小説は人工的物語ですからテーマがあってそれを書くために主人公とサブ主人公を造形して、起承転結的な要で事件を起こして物語を進めてゆくのが基本です。でも漠然とテーマがあって書いてゆくうちにだんだんはっきりしてゆく場合もあります。小説としては完成度はイマイチですがそれはそれでスリリングなお作品です。作家が漠然と掴んでいるテーマは根深いものであることが多いからです。
極端なことを言えばなーんも書くことがない、書きあぐねているのに書かなきゃならない時にそういったテーマが浮かんでくる。書きたくもあり、書くのが気が進まないテーマの場合はなおさらで読み終わって「ああなるほどね」と妙に感動したりするわけです。
「華、あそこが、ばあばのお家だよ。いつも電話でお話ししてるから、覚えてるよね。茨城のばあばだよ」
あやすように背中をさすると、華は涙でぐちゃぐちゃになった頭を上に向けた。泣き腫らした瞼をこじ開け、目の前の建物を、いぶかしげに見つめる。
近頃は古い団地をリノベーションした住宅が人気らしいが、そういったお洒落な雰囲気とは程遠い、昔ながらのしみったれた集合住宅だ。ひしめき合うように並んだベランダには、ぽつぽつと洗濯物が干されている。着古したズロースが風にはためいているのを見て、朱里の気持ちはますます沈んでゆく。自分達家族が暮らすマンショには、あんなふうに下着を丸出しにして干す住民はいない。
古矢永塔子「ビターマーブルチョコレート」
古矢永塔子先生の「ビターマーブルチョコレート」の主人公は専業主婦の近森朱里です。二歳の娘・華がいます。朱里は母親が左手を骨折したので高校卒業以来、初めて実家に帰省します。母親を心配して様子を見にゆくわけですがそれだけではありません。華は「元々の利かん気の強い性格にイヤイヤ期が重なり、気に入らないことがあれば、声がかれるまで粘り強く泣き続ける」。朱里も夫の俊行も子育て疲れ気味なのですが特に夫の方がそうなのです。朱里は母親の骨折を機に、夫に「お義母さんだって、本当は朱里に帰って来て欲しいんじゃないかな。華にも会いたいと思うよ」と言われ体よく実家に厄介払いされた雰囲気です。
とても良いお作品なので最初にんん?と感じたことを書いてしまうと、ちょっと状況説明が甘い。田舎の団地が「しみったれた集合住宅」に写るのは人それぞれの感性ですが、隣の部屋の会話が丸聞こえだとか、部屋と部屋の防火パーティションがベニヤ板で外れかけているとか「これはないな」という記述が散見されます。要するに今の朱里の生活から見ると実家は打ち消してしまいたい過去の恥部です。それを際立たせるために故郷である団地が見下した形で叙述されています。
もちろんそれには理由があるわけで朱里の母親は地元で水商売をしています。若い頃は男をとっかえひっかえして連れ込んでいたともある。娘にとっては耐え難く隠したい過去です。おまけに結婚するとき夫には母親は病院で看護師長をしていると言ってしまい、今に到るまでそれで押し通しています。ただ母親は育児放棄していたとか暴力的だったわけではない。今の朱里は母親を含めて自分の過去を封印して隠してしまいたいのです。
スマートフォンの画面には、俊行のSNSのアカウントが表示されていた。近森俊行、と実名で登録されている。仕事用に使っているのは知っていたが、朱里は一度も覗いたことがない。
「ふーん、年下なんだ。『大松百貨店外商部所属。家では姫(2)と女王(非公表)のしもべです・・・・・・笑』だって。おっさんくさい文章だなぁ。私も前の会社で作ったアカウントがあるから、友達申請しちゃおうかな。幼馴染としては、昔の思い出話とか、いろいろ教えてあてたいし。ね、嘘つきあーちゃん」
「やめてよ!」
精一杯鋭い声を出そうとしたが、朱里の声は、ただみっともなく裏返っただけだった。
真琴は無表情で朱里を見つめていたが、やがて、テーブルの向こうからすっと手を伸ばした。
「あーちゃん、すっかり変わっちゃったね」
逃げ出したいと思うのに、蛇に睨まれた蛙のように身動きできない。
同
実家の団地に帰ると隣の部屋に幼馴染みの真琴が出戻って住んでいます。難関国立大学を卒業して一流家電メーカーに勤めていたのですが父親の介護のために仕事を辞め、父親が亡くなってからも一人で暮らしていると母親から聞かされます。化粧もせず着るものにも気を使わない一種異様な雰囲気です。ただ言うまでもなく真琴がこのお作品のキーパーソンです。
母親は「マコちゃんには係わらないようしときないさいよ」と言います。真琴は父親の介護をしたため仕事もなく結婚もしていないので、子ども連れで帰省した朱里を憎むかもしれないと言うのです。小説はひとまず下へ下へと向かう。今の朱里にとって母親は隠したい存在ですがその下部にもっと不幸な女がいるのかもしれない。
実際真琴に強引にファミレスに誘われた朱里は真琴から夫のSNSを見せられ「昔の思い出話とか、いろいろ教えてあてたいし。ね、嘘つきあーちゃん」と脅しのような言葉を投げかけられます。真琴に部屋の片付けを頼まれいわゆる汚部屋を掃除したりするはめにもなる。
小説半ばでいくつかの将来的分岐点が設定されているわけですね。真琴に脅されたり極端なことを言えば殺されるストーリーもあり得る。しかし小説はそこには向かいません。将来的分岐点は「あーちゃん、すっかり変わっちゃったね」にあります。
「あーちゃんが帰って来た日、私、目を疑ったよ。綺麗な格好をしただけの、疲れたおばさんなんだもん。なんでそんなふうになっちゃったの? 今のあーちゃん、相当痛々しいよ。自分のこと、本当に幸せだと思ってる? あんな旦那で本当に満足? SNSの投稿を見たけど、姫と女王のしもべとか言ってるくせに、投稿内容は独身男と一緒じゃん。あーちゃんが、こんなにボロボロになってるのに、全然気付いてないじゃん。旦那さん、今まで一回でも、華ちゃんのぐずりに付き合ったことある? 姫が可愛い、とか呑気に投稿してるけど、可愛くないと思うほどのこと、されてないんじゃない? 完全に他人事じゃん」
早口でまくしたてる真琴に、何も言い返せない。
同
真琴が担っている役割は朱里が我慢し押し殺している気持ちを外に向けて発散させることです。小さくささやかではありますが朱里が得た今の生活の虚偽的側面を暴くわけです。ただそれだけでは真琴というキーパーソンの肉付けが薄いですわね。
昔から朱里は、真琴のことが嫌いだった。おどおどと人の顔色を窺い、いつも朱里に助けを求めるところが、鬱陶しかった。なのに真琴が他の奴らに踏みにじられるのは許せなかった。腸が煮えそうだった。
昔からそうだ。真琴といると、憎たらしさと気色の悪さと羨望と優越感、劣等感、いくつもの感情が胸の奥で渦巻き、息が詰まる。どろどろのホットチョコレートを飲み込んだ時のように、舌や喉やその奥が、いつまでもしつこくヒリヒリと疼く。
同
朱里と真琴の過去が露わになります。高校生までの朱里と真琴の立場は今とは逆でした。進学校に進学したけど真琴はいじめられっ子だった。それを朱里は彼女ならではのやり方で助けてやっていた。ただ「朱里は、真琴のことが嫌いだった」「真琴といると、憎たらしさと気色の悪さと羨望と優越感、劣等感、いくつもの感情が胸の奥で渦巻き、息が詰まる」のも本当のこと。いわゆる腐れ縁なんですね。
この二人、団地の屋上で殴り合いの大喧嘩をします。そこで何かが少しだけ変わる。ただしこの小説のクライマックスに到るまで物語はちょっとダッチロール気味です。でも女同士ならではの友情と反発が非常によく表現されたお作品です。最後まで読むと「ああなるほどね」とちょっと感動しますわ。もう少し長さが必要なお作品だったかもしれませんわね。
佐藤知恵子
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