ちょっと前に朝日新聞の値上げ報道がありました。朝日、読売、毎日などの一般紙は毎年200万部ベースで減っていて、これが続けば2037年には一般紙は消滅するだろうと言われています。それはまったくその通りで今のような形で一般紙新聞が存続するのは厳しいでしょうね。大きな再編か構造変革が起こるのは間違いありません。アテクシの若い頃、三大新聞に就職する人は羨望の目で見られていましたが時代は変わりますねぇ。東芝も実質的に解体ですし遠い目になっちゃうわ。
ニュースに速報性と切迫性が求められるのは当然です。その意味で紙メディアは昔からテレビなどの映像音声メディアには敵わないところがありました。しかしそのテレビが揺らぎ始めています。旧N党の立花孝志さんがだいぶ前から「NHKをぶっこわーす!」とやっていますが、NHKさんが解体されるのも時間の問題です。最大要因はインターネット。インターネットの巨大メディア(情報ジャアントと言った方がいいかしら)がエンタメコンテンツだけでなくニュースなども抑えにかかっているからです。
アテクシ、ほとんどテレビを見なくなりました。年を取って忙しくなったからだけではありませんわ。テレビってちょっと前まで受動的情報ツールでもありました。漫然とテレビを見ていて得る情報がかなりあったのですね。それがインターネットで発信されるYouTubeや様々なSNS上の情報に取って代わられています。もちろんインターネット上の情報は信頼性に欠けることも多いわけですが、その真偽を判断する姿勢が既存メディアにも向かうようになっています。既存メディアが発信する情報が実はそれほど公立中正ではないことがはっきりしてきたのです。それは既存メディアの権威を揺るがします。
もちろんどんな場合でも情報発信元は必要です。取材する人がいて映像と声、あるいは文字でそれをコンテンツにするのはこれからも変わりません。しかしその配信システムが大きく変わります。情報発信集団(企業)は必要ですが配信システムと一体化している必要はない。ニュースを作る(売る)側と発信する側が一体化していたのが新聞などの従来型メディアですが、発信側が多様化しているわけですからニュースソースを自社を含めて様々な媒体に売ればいいことになる。足枷になるのはニュースソースと配信の独占一体化システムでしょうね。
こういうことを考えていると「世の中変わったなぁ」と思うわけですが、そーでもないと思うこともしばしばですわ。アテクシ、お買い物に行く時に車を運転していて「ぜんぜん前と変わってないじゃん」と思うことしばしばです。そりゃ車の性能は上がっていてお買い物も宅配で済ますことができるようになりました。でもスーパーに行くまでは信号だらけ。時間はそれほど変わらない。食材なんかも一生懸命農家さんが作っておられる。
じゃ何が大きく変わったのかというとわたしたちの頭の中。情報革命ってそういうことですわね。村上龍さんが「現代社会は1960年代からそれほど変わっていない」という意味のことをおっしゃっていましたがそれも一面の真理。自動車は空を飛ばないし相変わらずガソリンで走る。電気自動車が普及しても今のところ油を燃やす発電所が増えるだけ。インターネットでわたしたちの頭の中はうんと拡がってグローバルと言われるようになりましたがそれ以外は時短が進んだだけとも言えます。そんで時短になって余裕が増えて何をしているかというと、相変わらず暇つぶしのゲームなんかをしてるわけですわねぇ。
情報化社会によって大きく変わりつつあるけど変わらない面があるのは文学も同じです。むしろ文学の方が変わる面と変わらない面の両方をハッキリ持っていると言えるんじゃないかしら。
1980年代頃から散発的に小説を音声で聞かせる、小説に音楽CDやビデオを付けるなどといった試みは行われていました。でもあんまりうまくいっていません。これからもそういう試みはあるでしょうが根付くとは思えない。なぜなら文字は決定的に〝遅れ〟の中にあるからです。目で見てその驚きを即座に声で伝える映像メディアとはそこが決定的に違います。いったん人間の脳の中で溜めてそれを文字に整理して表現する。
ニュースですら文字情報は遅れの中にあるわけです。ましてや文学をや、ですわね。文学で時事ネタを扱っても切迫感は得られません。切迫感が得られるとすれば、事件のある本質を衝いた場合だけです。
この本質というものは、本質であるからにはクリアなものでなければなりません。姿形がハッキリしていて掴みやすいものになるはずです。比喩的に言えば視覚情報と音声情報が文字から立ち上がってくるような小説が理想ということになります。それはある意味文学の本質であり、優れた作品はそういった本質を有していたと言うこともできます。
情報化によって人間の精神界は大きく変わってしまったわけですが、その新しい面に着目するのか普遍的な面を抑えるか、大別すれば二つの方法があります。もちろん両方をバランス良く配分できれば言うことありません。ただそれは単純なメディアミックスでは達成できないでしょうね。かえって焦点がぼやけてしまうように思います。
この作品は耳を使って体験するミステリーです。
最初に、次ページのQRコードから「ある音声」をお聴きいただきます。
そのあと本文をお読みください。
読了後に、ふたたびQRコードが現れた場合、
そちらの音声も再生することをおすすめします。
道尾秀介「聞こえる」
道尾秀介先生の「聞こえる」の序文です。ページを開くと予告通りQRコードが印刷されていて、最後のページにもQRコードが印刷されています。もちろんアテクシ、両方とも聞きましたわ。音楽と音声が再生され、それが文字小説の謎解きヒントになっています。それはそれで面白い試みですわね。
小説の後には先生のインタビューも掲載されていて、「『面白そう』から『面白い』までの距離を縮める挑戦 小説を「体験」する発想の裏側」とタイトルされています。
――写真と物語を組み合わせた小説『いけない』や、読む順番で結末が変わる画期的な小説『N』など新しい物語のカタチを模索し続けている道尾さんですが、今回は「音声」と「物語」を組み合わせた新しい小説を執筆していただきました。そのきっかけには「危機感」があるとおっしゃっていましたが、具体的にはどういうことでしょうか。
簡単に言えば、読者数の減少、書店の閉店、流通する書籍の数の縮小・・・・・・という、小説や文学を取り巻く環境のことです。でも僕は「こんなに面白いものはない」と思って小説家をやっているわけだから、このままでいいとは思っていない。どうやったらもっとたくさんの人が小説に夢中になってくれるかを追求しなきゃならないと思っています。(中略)
そうやって自分のなかで商品会議を重ねているうちに、「小説に体験を融合させる」という方法で小説の枠(わく)を広げられるという確信が得られたので、今回のような作品を世に出すようになりました。
道尾秀介インタビュー 「『面白そう』から『面白い』までの距離を縮める挑戦 小説を「体験」する発想の裏側」
道尾先生は小説の新しい可能性はメディアミックスの方向にあるとお考えのようです。もちろんそれはアリでしょうねぇ。『不思議の国のアリス』の昔から小説(文字)に絵を配置するのは原初的なメディアミックスの探求で、作家の頭の中では文字を基点としたもっと自在な表現が想像(妄想)されていたのは間違いありません。
ただ現代でそれをやるなら紙媒体の文芸誌ではなくWeb上の表現の方がより自在な可能性が開けます。極端なことを言えば紙文芸誌などとの精神的訣別を経なければ思い切った試みはできないんじゃないでしょうか。作家の精神革命に近いキッパリとしたパラダイム転換が必要だと思います。
またそれはロールプレイングゲームなどとハレーションを起こすでしょうから、視覚・音声的即効性の面白さでは敵わないゲームとどうやって差別化するかという問題もある。文学でしか為し得ない純文学的方法で、ということになると振り出しに戻ってしまう。難しいところですね。
佐藤知恵子
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