内田洋子の連載「もの言うイタリア」第5回。内田洋子はイタリア在住のジャーナリストだが、ここでもいつものように普通の人々の普段の生活が描かれている。
それにしても、なぜこんなに読ませるのだろう。ミラノに住む老夫婦、一人娘が遠い地の医学部に進み、最優秀であったために研究室に残り、なかなか帰ってこない。寂しいのをこらえて応援してやる、といった話は日本にだってあるし、むしろありふれている。それがなぜか、ドラマチックな悲劇に読める。不思議だ。
久しぶりに帰省した娘とともに、老母の故郷の島に出かける。サプライズでフェリーを予約したのに、娘がドイツに留学するという話を聞かされる。看護師の母もまた若い頃、大志を抱いて故郷を後にしたのだ。「それにしても、ドイツとは…」という嘆きがまた、ドラマチックに響く。大陸の広がりのせいだろうか。海を越えた他国なら遠いのは当然だが、「それにしても、名古屋とは…」とはいまいち思わないだろう。
ドイツへ旅立つために一足先にミラノに戻った娘は、公園で置引きに遭う。警察に駆け込むが、逆にあれこれと冷たい質問にさらされ、怒りに震える。母に買ってもらったバッグだ、パスポート以外の、私のすべてが入っているのだ。このあたりも、たいへんドラマチックである。しかし「物語」で要請されるような悲劇の理由はない。
やがて、娘の財布だけ見つかったという知らせが入る。その後の展開はよくわからない。言われるままに、その店へと出向くと、膨らんだ財布を返される。怪しげな話だ。その店になぜあったのか、置引き犯と店との関係は何なのか。せっかくなので、ここで食事をしたいと言うと、店側は喜ぶ。料理は、思いのほか美味しい。
内田洋子は「写真のキャプションのように」書いていると言う。確かにつじつまやメッセージでない、起こったことそのものの迫力が社会的な意味合い抜きに、ただ迫る。
高級車を盗まれ、後になって「こういう車に乗ってみたかった」というお詫びの手紙とイベントのチケットとともに、車は返ってきたという。持ち主は喜び、家族とともに出かけると、その留守中に家財道具を洗いざらい盗まれたという。それがイタリアだ、とも言える。手を高く、宙に挙げた持ち主の姿が目に浮かぶ。盗まれるのも人生、貧しいのも人生。
あるがまま、註釈なしで描かれた人々が「絵になる」のは、そのもともとの輪郭がくっきりしているからだろう。すべてが立体的で平板なものがない、彫像芸術の本場という土地柄だ。著者が惹かれたのも、そのように肉厚な人生をおくるイタリアの人々の姿に相違あるまい。
それを日本の文芸誌が掲載するということはしかし、返す刀で同様に魅力的な日本文化の本質論が用意されていなくてはなるまい、と思うが。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■