中真大先生の「風を食らって」は面白かったわぁ。アテクシ、この手の風俗小説、好きなのよ。まず情報的な新鮮さがありますわね。それに風俗小説には〝汚れちまった純情〟が表現されていることがおおございます。それが杓子定規で勧善懲悪的な大衆小説よりも面白く読める理由よ。簡単に言うと、足で稼いだ取材の要素が多いと思います。風俗に縁遠い作家様は風俗小説は手がけないわよね。
仕事の覚えがわるいのは、先輩の剛のほうで、締めの精算でも、狂いを出さない日はない。接客態度も最低だった。客の顔も見ずに紙幣を受けとっては、ルームキーをカウンターに叩きつけ、まったく感情のこもらない声色で、
「ごゆっくりどうぞ」
バックヤードでは、いつでも壁掛けの鏡の前で、ネクタイを直している。フロントで呼び出しベルが鳴っても、客の悪口を平気で喋っていた。
中真大「風を食らって」
「風を食らって」の主人公は浩一という青年です。半年ほど前に先輩の剛を頼ってほとんど無一文で新宿にやって来ました。剛にホテルのフロントマンの仕事を紹介してもらっていっしょに働いているのですが、ビジネスホテルとは名ばかりの売春ホテルです。売春婦が客といっしょにやって来てセックスするホテルですね。普通はラブホなのでしょうがラブホは風営法の締め付けがきつくて新規開業が難しい。裏家業のホテルです。
「仕事の覚えがわるいのは、先輩の剛のほうで」とあるように、田舎から出て来て金も職能もない浩一は剛に頼り切りですが比較的真面目に働いています。剛が嫌がって適当に済ませてしまう仕事もやっています。まだすれっからしになっていない純なところのある青年です。
杏華は、日中に二度か三度、ときにはそれ以上の頻度で、男を連れてフロントに現れた。杏華はいつでも自然な親しさを感じさせたし、男のつまらない冗談や、おそらく道中も延々と続け、いまフロントマンを前にして拍車のかかった自慢話にも、笑みを絶やすことはなかった。
しかし、浩一はある時、気がついたのである。けっして彼女が、瞳を閉じては笑っていないことを。いつも目はきりっと開かれたまま、口角だけが上がっているのだ。
そのことに気がついてから、彼女のちょっとした仕草に疲れの色を見てとるようになった。たとえば雨の日、室料の支払いに男が財布を取り出したとき、男が腕にかけていた傘が床にぼさっと落ちた。傍らでそれを見ていた杏華は、無表情で、床に横たわる傘を見つめているのだった。そして二秒ほどの間があって、ようやく彼女は男の傘を拾いあげた。
同
浩一は杏華という娼婦が気になり出します。ぽつぽつ話すようになり、やがてセックスする関係になります。いっしょに食事をして「近くまで送るよ」と言うと、「杏華は浩一の目を覗き込みながら、彼の手をとると、静かに言った。「・・・・・・したいの?」」とあります。
こういう記述はいいですねぇ。とってもいい。女のすれっからし感がよく出ています。もちろん浩一という純なところのある青年に惹かれたわけですから、杏華の方にも純な部分は残っている。しかし彼女の絶望は浩一よりも遙かに深い。到底恋人同士とは言えませんね。釣り合わない。
谷田の気張り声に耳をすませながら、浩一はデスクの上のショルダーバッグの、ジップを開けてみた。いくつものポーチが見える。各店舗のフロント係の筆跡による、入金伝票も。(中略)
気がついたとききには、彼はその手にショルダーバッグを掴んでいた。
裏口のドアノブに手をかける。
そして一目散に――。
浩一は走った。
どこへ向かって。
どこでもいい、足を速めろ。走れ!
同
浩一と剛のボスは谷田という男で、複数ある売春宿のビジネスホテルの売上を集金していました。ある時浩一は、谷田が集金に来て金と伝票が入ったボストンバッグを机に置いたままトイレから出てこない時にバッグを持ち逃げしてしまいます。もちろん金が欲しかったから、必要だったからです。ただそう強く思った理由は杏華にあります。
杏華は浩一とのピロートークでお金を貯めて看護師の資格と取るための専門学校に入りたいと言います。春までに、とも言いました。期間を区切らなければ売春を止めて専門学校に通う決意が揺らいでしまいそうだからです。杏華の言葉と決意が浩一の心を揺さぶります。杏華が風俗嬢から足を洗って普通に暮らし始めるなら、自分もそうしたいと思うようになったのです。ボストンバッグの売上金を盗んだのは杏華と新たな生活を始めるためです。
「手前はね、仕事ってものに、もう少し誇りってものを持たないとだめだぜ」
「剛くん・・・・・・何が誇りだよ。おれたちにそんなもん、あるわけねぇだろう?」
二人は顔を見合わせて、笑った。ひとしきり笑うと、
「・・・・・・杏華なんだ」浩一は呟いた。「その、一緒になるつもりの」(中略)
「じゃあ、いまそのホテルで、お前のことを待ってんのか。お前がとっ捕まったと思って、心配してるんじゃねぇの?」
「してるだろうけど、実際、とっ捕まっちゃったわけだし・・・・・・」
「なあ浩一、あの女のことは黙っててやるからよ、金だけには手をつけずに、西村サンのところへ持って行こうぜ? 伝票が横領の証拠になるって、おれが手前に吹き込んだのがいけなかったとか何とか、なんだって言い繕ってやるから。まだ二日と経ってねぇんだ。何とかなるからよ。お前も本当にまともな暮らしがしたいって言うなら、こんな無茶はも止せよな」(中略)
剛はジッポーを、浩一の着ていたダウンジャケットのポケットに、押し込んだ。
「明後日の朝までだ。おれがフロントの日だから。それまでに帰ってこいよ。そのジッポー、金と一緒に、持ってこいよな。頼むぜ。それ気に入ってるやつだから」
同
引用の部分が小説の一番素晴らしい箇所ですわ。浩一と剛はホテルのフロントマンをしながら現場集金担当の谷田の上司である西村から、谷田の横領(ちょろまかし)の証拠を掴むよう指示されていました。剛は、浩一が伝票ごと谷田のボストンバッグを盗んだので、それは谷田の横領を暴くためだったと西村に言い訳してやると言ったのでした。また浩一は杏華といっしょに大阪に逃げたのですが、あっさり剛に居場所を知られ捕まってしまいます。剛のスマホを借りていたからで、位置探知機能を使えばすぐにどこにいるかわかってしまう。浩一はそんなことにすら頭が回らない。
剛は浩一に「手前はね、仕事ってものに、もう少し誇りってものを持たないとだめだぜ」と言います。ホテルのフロントマンの仕事は浩一の方が真面目に勤めていました。しかし風俗街のすれっからしとして成熟しているのは剛の方です。谷田がホテルの売上をごまかしているように、売春ホテルの仕事など適当にやればいい。ただ越えてはならない一線がある。剛はそれがわかっている。「お前も本当にまともな暮らしがしたいって言うなら」というのはその一線を知ること。浩一が一線を越えてしまったのは純でウブだからです。こういった純だけどちょっとお馬鹿な主人公を描くのはけっこう難しい。
剛は大阪まで浩一を追って来たのにボストンバッグを自分で回収しようとはしません。大切にしているジッポーのライターを渡し「そのジッポー、金と一緒に、持ってこいよな。頼むぜ」と言います。本気で浩一を窮地から救ってやるつもりです。それがすれっからしのプロである剛の優しさです。では杏華はどうか。
剛にはボストンバックを持って帰ると約束しましたが浩一は揺れています。剛が無理強いしなかったのでこのまま杏華といっしょに逃げるという選択肢もまだ残っている。杏華は実家に寄ると言ってホテルを一人で出て行きます。浩一はまだ杏里と逃げることに未練がある。待ち合わせ場所で杏華を待ちます。しかし彼女は来ない。電話をかけても電源が切られている。通じない。
杏華は現れないでしょうね。それが彼女の優しさなのか打算なのかはわかりません。ただボストンバッグを持って剛の元に帰れば、浩一は甘ちゃんの世間知らずから剛のようなすれっからしの風俗街の男になれるのかもしれない。そうでないならいずれ破滅するでしょうね。でも傷だらけの純情の破滅は美しい。小説というフィクションでしか描けない種類のものです。いっそ杏里にお金を持ち逃げされたという結末でもよかったかもしれませんわね。
佐藤知恵子
■ 中真大さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■