先月号から梶よう子先生の「雨露」の連載が始まっています。梶先生、オール讀物などでお馴染みですが、町衆モノ、吉原モノなどをお得意になさっている売れっ子作家様でござーます。特に女の情念を描く小説に秀作がおおごいますわ。ただ小説幻冬を発表場所にした今回のお作品はちょっと毛色が違うかもしれません。作家様は作品発表媒体によって、微妙に作風を変える、あるいは自然に変わってしまうことがよくあるのよね。
手に画帖を抱え、絵筆と絵の具の入った箱を肩から提げた小山勝美は、石造りの宝塔をもう半刻ほども見上げていた。石積み台の上にある宝塔の高さは二丈五尺(約七・六メートル)、その両脇には小灯籠が二基、手前には大灯籠が二基置かれている。
宝塔には、ただ『戦死之墓』と石刻されている。
着古した小袖と素足に下駄履き。師走の風の中では身を切るような寒さだった。しかし、勝美はじっとそこに佇んでいた。
明治十四年(一八八一)十二月――。
ようやく、この地に戻ってきたのだと。ようやく、ここに眠ることが出来るのだと。
勝美の胸裏にはその喜びだけがあった。
梶よう子「雨露」
「雨露」の主人公は浅草仲見世通りの辻で似顔絵描きをしているしがない浮世絵師・小山勝美です。勝美は川越藩右筆の家に生まれた武士でしたが、次男坊の冷や飯食いで有力な家との養子話もなかったので、幼い頃から得意だった絵で身を立ててゆこうと考え絵師になりました。幕末にはこういった人が増えます。封建の身分制度がだいぶ緩くなっていたのです。ただ完全に瓦解していたとまでは言えない。瓦解はご維新で起こります。
武士を嫌っていたとまではいきませんが、町衆に混じって浮世絵師に弟子入りした勝美は、それでも彰義隊の上野戦争に加わりました。だから上野寛永寺の彰義隊の碑の前に佇んでいるのですね。時代は明治十四年に設定されています。明治政府の基盤が盤石になったのは十年の西南戦争以降です。どんな場合でも似たようなことが起こりますが、大きな変革が断行されても数回は揺り戻しが起きます。明治維新では西南戦争がそれに当たるわけで、新政府に対する不満がこの戦いに集結し鎮圧されたのでした。
時代小説というものにはパターンがあります。そこはかとなく世の中の変化を反映しているのが時代小説と呼ばれるジャンルです。
太平洋戦争でコテンパンにアメリカ(連合軍)に負けて廃墟から出発せざるを得なかった日本では、復興が大きなテーマになりました。特権的な能力で頭角を現してゆく歴史上の人物、徳川家康を始めとして新たな秩序を作り上げた、あるいはその志半ばで斃れましたがその後の社会に大きく寄与した信長や秀吉が主人公の小説が数多く書かれました。中でも司馬遼太郎の『龍馬がゆく』がよく読まれたのは、坂本龍馬の人生に戦後自由主義の秩序原理を重ね合わされていたからですね。
高度成長期には社会秩序を平穏なものに保とうとする時代小説が盛んに書かれました。池波正太郎の『鬼平犯科帳』などがその代表でそれに準ずる小説が数多く書かれ、ドラマも似たようなパターンで終始しました。この時代の殿様はたいてい「よきにはからえ」殿でした。つまり強力はリーダーシップは不要で為政者が強権をふるう必要がない世の中です。世間のゴタゴタは裁判官や岡っ引きレベルで解決すればよいわけで、世はおしなべて平穏だった。
一九八〇年代には藤沢周平がよく読まれましたが、藤沢先生の歴史小説はある種の理想を描いていました。歴史小説ならではの抑圧は緩く、むしろ現代小説ではさまざまな要因によって表現しにくい純な人間の恋愛や使命感などを表現したわけです。それだけ世の中が複雑になって、理想を描くにしても現代的要因に阻害されない時代小説という舞台が必要だったということです。
九〇年代以降の時代小説は百花繚乱ですが、じょじょに衰退のきざしをみせます。時代小説の書き方がかなりわかりやすい形で作家たちの間に浸透した気配です。社会全体の動きを反映した社会的テーマは薄くなり、吉原や町人モノを中心としてさまざまなタイプの歴史小説が書かれました。ただ時代を代表する、ということは現代社会をある意味裏側から的確に表現した時代小説のヒット作は出ていません。私小説中心の純文学小説と同様に、人気大衆小説ジャンルではありますが時代小説も大きな曲がり角に差しかかっている気配です。呑気そうに見えないこともないですが、時代小説作家たちも闘っているのです。
芳年は、勝美を見下ろすと、
「たまらねぇなぁ。運が悪かったで死んじまうって、運よく生き残ったって、割に合わねえような気がするぜ」
冷たい口調でいい、背中を向けた。
勝美は、まだ咳き込みながら、
「私は、運がよかったのではありません。私は――守られていたのですから」
そういって、顔を伏せた。
「どういうことだ? 小山くん」
丸毛が勝美の顔を覗き込んでくる。
「守られていたってのは、どういう意味だい?」
振り返った芳年の鋭い眼が勝美をじっと見つめた。
同
主人公の小山勝美は群小絵師に過ぎませんが、お作品では当時それなりに有名で売れっ子だった浮世絵師、落合芳幾、月岡芳年が登場します。また新聞社記者・丸毛利恒が調査役的な立場で配されています。
で、小説のテーマは上野戦争に参戦した元彰義隊隊士、小山勝美の「私は――守られていたのです」という言葉に集約されています。小山は自らの強い意志で動く人間ではありません。武士の端くれではありますが、浮世絵師として武士をドロップアウトしようとしていたのに佐幕派として朝廷軍と戦いました。また小山が生き残ったのはある種人智を超えた働きのせいだったのかもしれません。それが小説で解き明かされてゆくことになります。自己の意思を超えて翻弄される人間、人智を超えたような働き、そういったものに現代歴史小説のテーマがあるのでしょうね。
佐藤知恵子
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