純な心、少なくとも純な心を感じさせる逸話ってありますわね。
アテクシの知り合いに山男がいるのよ。長いことネパールに住んでいますわ。今はどうか知りませんけど、30年前くらいのヒマラヤにそう遠くない村は「ここは中世か!」って感じの雰囲気でしたわ。電気は通っているんですが、主要な建物だけ。多くの家はまだランプでしたの。生活ものんびりしていてまったく現代的じゃありませんでした。
ヒマラヤ大好きの日本の山男、ネパールに長期滞在してるうちに宿屋の娘さんと恋仲になっちゃったのね。で、結婚することになった。娘さんを両親に会わせなきゃならないし、日本で住むことも考えなきゃならない。それで娘さんを日本に連れて帰ることにしたの。
「建物が高くて車が多いですねぇ」
カトマンズに近づくと娘さんがそう言った。トリブバン空港から日本に向かったわけですが、フライト中はおとなしく上機嫌だったそうです。で、トランジットのクアラルンプールで降りたあたりからきょときょとしてきた。成田に着いて成田エクスプレスに乗って東京に近づくと「わたし、無理です。ここには住めません」泣き出した。山男は両親に娘さんを紹介するとネパールにとんぼ返りした。娘さんはずーっとどこまでも山が見える土地じゃないと住めないそうです。「ラブラブねぇ」と言うと、山男は「ま、いっかって感じ」と笑っていました。
小説でも時には純なお話は必要ね。たいていは女子供向けの大衆小説だってバカにされたり下に見られたりするわけですが、性根を決めなければそういった物語は書けません。フローベールの『純な心』だってそういう物語でしょ。漱石大先生の『吾輩は猫である』で猫がウチの先生は自分にはわからない難解な文章をやたらとありがたがる癖があると揶揄してましたわ。難しければ高尚って考え方は幼稚よ。平明でわかりやすい文章を書けない作家が本当に難しい内容の作品を書けるとは思えませんわ。
だけど、去年の秋だった。近所に住んでる一歳年上のテシャが突然、道で話しかけてきた。お互いに顔は知っていたけど、学年が違うから一緒に遊んだことはなかった。
「アルマ、お前のトトちゃんって本当のトトちゃんじゃないんだろ?」
唐突すぎて言葉が頭に入ってこなかった。だけどテシャの声やニヤニヤ笑いで、何か意地悪を言われたのはわかった。
「年上のコブ付き女と結婚するなんて変わり者だって、うちのトトちゃんが言ってた」
それだけ言うとテシャは走って行ってしまった。あまりピンとこなくて、何も言い返せなかった。家に帰っても、両親にはテシャと会ったことを話さなかった。
岸本惟「砂の灯台」
今号には日本ファンタジーノベル大賞2020優秀賞を受賞なさった岸本惟先生の「砂の灯台」が掲載されています。ファンタジーノベルという括りは新潮社様ならではかもしれませんわね。基本SFなんですが、舞台設定は近未来でなくてもいい。むしろ過去の時代に設定される場合が多いように思います。ただその場合でも日本的アトモスフィアを排除した社会というか、世界観で統一されていることがおおございます。
そういった括りですと、作家様が表現したい主題をストレートに小説化するのが可能になります。日本に限りませんが、実在の国や民俗、宗教共同体を前提とするとそれ特有の文脈に縛られてしまいます。そんな縛り抜きに主題を表現できるんですね。抒情とハピーエンドが大きな武器になるわけですが、その分、物語の起伏は激しくなる。物語の原点のようなお作品が多くなるわけで、読者から根強く支持される作家を輩出している賞でござーます。初版は新潮社様ではありませんが、小学生の女の子に絶大に支持されている梨木香歩先生の『西の魔女が死んだ』がティピカルな作品かもしれません。
「砂の灯台」の主人公は八歳くらいのアルマ。父母をトトちゃん、カカちゃんと呼んでいます。アルマの住む世界では「白い神」を信仰していて、夏至のを挟んだ前後数日は皆白い服に身を包んで太陽の下で過ごします。その間、独身男女は町の中心の広場で踊り明かし、気に入った相手にブーケを渡して相手が受けとると結婚が成立する。アルマの父母もそうやって出会いました。
ただアルマの世界では海が干あがり始めていて、父は漁師だったので海を求めて移動して漁を続けているうちに事故で亡くなってしまった。アルマに父の記憶がないのはもちろん、母も「結婚して半年くらいで天国に召されてしまったし、その間も何度かしか会えなかったから、正直、カカもよく知る前にいなくなっちゃったのよね」と言います。
母は再婚して新しいトトができるわけですが、トトはアルマを可愛がってくれます。しかし妹が生まれ、さらに二人目の子をカカが妊娠すると、近所のテシャが「お前のトトちゃんって本当のトトちゃんじゃないんだろ」とアルマをからかいます。アルマは自分だけトトの本当の子供ではないので、家の中で孤立してゆくような寂しさを感じ始めるのです。
白い服の夏至祭り、海の干あがり、義父といった伏線が設定され、それがすべてキチンと回収されるようにお作品は構成されています。一番重要なのはもちろんアルマの苦悩とその救済。現代社会は実生活での格差が広がっているせいか、お金がかからないところで公平感を維持しようという動きが盛んです。誰もが自分は1ミリも傷付きたくないと主張しているようなところがあって、優しく公平な社会はいちいちそれを「ごもっとも」と受け入れているような気配です。でも誰もがそれがタテマエだと知っています。小説はそういうタテマエというか、偽善を抉る表現になってゆくかもしれませんわね。
「トトちゃん」
そう呼びかけると、その人は照れるような、困惑した顔をしたので、私も恥ずかしくなってしまった。でも、ならばなんて呼べばいいのだろう。本当のトトちゃんに会えたら、言葉なんかなくても気持ちが通じ合って、感極まって抱き合ってしまうと想像していた。だけど、実際に顔を合わせてみると、町で見かける若い男の人にしか見えない。
「私に会いたかった?」
「そりゃまあ、会いたかったよ。でも正直に言うと、まだ実感がなかった。ウルマン(アルマの母親)のお腹が大きくなる前にほら、俺」
死んでしまった。
同
本当の父親のことを知りたいと言い出したアルマを、父親が車で祖父の元に送ってくれます。祖父は高い高い灯台の中に住んでいますが、海はもう干あがっている。でも毎晩灯台に火を入れ続けています。それには理由があって、夏至祭りの間に死者が戻ってくるからです。日本人には馴染み深い迎え盆が援用されています。アルマは祖父の灯台で亡くなった本当の父親と再会しますがその描写は逆にリアルです。感動の再会ではなく二人とも戸惑っている。もちろんこのリアルはさらなるアンリアルを際立たせるためにあります。
トトちゃんはもう上陸しただろうか。今夜会っても、何を話せばいいかわからない。
人々が合流してそれぞれの行き先へ向かい、波打ち際に人気が減ってくると、見覚えがある背中がポツンと見えた。(中略)
まさか、そんなわけがない。
もしここに車で来たのなら、来る前に絶対に私に電話で知らせてくるはずだ。妹も一緒にいるだろうし、あんなふうに一人で立ち尽くしているわけがない。(中略)
背中が近くに見えた。やっぱり間違いじゃなかった。
「カカちゃん!」
同
アルマは死者が戻ってくる夏至祭の次の夜、海辺に母親が立っているのを見ます。母親は臨月近い。出産は母体の生命の危機を伴うこともあります。
子供のように「それで、それでどうなったの?」とお思いになる方は多いわよね。それがこの小説の大きな魅力でございます。続きは実際にお作品をお読みになってお楽しみあれ。
佐藤知恵子
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