今号は「特集時代小説 春うらら」でござーます。時代小説って春うららなのね。なんでかはよくわかりませんけど。少なくとも推理小説春うららはちょっとピンと来ないわね。小説新潮では今売れっ子の畠中恵先生が連載していらっしゃいますけど、今号では四人の中堅作家様が短編を発表しておられます。永井紗耶子先生は、まぁぁぁっ上手いわねぇ。
なるほど、お前さんかい。最近、小屋の中をあちこち歩いて方々であの「木挽町の仇討」の話を聞いて回っているつていうのは。全く、なんだつて二年も前の話を調べているのか知らないが、二本差しってのは無粋でいけねえや。
おつと、御武家様をお相手に口調が失礼ですかい。何分、手前も元々武家だから、御武家様を殊更敬おうつていう気がなくってね。無礼な口を利くようだけど、性分だと思って勘弁して頂きたく申し候ってな。
永井紗耶子「筋書かく語る」
スラリとした導入ですわ。小説は語り手の独白でございます。この手法では最後まで一人称の独白が続く。ということは短編です。中編長編でこの手法を使うことはできません。やってもいいけどダレてしまう。また物語は単刀直入に核心に突き進んでゆかなければなりません。
語り手はすぐに戯作者で戯曲(芝居)作者の七文舎鬼笑こと、野々山正二だと明かされます。江戸後期に活躍した元旗本次男坊の文人です。永井先生は江戸後期の芝居小屋周辺を取材してお作品を書いておられるわけです。「木挽町の仇討」は連作短編で、ある御武家が仇討ちの真相を様々な人に取材して歩く体裁です。質問者の御武家が何者かは連作中で明かされますが、本質的には「面白い物語を読ませて」とせがむ読者だと言っていい。御武家の、読者の興味といっしょに物語は進んでゆく。有吉佐和子の『悪女について』以来の小説手法です。
すると喜兵衛は苦笑した。
「遊びだと割り切つていたとしても、ひょいと情が顔を出すことだってある。明るく楽しいだけの奴なんてこの世にいねえよ。どんな奴も手前の中の暗い闇やら泥やらと折り合い付けて、上手いことやつているだけだ。そいつを見せ合う相手が欲しいと思うのも情つてもんさ。それが葛葉にとってはお前さんでも、お前さんにとつては葛葉じやなかつた。それはそれで仕方ねえけど、情は情だと分かつてやりな」
いつもは陽気は兄貴分の喜兵衛の声が、静かで落ち着いて聞こえた。
「兄さんにはいるんですか、そういう相手が」
すると喜兵衛は首を傾げた。
「さあ・・・・・・いたり、いなかつたりさ。こればつかりは、着物を脱ぐとか脱がねえとかとも違う話だ。見せ合う相手は女とも限らねえ。男かもしれねえし、木やら石やら、仏みてえなもんかもしれねえ。ふいとこいつに預けたいと思えた時に、少しだけ心持ちが楽になる。一時でも葛葉にとつてお前さんがそういう男だつたつてことは悪いことじやねえよ」
同
七文舎鬼笑(俺)は裕福な旗本の次男坊で気楽な身分でした。それをいいことに年上の従兄の喜兵衛と若い頃から吉原などで遊び回ります。両親は渋い顔をしますがさして咎めません。真面目な兄が家督を継ぐことになっていたからでです。
俺は吉原で三番手くらいの花魁・葛葉と馴染みになります。置屋で恋仲と噂されるくらい親密です。しかし俺には親が定めた許婚がおり、結婚するかどうか迷っていますが、葛葉と深い仲になる気もない。葛葉も「お蔭さまで里に来てからは若様と同じく苦労したことはござんせん」と「からりと笑う」気っ風のいい女でした。この葛葉が旦那に身請けされることになります。俺は葛葉に別れを告げるために吉原に出かけていった。
「御祝儀はいらないからさ、時折、遊びに来ておくれよ」
夜中に目を覚ますと葛葉が俺の顔を覗き込んで真顔でそう言った。葛葉は本気で俺に惚れていたんですね。俺は返事ができない。葛葉は「御酒がきつうござんした。御水を貰つて参りんしょ」と言い残して部屋を出て行きそのまま戻って来なかった。切ないですね。
どうすればよかったんだろうと悩む俺に喜兵衛が言う言葉は九鬼周造の『「いき」の構造』ですね。時代小説では過去の時代特有の〝縛り〟が表現されていなければ面白くなりません。お作品の切迫感も生じません。永井先生はそれをきちんと踏まえていらっしゃいます。
また本音を、心の底の情を露わにするのは「女とも限らねえ。男かもしれねえし、木やら石やら、仏みてえなもんかもしれねえ」という喜兵衛の言葉が俺を突き動かします。
すると五瓶は、にかっと歯を見せて笑う。
「面白がる言うんは、容易いことやあらしまへん。それこそ芸や」
どこか誇らしそうに言う。
「わしや、芝居小屋の木戸番の子で語り草になるような人生はこれつぽちも歩んじやいません。それでも芝居だけは仰山見てきました。女に袖にされたつて、世話狂言の二枚目を気取つて面白がる。現で割り切れない話には、都合よく鬼やら狐に幽霊が、上手い具合に話を繋ぐ。わしの頭の中は、そいつらが吐いた名台詞でいつぱいだ」
「騒がしそうだな」
「そうですねん。せやけど退屈している暇もあらしません。若様、面白いもんは、いつか誰かが何処かから持つて来てくれると思つたら大間違いでつせ。面白がるには覚悟が要るんです」
「面白がる覚悟・・・・・・かい」
思つてもみないことを言われた。俺の退屈は、誰も俺を楽しませてくれないことに拗ねていただけなのか・・・・・・と初めて思つた。
同
俺は吉原で遊女に取材したいと言って置屋と揉めていた並木五瓶と知り合います。五瓶も実在の人物で芝居作者です。俺は遊び人の気楽さで五瓶に遊女の取材をさせてやる。五瓶は上方芝居の作者で戯曲のために遊女を取材していたのですが、上方だけでなく江戸の遊女にまで範囲を拡げて取材に来たのでした。
五瓶の「面白がるには覚悟が要るんです」という言葉で俺は生まれて初めて自分で何かをやってみよう、遊里で受動的に楽しませてくれる女や太鼓持ちを探すのではなく、自分で自分を楽しませてみようと思います。俺は上方に出奔して五瓶の弟子になったのでした。
この出奔にも説得力があります。江戸時代の人に現代人のような強い自我意識がなかったわけではない。しかしそれは封建社会によって抑圧されていました。旗本次男坊がその自我意識を発揮できる場は武士の世界ではなく、遊興の世界、しかし元の出自を活かした文筆の世界だというのはとても強い説得力があります。実際文化文政期頃から元武士の文人が増えます。こういった説得力が時代小説の良し悪しを決めるでしょうね。
さて、この元武士の旗本次男坊の七文舎鬼笑は、親の決めた許嫁との結婚を解消して大坂に出奔したわけですが、元許婚は実に真っ直ぐな武士と結婚しました。その武士が殺され、元許婚の息子が仇討ちに立ったというラインが引かれています。鬼笑は元の許婚に頼まれ仇討ちを定められた息子の面倒を江戸で見てやります。そしてこの仇討ちの内情は一筋縄ではいかない込み入ったものです。そして歌舞伎者の端くれが若者を助太刀するわけですから、仇討ちだって一筋縄ではいかない。その詳細は実際にお作品をお読みになってお楽しみあれ。
佐藤知恵子
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