ100パーセントInDesignで版が作られています。InDesignやPhotoshopやIllustraterのサブスク代にモリサワの基本書体を買ってISBNコードを取得してもいわゆる版下制作用投資は一〇万円を超えません。販路はAmazonとHP開設しての直販になるでしょうが三〇〇部刷って一五〇部撒いてなんとか一五〇部売れば赤字は二〇万円強で済みます。印刷費30万+版下制作用投資10万―(1800円/冊×150冊×0.65[amazonなら35パーセント程度の手数量料])=22万4500円です。一冊も売れなくても持ち出し四〇万円で「軽自動車一台分」の三分の一です。
情報化社会ですが情報は受け手ごとに偏っています。誰もが自分にとつて都合のいい情報を無意識的に選択しています。やろうと思えば誰でもできることで自力出版の方法もネット上に溢れているのにほとんど行われていないのは面倒くさいからだけではないですね。作家は誰もが強烈な自己顕示欲を持っています。作品集を出すことはこの自己顕示欲と無縁ではありません。むしろ直結している。もちろん作品集を出して他者から認められたいと思うのは自然です。この自然の流れに沿えば高額でもメディアを持っている有名出版社から作品集を出す方がいいのではないかということになる。歌壇は俳壇や詩壇に比べると自由な風土ですがそれでも自社から本を出した作家の作品集を書評などで取り上げ著者として優遇したりするのは自然な流れです。政治や最高裁の判決だって世論に左右されるんですから。自分の作品の質だけで勝負しようと決めるのは誰だって心細いですよね。
ついでに言えば今はネットがありますがそれ以前は紙の結社誌や同人誌を出すのが普通でした。今でも結社誌や同人誌は出ていますが雑誌を出すなら最低でも年四冊は出さないと意味がありません。継続性という面だけではないです。特に年一・二冊しか出さない同人誌ではメディアごっこが始まる可能性が高い。要するに角川短歌の縮小版のような編集ごっこが始まってメディアの下部組織に成り下がってしまうのですね。毎月出るような結社誌の方がそういうリスクは少ない。淡々と出し続けなければならないわけでメディアごっこが始まる余地が少ないからです。紙で本や雑誌を出すのは大変で出来上がると一仕事終わったという気になるのでメディアごっこが生じやすいのです。
メディアごっこが始まりやすいのは自費出版も同じです。お金を出しているお客さんなので版元は著者に優しい。本の編集・校正・装丁などをやって自分は作家だと勘違いしてしまう人も中にはいます。しかし編集・校正・装丁などは出版事務作業で作家仕事とはまったく関係ありません。
田中さんが書いておられる「歌集を一冊も出していないのであれば、まだ本格的な歌人としては認められない」と言ったり書いたりする方はたまにいます。間違いじゃないんですが説明不足ですね。作品を発表するのと一冊の本にまとめるのは質の違う仕事だからです。本はデジタル本であろうと始まりと終わりがある一つの小宇宙です。紙の本がデジタルになっただけなので当然ですね。書いた順に作品を並べる作家はほぼいないでしょうから自我意識や自己顕示欲が強ければ強いほど自分の本には始まりと終わりを持たせなければならない。全体として調和の取れた小宇宙として仕上がっている必要があります。単発で発表された作品が魅力的でも本にまとまると「なーんだそういうことか」とガッカリしてしまうことも多いのです。作品集を出すのはもう後戻りできない冒険です。これもメディア仕事原稿と同じで作家は出版してしまった自分の本に囚われる。失敗であってもそれを認められない。だから特に最初の本を出す時に尻込みしてしまうことはよくあります。でも本を出さなければそれまで。リスクのない自己表現などないからです。
でも四〇万円程度でも作品集を出すお金がない人はどうしたらいいのか。「出版費用を用意できるかという点は、歌人としての経歴も才覚も何ら関係あるものではなく、経済力の問題」なのはその通り。しかし詩人が本を出すのに苦労するのは今に始まった話ではありません。金がないのは社会が悪いといった主張もネット上に溢れていますが単純に甘い。今も昔も誰も助けてくれない。自分で何とかするしかない。残酷ですがこれは文学に限らず世の中の絶対真理です。
また人は必ず何かにお金を使う。使えるお金は人によって異なります。他人から見たらムダ金のようなお金の使い方をまったくしていない人も少ないでしょうね。でも本当に苦労しても一〇万円しか貯められないのならコピーを製本した作品集を出すこともできます。かえってその方が目立てるかもしれませんよ。ブランドに頼らないので勇気は必要ですが。ただ作品集にいくらお金をかけていてどれほど装幀に工夫を凝らしているのかが作家の創作に対する決意になっている面があるのも確かです。金は人を試すのです。
詩人は功成り名を遂げて一家を構えると全詩集や選集が企画で出版されることがあります。しかし個々の作品集は自費や半自費や結社の力を借りてようやく出しているのが普通です。これも事実として年を取れば取るほど自助努力での出版が必要になる。若い頃は作品集を出すのに四苦八苦しますがどうしても創作したい作家はある年齢で短歌や俳句や自由詩といった表現と折り合いが付くのが普通です。10年に一度の作品集刊行なら新し味もありますが次々に出版となるとそうもいかない。創作者は創作全盛期に入ってからの方が出版で苦労するかもしれない。自己顕示欲のためだけでなく成功しても失敗しても作品を世に問いたいと強く思う作家はお金があろうとなかろうと足掻いて足掻いてなんとか作品集を出すでしょうね。
歌壇では新しい世代が出現したとか世代間の断絶が生じているといった議論が盛んです。でも本当にそうかな。作家の自己顕示欲の方法と形式が変わっただけであまり変化はないと思います。現代人のそれは明治時代中期頃から全然変わってないんじゃないかな。あと二〇年も経てば年長組になった今の若手・中堅とお金がもうかるかもしれない有名になれるかもと夢いっぱいの若い世代が同じような議論を始めるのは目に見えていますし。まあこういった議論に乗れなければジャーナリズムでは活躍できないですけど。
もっと変わっていないのはお金の問題。これは井原西鶴浮世草紙の時代から普遍です。決算書があるならそれを見ればその人の全人格がわかってしまうようなところがある。人と金の関係は詩ではなく小説を読めば腑に落ちるはずです。身も蓋もないですが小説は結局女と金。それが現世のリアルです。だからお金の話は要注意。詩人はお金を作品題材にすることが少ないですがだからこそ作品以前の問題としてお金についてケリをつけておかなければなりません。妄言多謝。
高嶋秋穂
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