「新発見・幻の最初期小説」として、安部公房の短篇「天使」が掲載されている。一九四六年、満洲からの引揚船の中で書かれたという。
安部公房は観念作家で広義のSF作家で、戦後作家の中では稀有な存在だったと思う。「天使」は満州からの引揚船という異常な状況下において、字面の上ではその状況とほとんど無関係に書かれている。
が、無論、混乱と狂気、いまだ未来とも呼べぬ将来への強い不安、日本社会つまりは自分たちにとっての世界が崩壊し、すべてが変わっていかざるを得ない局面で剥き出しとなった観念性は、やはりこれが紛れもない “ 戦後文学” (それもピチピチの)であること、安部公房の戦後文学性を示してはいる。
けれども「観念小説における戦後文学性」よりもさらに強く感じるのは、「戦後文学にあるべき観念性」がどういうものだったか、ということだ。
戦後文学は滅びつつあると言うか、すでに滅んでいて、それはその抱える観念が尽きた、ということに他ならないだろう。では、その滅んだ観念とはどういうものだったのか。
結局のところ、それは「アンチ観念」という観念だったように思う。あらゆる観念、究極的な何物か、とりわけ神や国家といったものに眉唾して、物質的であることを確信的に選択するという。
しかし実際のところ、それを本当に確信的に選択できたのは、ほんの一握りだったように思える。あとはもとより観念性など持ち得ない作家たちが、揺るがすことのできない観念の代わりに「状況」にしなだれかかってみたり、戦後文芸ジャーナリズムの中でお約束となった「書き方」に少し個性を加えてみたりという身過ぎ世過ぎをもって「アンチ観念」の身振りをなぞってみせたに過ぎない。その証拠に節目節目、たとえば写真を撮られる瞬間なんかには、観念的なポーズを取る、といったこともある。
「天使」は、神の観念を維持する西洋文化の象徴であって、欧米に敗れて観念を失った戦後の我々の畏怖すべきもの、やがては憧れるべきものであったはずだ。
しかし安部公房の「天使」たちは、西洋における天使たちに異なっていて、何からの「使い」なのか、よくわからない。まあ「天」には違いないということであるにせよ、それはもちろん「神」ではなくて、確かに「時代」とか「巨大な変化の波」といったもののようで、その意味で、まさしく引揚船の中で書かれたにふさわしい。
神の使いならぬ彼らは、ときに卑近であり、巨大ではあっても畏怖ではない、ただ違和感のようなものを感じさせる存在に過ぎない。この見慣れぬ「異なる人々」とは、もしかしてそれからやってくる高度資本主義社会のメタファーだと思うのは、穿ち過ぎか。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■