墨書展が終わりに近づくにつれて、いつも目の前にあった軸や色紙が妙にいとおしく感じられてくる。片すみに売約済の赤いシールが貼られていない作品となると、現金なものでいとおしさもひとしおである。それが安井浩司代表句の揮毫となると、いとおしさを通り越して「どうして?」と首を傾げてしまうことになる。そんな墨書を前に、店番の酒巻英一郎さんと私は、声を潜めてそのわけをあれこれと詮索することになったのだが。
キセル火の中止を図れる旅人よ
御存知のとおり第3句集『中止観』の巻頭を飾る安井浩司初期の代表句である。この墨書句には句集のテクストと同様「中止」に「エポケ」のルビが書き添えられている。「墨書なのにルビを振っちゃうところは安井さんならではだよね」と酒巻さん。「このカタカナ文字が人によっては墨書として抵抗あるのかも」と私。そんな勘繰りに「カタカナといってもこの『キセル』は存在感のあるしっかりした筆触だよね」と切り返した酒巻さんの発言で疑問はさらに深まるのだった。
「中止(エポケ)」とはギリシャ語で判断中止という意味の哲学用語だが、ここでは現象学における本質直観のための判断中止を持ち出すまでもあるまい。安井氏が学生時代に参加していた同人誌『牧羊神」』(NO.4)には、「東京駅では安井君が「きせる」を下手にやって、最後の愛嬌をふりまいた。」という句会にまつわる描写があり、安井氏は若かりしころキセルを愛用していたらしいことがうかがい知れる。
つまりキセル火は氏にとって身近な事象であることから、「中止(エポケ)を図れる」とは禁煙を考えているといった意味で、またそれが旅人ならば健康に留意してキセル煙草を止めるのは当然だ。あるいは「旅の途上で次々と眼前に現われる障壁にいちいち下手な考えで立ち止まって休んでいる暇はないぞ。旅人ならいっそ判断を中止して物事の本質だけを直観せよ。」という旅人へのメッセージとも読める。しかしいずれにしろそのような日常的次元に留まった解釈は安井俳句をつまらなくするだけだ。安井俳句を面白くする正体=安井俳句の本質は別のところにあるはずだ。
「本質直観」という言葉が出たので思い出したわけではないが、ギャラリーを訪れた方から、安井氏の墨書と対面しているうちに今まで理解しあぐねていた安井俳句という氷塊が瞬時に溶け、その面白さの核心に触れることができた、という声をいただいたことがあった。そうした声は一人や二人ではなかった。
たとえば遡るにオープン3人目のお客様としてお見えになられたS氏は、以前同席した句会でその正体(?)を知ったのだが、安井俳句を賞賛する声の主に対し、ことあるごとに疑義の眼差しを向けるアンチ安井浩司だった。その頑なな態度の裏に何が隠されているのかはうかがい知る由もなかったが、アンチ安井俳句を自認することにとくに理由がある風にも見受けられないことから、付和雷同を嫌う性格も一因かと思えた。
ところでギャラリーでのS氏は、墨書作品に対し常に斜に構えてお立ちになられた。そしてとくに会話をするわけでもないまま、半時ばかり墨書を御覧になられると挨拶もそこそこにお帰りになられた。私はすぐに後を追った。そしてS氏に追いつくと御来廊いただいた御礼を丁寧にお伝えし、今度はゆっくり安井浩司について語り合いましょうと約束の握手を交わして別れた。それからきっかり15分後だった。今しがたお見送りしたはずのS氏が息せき切ってギャラリーに舞い戻っていらした。そして「キセル火の中止を図れる旅人よ」の色紙を即座にお買い求めになられた。S氏は帰りしなに、「安井浩司の俳句が今日やっとわかった」とひとり頷くと、秋天のような晴れ晴れとした表情で去っていった。
もちろん墨書展を訪れる方がひとり残らず安井ファンであるとは限らない。むしろ主催者としては、アンチ安井浩司という方にこそ墨書展を見ていただきたいというのが正直な願いだった。S氏が安井浩司の俳句に何を発見したのかは聞かなかったが、句集という活字で読んでいただけでは見えてこなかった安井俳句の「本質」が、墨書という肉体の刻印をとおして読む(見る)ことで、文字通り肌で感じ取れることは確かにあり得る。これこそ安井俳句の「本質直観」であり、安井俳句に対する雑多な先入見の「中止(エポケ)を図る」ことで得られたかけがえのない俳句体験に違いない。
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最終日のひるすぎから降り出した雨も、閉展時間を過ぎるとすっかり止んだようだった。後片付けはあっけないほど早く済んだ。ギャラリーの白い壁から最後の軸を外すと、ほんとうに安井浩司の墨書展を開いたのかどうかさえ覚束なくなる。終わってしまえば後に残るものはあまりない。あるとすれば次に何をやるのかという余熱のような焦燥感だけだ。
荷物の搬出も終わり何もない空間にひとり取り残された。ごみを棄てに行ったスタッフを待つあいだ、手持ち無沙汰になった私がトイレから戻ると、老婆がひとり床に正座していた。私はあっけにとられた。
老婆の下にはムシロのようなものが敷かれていた。おそらく自分でここまで持ち込んだのだろう。地味な着物のうえには白い袈裟のようなものを羽織っている。長い数珠を首にかけ両手を胸の前で合わせている。そして何かをささやくかのように、一心不乱に呪文を唱えている。私はにわかに合点した。霊媒師に違いないと。
霊媒師は老女とは思えない動きで突然すくっと立ち上がると、仰け反るかのように天井を振り仰ぎ、次の瞬間には全身の力が抜けたように床に倒れこんだ。そして床にうずくまった姿勢のまま、声を振り絞るかのようにして語り始めるのだった。
・・・はい、そうです、・・・はい、・・・わたしは、・・・そうです、・・・びわのきにやどる、・・・そせんの、・・・れいです・・はい、・・・そうです、・・・おもやのうらの、・・・なやのとなりの、・・・びわのきを・・・きってはなりませぬ、・・・もしきりたおせば、・・・かならずや・・・わざわいが、・・・おこるであろう、・・・はい、・・・そうです、・・・
語り終えた霊媒師がもとの老婆へ戻ると、何事もなかったかのように立ち上がり、床のムシロを器用に丸めては小脇に抱え、ゆっくりと出口へと歩いていった。それはお能を舞い終えたシテが、橋掛かりをゆっくりとすり足で進みながら去っていく姿とダブって見えた。老婆と入れ違いに、自動ドアが開いてごみを棄て終えたスタッフが戻ってきた。そして、「白日夢から覚めたばかりって顔をしてどうしたのですか」と、私の顔をのぞきこんではからかうのだった。
ギャラリーの事務所へ挨拶を済ませると、私は銀座の雑踏を泳ぐようにして家路へと急いだ。急ぎながらも私は、夢に現われたとしか思えない霊媒師の老女について考え続けていた。もちろんそれが安井浩司と、あるいは安井浩司の俳句と、どのような線で結ばれようとしているのかをだ。
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安井浩司の俳句の本質とは何か。安井俳句の本質を目的と機能に分けて考えると次のようにいうことができる。目的とは世界の変容であること。機能とは目的のための媒体であること。つまり安井浩司は、言語芸術である俳句の目的を、ある世界を別の次元の世界へと変容させることにあると捉え、その変容を成就するための媒体として俳句作品を機能させようとする。
ここでいう「ある世界」とは、俳句作品から知覚可能なあらゆる事象を意味する。また「別の次元の世界」とは、言語によって知覚として現出することが不可能なあらゆることを意味する。媒体という機能を喩えていえば、それは知覚可能な世界を知覚不可能な世界へと変容させるために通過するべき門であり、俳句の形象により即していえばそれは、変容するために世界が通過するべき一本の刻み目である。またそれは、回転する舞台装置のごとく、現前する世界という舞台を瞬時に回転させて、別の次元の世界へと舞台を変えるための一本の回転軸にも喩えられよう。
当たり前だがほとんど全ての俳句作品は、表現媒体として機能することで、知覚可能か不可能かを問わず世界という事象を表現する。それは俳句に限らず言語芸術全てにわたる機能でもある。しかし安井俳句は表現媒体ではない。それは世界を変えるための変容媒体である。それを踏まえたうえで、いまいちど安井俳句の目的である「世界の変容」について考えてみたい。
安井俳句における世界の変容とは、たとえば現実の世界を霊的な世界へ「高める」ことである。それはあたかも死者が現実世界での肉体の死後もなお、霊的世界において「霊位の成長」を続けるがごとくに喩えることができる。あるいはヨーロッパ中世の叙事詩を代表するダンテの『神曲』において、ダンテ自身がベアトリーチェの導きによって、知覚可能な世界(=煉獄)から知覚不可能な世界(=天国)へと昇華することに喩えることもできる。
それは表現とは一線を画す。表現された世界はどんな非日常的な様相を呈していても、いずれは世界の一部として知覚され得るからである。またそれは現実の世界の中に非現実の世界を仮構するフィクションである。フィクションとは知覚可能な世界で想像された、知覚可能なもうひとつ別の世界に過ぎない。たとえば寺山修司が十代のころに創作した俳句作品がこれに当たる。簡単にいえばそれらは全て現実とは離れたフィクションであるが、寺山の俳句作品はあらかじめフィクションとして十分知覚され得る現実を表現している。
しかし、安井俳句が変容媒体として機能することによって、実際に変容させた世界が一律な様相として立ち現われるとは限らない。むしろそれは様々な形而上的様相として現出する。そうした変容によってもたらされた形而上的様相を、ひとことで「思想」と呼ぶことができよう。しかしそれは、大方の思想が一極点へと収斂していく様相とは異なり、全方位的な拡散の運動体であろうとするために、われわれ読者はひとまず「混沌(カオス)」と呼ぶことでその本質を宙吊りにしてきた。
旅人へ告ぐたんすにスルメの頭
今回の墨書展に出品された軸作品の句だが、「箪笥を開けたらスルメの頭が入っていたが、足と頭を取り違えた勘違いの小話として、そこであった旅人でも笑わせてやろうか」という意味を知覚可能な世界であるとすれば、そうした意味の還元を経ないままこの句を読み下すことによって、否応なしに立ち現われる知覚不可能性をひとまず「諧謔」という言葉で置き換えてみよう。するとさっき読んだ意味は句の彼方へと消え去り、入れ替わりに「諧謔」そのものが形而上的本質として句とイコールで結ばれる。
形而上的本質といったのは、この世界として立ち上がった「諧謔」が、たとえば「淋しさ」とか「哀しさ」とかいった叙情を引き出す装置として機能するものではないからである。それはまさしく「諧謔」そのものとしかいいようがなく、それ以上でも以下でもない。
こがらしや夢の叫びが旅籠屋に
同じく軸作品として出品されたこの句は、「旅の途中に滞在した宿屋での夜、悪夢に叫んだ声のように木枯らしが吹いている」といった意味が考えられるが、そうした日常描写的な意味とは別に、どこに身を置いても逃れられない過剰な自意識に対する「恐怖」が立ち現れてこよう。しかもこの「恐怖」は、その源泉として「心細さ」とか「空しさ」とかいった叙情的理由の前提を伴っているわけではない。我々読者はただ絶対的な「恐怖」そのものを目の当たりにするだけだ。
水を切りうぐいは天の旅へ出て
これも軸として展示された句だが、率直に読めば「水面を切って跳ね上がったうぐいが、天へと旅立つように見えた」という意味に取れる。しかしこの句は、そうした現実の世界を「自然」という絶対的存在へと瞬時に変容させる。さらに「出て」という連用終止が、絶対的存在としての「自然」に対する感情を空無化し、絶対的存在から超越的存在を呼び出している。つまり、句という作品空間にできたわずかな隙間を通過することで、あるいは句という一本の回転軸を廻すことで、知覚可能な世界を構築する言葉の意味が無化される。さらに意味によって喚起されるはずの叙情も同時に棄て去られる。その結果「自然」=「神」という知覚不可能な存在の神話が現前することになるのだ。
「諧謔」、「恐怖」、「自然」、「神」と変容する様態はさまざまだが、それらを総称すれば「思想」ということになる。安井俳句はこうした「思想」に十分過ぎるほど意識的であるといえるが、安井浩司が自ら「思想」という言葉で自身の俳句を語ることはなかったし、これからもないであろう。なぜなら安井自身が「思想」の大きさをよく知っているからだ。と同時に彼は、俳句に対して大き過ぎる期待はもっていない。それは、安井俳句が媒体であることを考えればおのずと分かってこよう。
機能面に話を戻すと、俳句を媒体とすることによって変容は常に瞬時に行われる。また作品=媒体である以上、その変容は常に作品空間の外部で行われる。そこにこそ安井浩司にとって「なぜ俳句なのか」の答えが潜んでいる。たとえば、小説や詩は作品空間の内部に世界を構築する。もっと分かりやすくいえば作品自体が表現された世界そのものであるともいえる。もちろんほとんどの俳句作品とて例外ではない。つまり、表現する作品の大きさによって、表現される世界の大きさが決まる。ここでいうところの作品の大きさとは、あくまでも文字の量的な大きさのことで、世界の大きさとは形而上的な大きさということだ。つまり文学におけるジャンルとは、おおかた表現される世界の形而上的な大きさに基づいて分けられているといえよう。
俳句はわずか17文字からなる最小の文学形式である。ゆえに俳句で表現できる世界も同様に小さく限定されざるを得ない。限定されざるを得ないとは言ったが、大きければいいというものでもなく、また小さいからだめなわけではない。世界の大小は良し悪しではなく、あくまでも身の丈にあった大きさという意味である。つまり、俳句には俳句の身の丈にあった世界だけが厳然と存在する。俳句形式によってあらゆる世界が現出できるわけではないということに、安井はじゅうぶん意識的だったといえる。
しかし安井は、俳句形式を表現と切り離して考えた場合に、つまり言葉の意味によって表現された知覚可能な世界を、世界のなかの知覚不可能な形而上的本質へと変容することにより、その可能性が驚くほど広がることにも気付いていた。ここに俳句形式の恩寵ともいうべき機能を見出した安井は、世界を無限大の「思想」へと変容させるための方法を手に入れたのだ。が、安井はこの変容を遂げた世界のことをあえて「もどき(=擬き)」と呼び、いまに至るも「思想」と呼ぼうとはしていない。それは、「思想」と呼ぶことで世界の「本質」がいたずらに抽象化されてしまうことを恐れたと同時に、声高に「思想」を並べることによって俳句にまといつくであろう「誇張」をことさら嫌っていると思われる。
さらに付け足すと、先ほどから媒体としての機能を語る際に、俳句を「通過すべき門」や、「一本の刻み目」や、「一本の回転軸」に喩えて説明してきたが、それは変容を遂げるためにはひたすら即時性が要求されるからである。こうした変容の過程を「ほのめかし」と言い換えれば理解しやすいであろうか。より効果的に「ほのめかす」ための媒体として、その空間容量は少ないに越したことはない。「門」や「隙間」や「棒」のごとき極少の境界で隔てられた二つの世界が、互いに刺し違えるその一瞬で入れ替わることで、「変容=ほのめかし」がより効果的に成就する。その初期に前衛的な俳句実験を試行した安井浩司であるが、多行表記には手を染めることがなかったのも頷けよう。安井にとって俳句は一行棒書き以外ありえなかったのである。
安井俳句における機能と目的からその本質へと迫ってみたが、この表現でもなく、知覚することもままならない世界を前に、われわれは安井俳句とどのように関わることができるのだろうか。結論からいえば、われわれは安井俳句を自らに引き寄せた経験として理解することはできない。われわれにできるのは安井俳句を「信じる」ことだけである。視点を変えていえば、安井俳句とは「信じる」ことによってのみわれわれの眼前に立ち上がる。
肩の辺まで天路をくだる烏蛇
掲出句は墨書展に出品された軸に書かれていた句だが、言葉の意味をつなぎ合わせて、「烏のように真っ黒な蛇が、天へと通じる道を降ってくるようにまっすぐ肩の辺りへと落ちてきた」と、その驚きを叙情として共感できるかもしれない。しかし、この句の「烏蛇」という言葉から超越的絶対者、つまり「神」の存在を「信じる」ことができるなら、この句は単なる個人的な叙情詩から神の降臨を語った叙事詩へと変容する。
「信じる」ためには言語の「力」が不可欠である。テクストを構築する言語に「力」があるからこそ、われわれは安井俳句を神秘体験や霊的体験として「信じ」、そのテクストに「神話性」や「叙事詩性」を「信じる」ことができる。安井浩司が自らの俳句を語る際に使ってきた「絶対言語」とは、こうした言語そのものの「力」を指している。そしてなによりも安井自身が、この「絶対言語」の「力」を「信じている」ことを、先ず最初に宣言している。
齢五十二歳、はや絶対言語への信仰が始まっていることを隠すわけにはいかない。
(第十句集『汝と我』後記より)
どんな言葉にも「意味」がある。「意味」はコミュニケーションという言語機能にとって不可欠なものだ。しかしそれはあくまでも言葉の機能のひとつにしか過ぎない。「絶対言語」とはコミュニケーションのための言語ではない。それは「信じる」という目的を遂げるために不可欠な「力」として機能する。「絶対言語」とは「信じる」ための「力」を、「コミュニケーション」のための「意味」のように内包した言語のことである。そうした言葉が神秘的且つ霊的なイメージをまとうのは当然である。安井が自らのその宣言を「隠すわけにはいかない」という言い方で閉じているのは、「信じる」という行為が「思想」へと直結することで、宗教を通り越してより秘教的にならざるを得ないからである。
秘教的という言葉で安井浩司を語ることには大きな危険が付きまとう。そこには「妄信」とか「熱狂」といった負の信仰イメージがまとい付いてくるからだ。冷静な目で俳壇における安井浩司の存在を見直せば、「信じる」とか「思想」とか、はたまた「絶対」とか「神」とかいった宗教的熱狂を想起させる言葉は、安井に対する黙殺を進め、その孤立化になお一層の拍車をかけるだけといえる。しかし、安井浩司の俳句はここに至ってもはや、そうした秘教として語るしかない「本質」を見せ始めようとしているといっても過言ではない。それは安井俳句の「本質」が、すでに俳句はおろか文学の常識をすら逸脱した、稀有なる「思想」を胚胎し始めていることの証左である。
*
この来廊俳人記の最終回に登場したのは、くしくも霊媒師の老女だったが、それは決して偶然ではない。そもそも安井俳句の機能を「媒体」と呼んだ裏には、それよりも「霊媒」と呼びたい衝動が隠されている。霊媒とは文字通り霊を媒介することだが、この非科学的な機能が、人々を「信じる」行動へと駆り立たせるためには、霊媒師の絶対的な「力」が不可欠である。
霊媒師の口寄せによって語られた言葉が、祖先(=死者)の言葉に間違いないとする科学的な根拠は何もない。しかしそれでも口寄せを依頼した死者の縁者は、その言葉をまさしく死んだ祖先の言葉として「信じる」。他人ならそれを妄信であると一笑に付すことは簡単だ。しかし、縁者が「信じる」のにはわけがある。そのわけこそが、霊媒師の「力」にほかならない。
繰り返しになるが、安井浩司の書を御覧になった方の多くが、安井浩司の俳句が分かったと異口同音につぶやいては、晴れ晴れとした表情でお帰りになったのには理由がある。われわれは安井浩司の俳句を、句集という書物のなかの活字で読むという、いわば読書体験の範疇において享受してきたといえる。読書体験とは著者と読者とのコミュニケーションであり、当然のこととして「意味」と切り離せない理解を強いられることになる。あるいは理解を前提として読むことを強いられてきたといってもよい。
そうした読書体験によって執拗に理解を強いられてきた安井俳句を、墨書という肉体的な刻印をとおして読むことで、墨書に宿る言葉の「力」が、言葉の「意味」による理解というコミュニケーションの呪縛から、われわれを判断中止(エポケー)へと導いた挙句に、「信じる」ことへと至らしめたのである。「理解」を棄てて「信仰」を手に入れた、達成感にも似た晴れやかな表情だったのだ。このような表情に出会えたことが、安井浩司「俳句と書」展を開催した喜びに違いなかった。そう思うと私は、歩きながら練り始めていた次なるイベントの構想に、ひとり笑みを漏らさないではいられなかった。
田沼泰彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■