高橋源一郎の “ 言語 ” についての連載を楽しんだ。「動物の謝肉祭 第16回」の今回、さまざまな動物たちの有様と言語が結びついて、どこか不思議の国のアリスめいた雰囲気を醸し出している。
文学において、こういう形での「動物」のメタファーはなぜこれほど魅力的なのだろう。文学も言語表現も、人間ならではのもののはずだが、それを動物的レベルに意図的に落として考えることで、余計なものが剥ぎ取られるようにも感じられる。
たいていの人間は社会的存在で、その言語も、その関わる社会から抜け出ることはない。文学は、放っておけばその社会の中で生き、死ぬこと以外に考えられない人々に、何らかの揺さぶりをかけるためのものだ、と思う。思考実験であり、それはすなわち言語実験となる。
人々に揺さぶりをかけるための言語は、人々の社会から離れていた方がいい。動物のメタファーによって、それはもちろん当の動物たちには何ら関わりのないことではあるが、言語は社会的な枠組みを持たない、アメーバのような原初的な姿を示す。
それを人間の “ 欲動 ” の似姿として示そうとするのが、文学なのだと思う。そこには生のエネルギーがあるのみで、善し悪しのコードはそのエネルギーによって最終的には破壊される。まさしく “ 動物的 “ な様相として。
社会とそれにがんじがらめとなった人間たちに揺さぶりをかけるには、このような欲動そのものにまで意識を「落とす」作業の一方で、やたらと視点を「上げる」というものもある。神の領域まで、ということだ。
人間社会の規範が意味を持たなくなるほどの長い長い時間軸、あるいは短すぎる時間軸に思いをはせるのは一つの方法で、ここでは動物の寿命になぞらえ、それを果たしている。たいていの動物は人間より寿命が短く、しかし逆にその短さが、“ 永遠性 ” を感じさせることもある。一方で気が遠くなるほど長く生きるとは、“ 個 ” を超え、事実上の代替わりを超えて生命を持続させる生態を示すことだ。
いずれにせよ原初レベルの生命体に添うような言葉によって、社会を上からと下から挟み込むように相対化するのだ。文学とは、この社会で「うまくやってゆく」方法論ではないし、この社会から排斥されかかっている者たちの慰めでもない。この社会の有様を把握し、相対化し、ポイントをちょっと押して、少し変わった様相を見ようかとする試みのことだ。
高橋源一郎といえば、デビュー以来、パロディ的な作風で一般には知られている。パロディとは一種の「真似」であり、鏡像段階にある幼児的 = 動物的なミメーシスでもある。ただ、幼児と違ってそこに批評意識が付け加わっているわけだが、それも「付け加わっていると他者がみなしている」ということに過ぎない。高橋源一郎の批評意識は、“ 作品 ” に接近して現れようとすることで、より原初的な言語であろうとし続けていると思う。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■