今号には第二十六回三田文學新人賞佳作入選の高田朔美さんが「わんにゃっこ」を発表しておられる。高田さんは一九八一年生まれなので四十一歲である。いろんな意味で〝そろそろ〟という年齢に差しかかっておられる。
ジジッという音がしたので、立ち止まって見上げてみると、コンクリートの電柱にとまろうとしたセミが失敗したようだった。セミはとまるのをあきらめると、近くの比較的ざらざらしたビルの壁にどうにか落ち着いた。樹液を吸おうと木を探していたのなら気の毒なことだと、理子は思った。
あまり中身のない鞄のベルトを軽く握りながら、再び歩き出す。あのセミは、残されたわずかな時間に、果たして無事にやりたいことをやりきれるのだろうか。
高田朔美「わんにゃっこ」
小説の書き方は様々だが、高田さんの「わんにゃっこ」では冒頭の二センテンスでテーマが表現されている。主人公の理子は若いOLだが、ビルの壁に止まったセミを見て「樹液を吸おうと木を探していたのなら気の毒なことだ」と思う。また「あのセミは、残されたわずかな時間に、果たして無事にやりたいことをやりきれるのだろうか」と考える。いわゆる風景の内面化で両者とも主人公の内面を表している。比喩的表現だが理子は正しい樹木に止まって充分な栄養を得られていない、今のままの状態で自分が本当にやりたいことをやり遂げられるのだろうかと不安に思っている。
前衛小説のように文脈があっちこっち飛ぶタイプの作品ではないので、その後の小説の展開は冒頭のテーマに沿ってゆくことになる。理子が満足できる刺激を得てやりたいことをやり遂げられるのか、あるいはそうならないのか。基本はこの二つだがそれは純文学小説の場合である。エンタメ小説なら日常生活に満ち足りず思うようにしたいこともできていない主人公に、唐突に意外な事件が降りかかるという展開も可能である。小説はかなり固い表現形式なので突飛な展開はなかなか難しい。
会社に慣れてきて、実はこの仕事はあまり好みではないと気づいてしまった場合にはどうしたらいいのか。転職すればいいのだろう。しかし問題は、新たにどんな仕事を選べばいいかわからないことだった。理子は、自分が好きなものがなんなのか、近ごろあまりわかっていない気がしてきた。だからこそ「やれ」と言われたことをやっていればいい仕事についたはずなのに、それはそれで面白くない。
同
「わんにゃっこ」という小説はいわば純文学的作法に沿って進む。撞着的言い方になるが純文学小説だということである。つまり純文学小説を書こうと思って書かれた作品である。すると次の問題、というか展開は、満ち足りない主人公の心理がどこまで深められ描き出されているのかということになる。
理子はふと、自分も抜け殻に近いのではないかと思う。本来中にいた、なにかになるはずだったものは、いつの間にか消えてしまった。今ここに残っているのはこれと同じ、抜け殻なのかもしれない――、一瞬思いついたことに、「そんな」と思いながらも、そう考えるといろいろと納得がいく気もしてくる。
一夜にして抜け殻になってしまった、というわかりやすいものではなかったから気づかないでいたが、少しずつ中身が抜けていたのかもしれない。(中略)すっかり干からびてしまったものは、水につけても、もはや本来のみずみずしさを取り戻すことはない、今の自分はそういうものなのではないか。
同
短編ということもあって、小説は冒頭のセミのイメージに戻ってくる。理子は満ち足りないOLの会社員生活を送りながら、昼休みに近くの公園でセミの抜け殻を拾って集めるようになったのだった。その行為は実は自分も中身が失われてしまったセミの抜け殻なのではないかという思いをもたらす。この先の展開はないので小説的結論はセミの抜け殻集めで表現されている。
もちろん実際に小説を読んでいただければ、職場でのささやかな同僚たちとの軋轢や、大学時代の要領のいい女友だちとの再会も描かれていて小説は膨らみがある。ただ自分はセミの抜け殻という認識が大団円ではやはり切迫感が足りないのではなかろうか。
技術的にキレイにまとまった小説である。ほとんど破綻なくスッキリとテーマが一貫している。ただ小説は私小説であっても読者はフィクションとしての極端な物語を読みたがる。主人公の空虚な内面を描くなら、ドツボにまで墜ちて苦しみもがき悲劇が訪れるのか、そこから力強く反転するのかまで至らないと強い印象を残せないだろう。
小説をキレイにまとめるのはとても大事なことだが、次の段階はそれを〝壊す〟ことにある。どこかに強い圧がかかっていて形式的展開が壊れかかっている作品が傑作と呼ばれることは多い。テーマはありテクニックも充分なので、次は読んだ後に読者が驚き呆れるほどの印象を残す小説をお書きになれるだろうと思う。
池田浩
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