「安井浩司の書は霊的だ」との感想をたびたび耳にした。ギャラリーで安井氏の書と対面した方々の多くが、「霊的」とか「神秘的」といった言葉で作品を語られた。言葉とは感化されやすいもので、店番をしている私も「いかがですか。霊的なエロスを感じさせる書ではありませんか」と、いつしか決まり文句のように話しかけていた。
その日は、連日店番をかってでてくれた酒巻さんの都合が悪くなったため、急遽豊口さんに代役をお願いしたのだが、ふたりが在籍する俳句同人誌「LOTUS」のお仲間でいらっしゃる吉村毬子さんが、御仕事の合間をぬって助っ人に来てくださった。吉村さんには墨書展のオープニングレセプションでも受付をしていただき、着物をお召しになられた吉村さんのおかげで、会場には華やかな彩が添えられたのだった。
昼食を済ませたところで数組のお客様が同時にお見えになられた。豊口さんや吉村さんの俳句仲間の方やお知り合いの方だったので、ギャラリーは楽しげな話し声で満たされたが、誰からともなくちょっとお茶でもということになり、私を留守番に残して皆さん連れ立ってお出かけになられた。急に誰もいなくなったギャラリーは、さっきまでの賑やかさが嘘だったかのような、静寂に包まれた異次元空間に変わってしまった。
椅子に座ってうとうとしかかったときだった。「ひさしぶりだな・・・」。耳に覚えのある声が聞こえた。声の方を振り向くと、ギャラリーの片隅にずんぐりとした初老の人影が立っていた。目をこすってよく見ると、大岡頌司だった。
大岡頌司といえば、安井氏とは高校生のころからの俳句の盟友で、墨書展図録のインタビューで安井氏本人が語っているように、金子兜太が創刊した「海程」からの誘いを断ち、高柳重信の「俳句評論」へと半ば強引に引き入れた張本人だった。ふたりの友情は「俳句評論」終刊後も長きに亘って続いていたが、その交友は9年前に一方的に断ち切られた。大岡頌司が65歳で亡くなったためだ。
いま私に話しかけられた大岡さんは、生前となんら変わった御様子ではなく、長い山羊のような顎鬚を蓄えていらっしゃった。その目は糖尿病の合併症でほとんど見えないようだが、「ありがたいことに今は仏さんの目で見ることができるんで、安井の書だってこのとおりはっきり見えるよ」とおっしゃると、壁にかけられた軸作品に目を細められた。
「それにしても楽しそうに書いてんな。若かった頃の字はちょっと永田耕衣チックだったけど、今のは安井浩司にしか書けん字だな。」大岡さんはそうおっしゃると焦点の合わない目で私を見ながら微笑んだ。思いがけない方の来廊を目の前にして私は、泉のように湧き出てくる話したいことが頭の中を駆け巡ってしまって、いつもより饒舌な大岡さんの言葉にうなずくのが精一杯だった。「相変わらず字は右肩上がりだな。おれの字は逆に左肩上がりだったけど。それにしても安井は今になってやっとてめえの字に確信を持てるようになったんだな。字に迷いがないのがうらやましいよ。おれも長生きしたかったな・・・」というと大岡さんは悔しそうに顎鬚を引っ張った。
存問や
熄まざる雨の
在るごとし
この句は私にとって大岡頌司との出会いの句だったが、それは安井氏の掌論集『聲前一句』で語られているのを読んで知ったのだった。『聲前一句』は、新旧の別なく選んだ35人の俳人それぞれの1句を評釈したものだが、評釈というよりも安井氏が「厳然と三十五篇による詩表現ということでいいではないか」と後記に書いたように、句の選択を含めて「句を語った散文詩」として読むことができる。
「総じて大岡俳句は、直視法では軽妙な人生論の喩は何も見えぬ。」(『聲前一句』より)と安井氏が断言するように、正面から言葉の意味を辿ってもなんの詩的風景も立ち上がらないのが大岡俳句の真骨頂だ。「この句も、桟格子をたぶんにずらして覗くとき、中年の煙くさいエロスが立ちあがっているから不思議である。」(同上)というが、ないしろ私が最初に読んだのは30代半ばの頃でまだまだ自分を中年と認識していない頃だったから、正直何を言っているのか理解に苦しんだ。しかし50歳を過ぎたいま改めて読み直してみると、「煙くさいエロス」の正体が身に沁みてよくわかるから不思議だ。それは我が身に引き寄せていうと煮ても焼いても食えないってことになるが、まさか安井氏が大岡さんの句をそう揶揄したわけではなく、燻り続けるエロスという意味で使われたに違いない。
「葛の原うねるばかりの蛇小町」と色紙にかかれた句を声に出して読むと、大岡さんは疑るように腕を組みしばし何事かを考えていたが、私を睨みつけるとこう言った。「この句は見たことないからおれが死んだ後で作った句だと思うけど、この葛ってのは、ユダヤっぽいですね。葛ってのはね、奈良県にある国栖(くず)っていう地名からきてるんだけど、あの辺はユダヤの足跡が結構あるんだよな。葛は蒲(かば)と相性がいいし、蒲はカバラのことでユダヤに間違いない。どうも安井はユダヤくさいんだよなあ・・・」
晩年の大岡さんは「ユダヤくさい」が口癖で、地名や人名の語源をユダヤに辿ることで、日本語そのものの出自がユダヤにあることを本気で信じていた。そのころ大岡さんの家にちょくちょく遊びにいっていた私が、大岡さんのつながりで安井氏を秋田に初めて訪ねたときのこと。大岡さんのユダヤ狂いに辟易していた私は、安井氏に向かって大岡さんのユダヤ源流説をどう扱えばいいのかお聞きしたことがあった。安井氏は笑顔の端に哀れみの表情を浮かべて、「まあ大岡君にしか分らないことだから。年寄りの妄言と思って聞き流しといたほうがいいよ」とお答えになられた。
「安井とおれとはことあるごとに較べられたなあ。お互い重信の次に来るのは自分だってひそかに思ってたしな。おれと安井の違いは句集の題名を見れば一目瞭然でしょう。安井は『青年経』『赤内楽』『中止観』『阿父学』っていうように、「経・楽・観・学」と並べれば大切なものは思想だとわかる。おれは『遠船脚』『臼処』『花見干潟』『抱艫長女』だから美学というか感覚だ。本当は二つを兼ね備えているのが詩の理想なんだが、言うほど簡単じゃあない。お互い違うことだけを意識してたからね。だから安井浩司の次に続こうってひとは、思想だけじゃなくて感覚をも兼ね備えなきゃならない。でもそれって大変なことだよ。重信だって両方そろう前に死んじまったからな。それはともかく安井よりおれの句集名の方が断・・・
「ただいまあ」の声に振り向くと、いましも豊口さんたちが自動ドアを開けて帰ってきたところだった。とたんにギャラリーには賑やかなおしゃべりの声が戻ってきた。「おかえりなさい」。私はうたたねから目覚めた振りをしてわざとらしく伸びをしながら、さっきまで大岡さんが立っていたあたりを盗み見た。もちろんそこに大岡頌司はいなかった。「あら、あの色紙売れたのね。いい句だからいつかは売れると思ったけど。」と吉村さんが片隅に立てかけられた色紙額を指差した。「葛の原うねるばかりの蛇小町」と書かれた色紙の額の端っこには、売約の赤いシールが貼られていた。「あっ、それ間違いです。」私はそう答えると何事もなかったかのようにシールをはがした。
田沼泰彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■