もう学生時代のお話ですから、むかーしむかし、あるところに爺さまと婆さまが暮らしておりましたの『日本昔話』くらい古いお話ですが、知り合いの男の子が「知恵子様、この映画すんげぇいいですよ。ぜひ見てください」ってVHS(そーよVHSよ、なにか?)を手渡されたのね。
それはスタンリー・キューブリック大先生の『時計仕掛けのオレンジ』でござーました。で、素直な知恵子様は見たわよ。最後までじーっと見ましたわよ。ほんで律儀にエンドロールまで見て「なんじゃこりゃぁ、ケタクソ悪っ!」と叫んだのでござーました。翌日男の子にVHS返して「わらわは不愉快ぢゃ、なんでこげな映画を見よと申したのぢゃ」と聞いたのでした。男の子の下僕は「ははぁぁぁ、知恵子様はこげな映画、お好きかと思いまして」と言ったのでした。知恵子様は「てめぇ、ふざけんじゃねぇ」と蹴りを入れたのでございます。ああ、アテクシも若かったのねぇ。
『時計仕掛けのオレンジ』、男子、特に若い男の子はけっこう好きよね。対して女友だちであの映画が好きって子はいませんでしたわね。まあ暴力的な映画よね。マルコム・マクダウェル演じるアレックスが「雨に唄えば」を歌いながら老作家を殴りまくるシーンが一番有名という映画ですからね。
ただまあ知恵子様も成長してゆくわけですわ。小説なんかを読むうちに、男の子はほとんど本能的に暴力に惹かれる面があるとわかってきたわけです。もち実際に暴力を振るう男性はごく少数です。でもどこかに暴力への憧れがあって『時計仕掛けのオレンジ』は男性本能に強く訴えかける面がある映画なのね。フィクションですがほぼ純粋な暴力衝動を描き出していて、主人公アレックスは矯正施設に入れられるわけですが、ラストシーンは「俺は治った」とか「これで元通り(元の木阿弥)」と取れるわけですから。つまり完全に社会倫理を無視している。その爽快さが男性に訴えかけるところがあるようね。
それはそれで表現として立派な存在価値があると思います。小説ではハードボイルドがその一種ね。でも映画や小説に限らず、『時計仕掛けのオレンジ』くらい筋金入りの社会壊乱的コンテンツは少ないわね。ほぼ純粋な社会壊乱的コンテンツには、少なくとも作家の強い思想が必要です。勇気もいります。反面教師的に機能することだってあります。
でもほとんどの表現者(作家)は倫理的なのよ。ハードボイルド小説にしてもやっぱりどこかにそれが表現されてしまいます。当然それでいいのですけど、社会壊乱的要素はきっちり描き出さなくてはなりませんわ。まあそれは男性作家のお得意とする分野です。女性作家のお作品に筋金入りの社会壊乱的小説は少ないわね。また〝悪〟の捉え方というか描き方が、男性作家と女性作家では自ずと違っていると思います。
「勉強の邪魔ってよ」三浦はへらへら笑いながら食ってかかる。「こんなとこに、まともに勉強してるやつなんているかよ」
「いますよ、もちろん」今度は藤竹が答えるのも聞こえた。
「どこにだよ」三浦が挑発するように校舎のほうへあごをしゃくる。
三階の四つの教室の窓から、大勢の生徒たちが顔を突き出してこっちを見ていた。「タイマンはれよ!」などとヤジを飛ばす男子もいる。
「ここにもいます」藤竹は平然と言い放った。「私は勉強中でした」
「ああ? 何言ってんだお前」
「三浦は細く剃った眉をひそめ、アクセルを吹かして藤竹のまわりをぐるぐる回り始める。それを見て岳人は、暗がりから「おい」と声をかけた。こちらの姿に気づいた三浦が、ブレーキを軋らせる。
「おっせえよ、ガッくん」三浦はおどけて言った。「遅刻ばっかしてると、退学だよ」
「仕事が長引いたんだって」半分は本当だが、半分は嘘だった。仕事帰りにゲームセンターに寄っていたのだ。二本目のタバコに火をつけながら、彼らのそばまで行く。
伊予原新「夜八時の青空教室」
伊予原新先生の「夜八時の青空教室」の舞台は新宿の定時制高校です。主人公は岳人で二十一歲ですが高校二年生です。勉強し直そうと定時制高校に通い始めたのですが、一年間「毎日きちんと授業を受け、教科書を開き続けているというのに、(ティーンの頃に学校に通っていた頃と)状態は何一つ変わらない」。じょじょに絶望が深まり定時制高校の退学も考え始めています。
日本最大の繁華街・新宿に近いということもあって、岳人の通う定時制高校は荒れています。割のいいバイトとして大麻を売っている生徒やOBもいる。さすがに先生を殴ったりすることはありませんが、バイクで乗り付けて校内を我が物顔で走り回ったりする。「夜八時の青空教室」は岳人とちょっと風変わりな藤竹という先生との交流の物語です。
「〈させつするとき〉いつの間に拾ったのか、勝手に開いて読み上げる。「〈させつしようとするちてんの三〇メートルてまえであいずをだします〉。ミミズがのたくったような字やのう」
血が沸騰するような感覚とともに、全身の毛穴が開く。「おい!」と怒鳴りながら、飛びかかるようにしてノートを奪い取った。
「何してんだオラ!」角刈りの胸ぐらをつかみ、ねじり上げる。「殺すぞてめえ!」「しかも、全部ひらがなやないか」角刈りは嘲るように言った。「定時制行く前に、小学校からやり直しちゃうか」
目の前が一瞬真っ白になった。無意識のうちに右腕がのび、拳が角刈りの顔面にめり込む感触だけが伝わってきた。
同
岳人は廃棄物処理工場で働いていますが、職場でトラブルが起こります。仕事を終え帰ろうとすると中年の角刈り男が絡んで来たのです。軽く揉み合った際に岳人のリュックが落ち、中にあった物が散乱してしまう。角刈り男はノートを拾い上げ岳人が書いた文字を読み、「全部ひらがなやないか」「小学校からやり直しちゃうか」とからかったのでした。岳人は男を殴ります。一番言われたくないことだったからです。
岳人は文字の読み書きだけがうまくできないディスクレシアという学習障害を抱えています。だから学校でドロップアウトしてしまったのです。定時制高校に通い始めたのはそれを克服するためで、目的は運転免許を取得することです。運転免許があれば人と関わらず、長距離トラックの運転手になって一人で日本全国を走り回れると考えているのです。角刈り男が拾って読み上げたのは岳人の運転教本勉強用ノートでした。そりゃ頭に来ますよね。
もちろん荒れた定時制高校のお話ですから、どこかで暴力シーンがなければ収まりがつかないですわね。ただこの咄嗟の暴力、激しい怒りの力が一点突破の力にもなり得るから必要だという面があると思います。
岳人はいわゆるディスクレシアが改善しないので、定時制高校を退学しようと思い始めているわけですが、それを止めて救ってくれるのが藤竹という風変わりな先生です。藤崎は岳人に自分は学生の頃、地球惑星学という学問を専攻していたと言います。伊予原先生の得意分野でございますね。ただ地球惑星学は岳人を救うキーファクターとしてとても適切です。必ずしも文字を必要としない学問だからです。またそれは岳人が抱える怒りと暴力の発露、天に抜けるような力とどこかで呼応しています。
で、藤崎先生と岳人がどのような解決方法を見出すのか、それはお作品をお読みになってお楽しみあれ。
佐藤知恵子
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