大鶴義丹さんの短期連載小説「女優」が完結した。大鶴さんは言うまでもなく唐十郎、李麗仙さんのご子息である。俳優として知られるがだいぶ前から小説を含む文章を書いておられる。演劇界で超大物のご両親をお持ちなのはなかなか大変だろうが文章はプロである。またお書きになる文章(小説を含めて)はお父様の唐十郎さんとは質が違う。独自の世界をお持ちだ。
一九六〇年代に日本の演劇界にアングラ劇団(演劇)が登場した。最も一般に名前が知られているのは劇団天井桟敷の寺山修司だろう。その理由は寺山さんが詩人でもあり映画『田園に死す』などの秀作を遺したからである。特に映画の影響は絶大で、舞台と違って世界中で何度でも見ることができるから寺山=アングラのイメージが固まっていった。また時系列的に言えば最初に街中ゲリラ劇などハチャメチャな実験演劇を行ったのは寺山である。しかし小劇場を含むその後の日本の演劇界に決定的影響を与えたのは唐十郎だった。
唐さんの戯曲はそれまでの演劇とは大きく違っていた。乱暴な言い方をすれば唐戯曲はこんがらがったアリアドネの毛糸玉である。アリアドネの糸は迷宮ラビリントスにミノタウルス退治に行くテセウスが迷わないようにアリアドネが与えたものだが、言うまでもなく糸は一本だった。しかし唐演劇では糸が無数にある。
これも比喩的な言い方になってしまうが、唐戯曲の毛糸玉から飛び出している糸を一本つかんで進んで行っても途中で切れてしまうことが多い。唐十郎自身がそんな糸を作った(与えた)ことを忘れてしまうこともある。しかし唐戯曲の秀作では最後に奇蹟的に糸が迷宮の深奥に、怪物の住み処につながる。無数の糸がこんがらがっている分、そのカタルシスは強烈だ。糸がこんがらがったまま終わり怪物の姿を見出せないこともある。それに苛立つかのように唐戯曲の大団円では火が燃えさかり大量の水が噴き出したりする。それもまた大きな演劇的カタルシスである。
この唐十郎的アリアドネの毛糸玉は人間の無意識界になぞらえることができる。そこでは現実世界の軛を超えたあらゆる出来事が起こる。見知らぬ女が町で偶然出会った男に「兄さん、兄さんでしょ、わたしよ」と呼びかける。男は驚くが女に導かれるように過去か来世で自分が女の兄であることに気づく。同じ劇の中で一人の俳優が名前と役割を変えて何度も登場する。現実世界では無縁のはずの人間たちが深奥で繋がっている。
戯曲もまた物語の一形態だが、唐戯曲に小説のような一貫した関係性はない。俳優たちは時空を超えて飛びその関係性を断絶させ時に繋がる。登場人物と物語の筋(設定)が一貫しているという意味で従来的小説と演劇(新劇)、映画は地続きである。しかし唐戯曲は違う。俳優たちが演じる舞台上でしか表現できない演劇の独断場で文字や映像作品にすると色褪せる。舞台袖からのそっと現れる俳優が現実にはあり得ない物語を目に見える物語として観客に突きつける。
この唐戯曲(劇団状況劇場)のカンバン女優が李麗仙だった。両雄並び立たずで唐さんと李さんは別れてしまったが、唐戯曲は李さんなくしては生まれなかった。それは『二都物語』などを見れば一目瞭然である。結婚なさっていた時期の戯曲だが『二都物語』は唐さんの李さんへのラブレターだと言っていい作品である。
大鶴さんが劇団新宿梁山泊で唐戯曲に出演すると知った時はちょっと驚いた。それまで大鶴さんは『僕は恐竜に乗らない』、つまりアングラ状況劇場には一線を画すと言っておられたからだ。しかし大鶴さんの演技は見事だった。といっても俳優でもあった唐さんの演技を真似た気配はなかった(声はとてもよく似ているけど)。一時期唐十郎アングラ劇を否定した経験が大きな財産になったのだろう。
有名女優の子供になることは、有名女優になることより難しいのよ。
そう言ったのは女優を目指したもののなれず、小さな劇団の座付き劇作家になった私の妻フキコである。有名女優は子供を持たないこともあるから、確率的には私・三岳テツロウの人生はとても珍しいものだ、と。
大鶴義丹「女優」
「女優」の書き出しにこの作品に対する作家のスタンスがはっきり表現されている。主人公はアングラ小劇団「カンフル劇場」を主宰する私(三岳テツロウ)である。妻は劇団の座付き作家のフキコだ。長続きしているが多くの小劇団と同様に、カンフル劇場は一度の公演ごとになんとか資金と俳優をやりくりする貧乏劇団である。芸能界の一員ではあるが私もフキコもお金がもうかるテレビや映画の世界とほとんど縁がない。しかし私の母親は劇団出身だがテレビや映画で活躍した大女優・星崎紀季子である。
どうしようもなく演劇の世界に魅了されているが、社会人として見ればアルバイトの自転車操業を続けるフリーターとなんら変わらない劇団主宰者であることに私は自虐的コンプレックスを抱いている。しかし妻の「有名女優の子供になることは、有名女優になることより難しいのよ」という言葉にあるように、私は迷いながらも自分の選択と出自も受け入れ肯定している。またフキコは「女優を目指したもののなれず、小さな劇団の座付き劇作家になった」。この小説ではシーケンシャルに物事が進まない。誰も、何事も、当初の目的や目論みをストレートに達成できない。変更を余儀なくされひっくり返される。演劇そのものである。
舞台の上では、母親自らがオーナーであるヤマナカに、若いツバキの身体を買ってくれと悪びれた様子もなく直談判し始める。まるで物か何かを売りつけるかのように、母親公認なのだからこれほど安全な話はないと。そして嫌がるツバキを最後に母親は病気がちとは思えないような勢いで張り倒す。その一瞬の表情は般若のようだが、すぐに聖母のそれに戻る。はしたない親子喧嘩を見せてしまい申し訳ないと、母親はヤマナカに笑顔で丁寧に詫びると照明が不気味にその表情を照らし、舞台の時空はゲンキの部屋へと戻っていく。
そこではツバキが、母親が自分の病気を理由に時給アップの交渉をヤマナカにしたという偽りの話を楽しそうにしている。
観客は四人の役者が出揃ったその時点で、この芝居が向かう方向を理解するだろう。
同
私はフキコが書いた「娘と母の鉛筆画」という新しい戯曲を上演しようとしている。主人公は若くキレイな娘ツバキで病気がちの母親と暮らしている。父親は子どもの頃に出奔していない。ツバキの恋人に売れない画家のゲンキ。ツバキはダイニングバーでアルバイトしているが、母親がオーナーのヤマナカ(劇中には登場しない)に娘の身体を買ってくれともちかける。売春を強要されたツバキの心は壊れてゆく。ただツバキが恋人のゲンキと話す時、母親のむごい仕打ちは美談に変わる。しかし舞台にそれを打ち壊す幻のツバキが現れ現実のツバキの虚偽を暴き責める。母親と二人のツバキ、恋人のゲンキで構成される四人劇である。
主人公の現実のツバキと恋人のゲンキ役はすぐに安定した演技をする中堅俳優に決まった。幻影ゆえ不安定で妖艶でもある幻のツバキはオーディションで寺下ジュンという元アイドルを選んだ。アイドルやグラビアとして活動したがパッとしなかった女の子である。売れるために事務所社長と寝たこともあると私に告白する。難しい役どころだが私は挫折感と野心の間で揺れるジュンに幻のツバキを演じる資質があると直観した。
ジュンは新人女優として頭角を現すために必死だ。「稽古場の鉄の扉を閉めるとき、精一杯に作り笑顔を見せる彼女から思わず目をそらした。しかし扉が閉まる寸前に彼女が一瞬見せた、この男は私のことを気に入っているという自信に満ちた表情が忘れられない」とある。一線は越えないが私とジュンは稽古を通して疑似恋愛的な相互理解を深めてゆく。「女優」にはいわゆる演劇界アルアル要素がたくさん散りばめられている。
母親役はフキコの強い希望で私の母親の星崎紀季子に決まった。本来ならカンフル劇場のような小劇団には決して出演しない格の大女優である。私は自分の母親だからだ、集客もままならない息子の劇団を心配してのことだと忸怩たる思いを抱く。しかし紀季子は台本を読んで強く魅了されたからと恬淡としている。「娘と母の鉛筆画」の母親役と同様、私の母はしばらく前から身体を壊して少し歩行困難になっている。
小説は戯曲の稽古中心に進む。演出家の私と脚本家の妻フキコはしばしば衝突しそのたびに戯曲の解釈が微修正される。俳優たち、特に演技は素人同然のジュンと中堅女優の衝突も起こる。しかしこの小説の影の主人公は母で女優の紀季子である。絡まり合ったアリアドネの毛糸玉の奥にいる怪物が紀季子だということだ。
私は涙を飲み込むように、母親とツバキの間にあるものを表現するための演出が間違っていたと言った。どうしてかは分からないが、今この瞬間にそれがやっと分かった。最後の母とツバキの芝居は、思うようにやって欲しいと。
本当の母の愛というものは温かく清いものだけではなく、子供に対して自分の生き方を受け入れて欲しいと願うエゴもあるはずだ。全ての愛を表現するには、そこが欠けていてはいけない。また、それに気がついた理由は、何一つ恥じることなく女優として息子の前でも自分を晒し続けてきた母さんを、今になって初めて理解できたからだと。
同
演出家は劇の全てを支配する要だから、普通に考えればクライマックスの演技指導を放棄して女優の母親に委ねるのは演出家失格である。ただ言うまでもなくこの小説は一種のビルドゥングスロマンでもある。稽古中からクライマックスの演技にやんわり疑義を呈していた母の意図を理解することが、私が女優である母親を受け入れ大女優の息子というコンプレックスを本当に抜け出して演出家として一本立ちすることであると示唆されている。また私が演出家であることには意味がある。演出家は脚本や俳優たちを最大限に引き立たせる。影の主人公が女優の母である以上、この小説での私は引き立て役でなければならない。
稽古を通して未熟だった元アイドルの寺下ジュンは女優として成長し、母の好演もあって劇は想像以上のクオリティに達した。しかしジュンが女優として大活躍することはない。また苦労して作り上げた劇の幕は上がらなかった。その理由は実際に小説を読んでご確認ください。
小説界の苦境を反映して劇作家を含む人気芸能人が文芸誌に小説を発表するのは珍しくなくなっている。ただその中でも「女優」の完成度は高い。小説内演劇の内容とそれを演じる登場人物たちがうまく連動している。面白い大衆小説としても作家の実人生に重なる私小説としても読める。
また「女優」のモデルになった李麗仙さんは2021年にお亡くなりになった。「女優」は李さん追悼小説かと思ったがそうではなく生前に書き上げられていたのだという。李さんが生きておられるうちに女優を、母親を相対化して小説で描いたことにも意味があるだろう。大鶴さんは俳優としてだけでなく、小説家や戯曲家としてもいけるのではないかと思わせる秀作である。
大篠夏彦
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