今号は第28回三田文學新人賞発表号で、松井十四季さんの「1000年後の大和人」が受賞された。おめでとうございます。よく文学新人賞は水ものだと言われるが、この作品なら純文学他誌の新人賞も受賞できたのではないかと思う。三田文學で久々に新人の良作を読んだような気がする。レベルが高い。
もちろん松井さんに限らずすべての純文学作家は今現在とても厳しい環境にある。よほどのインパクトがなければ純文学小説は売れない。そのインパクトには芥川賞受賞も含まれるわけで、これがまた厄介だ。
今メジャーリーグで大谷選手が大活躍しているが、彼がドラフトにかかる時に直でメジャーリーグに行こうとしていたのを当時の栗山監督が引き止めた。栗山監督と日ハムスタッフは直でメジャーリーグに行って成功した選手と日本球界を経てメジャーリーグに行って成功した選手のぶ厚いファイルを大谷選手側に渡したのだという。後者の方が圧倒的に後々の成功率が高かった。芥川賞と直木賞で同じことをやっても同じ結果が出るだろう。
理由はいろいろあるが、最大の原因はステレオタイプ化した純文学に作家の方が馴らされてしまうことにある。芥川賞的小説評価は純文学業界内部では絶対だがそれ以外の一般読書界への訴求力を著しく失っている。しかしまだ権威はあるのでとりあえず受賞作は話題になり売れる。それが新人作家たちを勘違いさせる。最大の問題は受賞後だ。徐々にフェードアウトしてゆく作家が多い。
まあ言っちゃ悪いが三田文學新人賞はそれほど文学業界で力がない。もちろん新人賞受賞はチャンスなわけで後は作家次第というのは他の新人賞と同じだ。ただ「1000年後の大和人」は文學界新潮好みの作品でもあり、そこで賞を受賞すれば一定のレールが敷かれたような気がする。松井さんはとりあえずそんなレールには乗らなかったわけで、これは嘉すべきことだと思う。
鬼滅の刃とうっせぇわに辟易しながらバックミラーを見ると8人の保育園児が緑と黒の格子柄のマスクをしながらうっせーうっせーと叫んでいた。幼児バスのハンドルは重い。20歲で乗った三菱のジープを思い出した。もうパワーステアリングの意味すら誰も知らないんだろう。ここは自動車天国である。だから僕は運転手。
白庭台という僕がハンドルを握った頃には影も形も無い町があった。近鉄電車が何十万人という人から数百円ずつ集め、それを銀行に見せつけて何十億も集めて作った町だった。白庭台の駅前には白庭病院があり、キッズ英会話があり、マンションがあり、パン屋があり保育園とマクドナルド、それにスタバもあった。僕ら奈良に古く住む者からしたら憧れ半分と涼やかな目が半分といった町だった。僕はその白庭台に住み始めた8人の園児を日々送る役目を社会で担っていた。もう3年目の仕事だ。
松井十四季「1000年後の大和人」
とてもいい小説の始まり方だ。小説の主人公はタケオで僕の一人称独白形式の小説である。広義の私小説といっていいのだが「白庭台の駅前には白庭病院があり、キッズ英会話があり、マンションがあり」というように僕の視線は外界に向けられている。外界が内面化されておらず僕は社会と繋がっている。僕は社会を批判し社会から批判されるだろうということである。社会性を欠如させたお気楽純文学作家の文体ではない。
「バイトしない、また」
「マジ?」
「今日は、ヒマなんだよ」
「きょうぅー?」
マキ先生の思案顔は見るまでも無かった。僕は信号で止まった。それからワイパーを一度かけた。ガラスに止まった羽虫が潰れたのが見えたが音はしなかった。(中略)
「3万?」
「そうだ」
「貰いすぎじゃない?」
そんなワケ無いだろう、と僕は思いつつもあげすぎだろうかと考えた。それから車を発進させて白庭台から離れていった。
同
僕は怒りを内向させ鬱屈させた善良な市民の一人だ。幼稚園バスの運転手の仕事をキッチリと勤め結婚して妻もいる。妻は僕よりも稼ぐキャリアウーマンで強依存の女だ。家に帰るとすぐに僕にまとわりついてくる。家事は一切しない。すべて僕の仕事だ。ハグをしないだけで「愛してないじゃない」「捨てられるんだ、私」と「夜中まで大騒ぎ」になる。「明日の朝までの我慢だった。それが毎日だった」とある。僕は妻と別れたいのだが恐らく別れないだろう。妻には自分が必要なことを知っている。重く鬱陶しく自分勝手な愛をふりかざしてくる妻と別れても僕の現状は変わらない。
僕はまた妻に内緒で女とのセックス動画を撮ってネットにアップして小遣い稼ぎをしている。保育園のマキ先生もセックス動画の相手というかモデルの一人だ。売春の暗さは一切ない。保育園の先生は薄給だ。マキには彼氏がいて結婚の約束もしている。セックス(浮気)もポルノ動画の製作も退屈な日常を紛らわせるためにある。僕もマキもそれは変わらない。また彼に内緒で浮気してポルノ動画をネットにアップするのを許しているが、マキが保育士失格というわけではない。「給料が低すぎる。笑えるほどに低い。でも皆どこか子供が好きでこの仕事をしていた」とある。僕はもちろんマキの身元がバレないように動画をアップしている。僕は残酷でかつ優しい。
もうヴァイオリンのG線のような声音は無かった。暖かいストーブのような力強さがあった。僕は忙しかった。妻のミケとは別れなきゃいけないし、60歲になったら油絵を再開する約束を誰かとしたし、エロ動画を売った罪で警察に捕まらなきゃいけないし、儲けた金は全部寄付しなくちゃいけない。直近じゃバイクの車検もあるし、固定資産税もあるし、今からマキ先生とラブホに行かなきゃいけない。もう地獄だ。
同
僕は行き詰まっている。だからやることが山積みだ。結婚したからには別れなければならない。油絵を描いて若い頃に賞をもらって才能があるという評価を受けた。今はやめているが60歲になったら再開して大画家にならなければいけない。エロ動画を売ったのだから警察に逮捕されなきゃならないし、エロ動画で金を儲けたが金が欲しいわけではないからかわいそうな子供たちのためにそれを寄付しなければならない。マキ先生と約束したのだからラブホに行かなきゃならない。どれも大事だがどれもこれも僕の閉塞感を打ち破る決定打にはならない。
坂道を軽快に下っていく。歩道にコートが見えた、見覚えがあった。実母がコム・デ・ギャルソンの派手なコートを着て3歲くらいの男の子と手を繋いで坂を下っていた。実母はノース・フェイスを着た男の子のマフラーを巻きなおして微笑んでいる。幼児は鼻水を垂らしながら「ぼくしゃあ、ゆきすきやねん」と言っている。また手を繋ぎ直して歩き始めた。僕は自分の手を見た。毛が生えていて傷があり爪はいびつな形をしていた。信号がアオになった。雪と目にその青色が反射した。左に曲がっていく、ドアミラーにちらりと幼児と実母が移った、それを僕は背後に置き去りにした。
同
ザラザラと残酷な現実はアルケーを求める。僕は大雪に降り込められてマキとラブホで一晩過ごし、マキを家に送ってから車を走らせながら母親に手を引かれた幼かった頃の自分の姿を幻視する。小説的無意識が雪、白、白紙還元を表現させている。僕はいつでも白紙に戻れる。そうしなければならない。現実が残酷だからこの抒情は美しい。小説の最後は「このままじゃいけない、このままじゃ。僕はそう決意しながら乾いた目で大雪の大和路を睨んだ」である。
「1000年後の大和人」は70年代安保後の閉塞感を色濃く反映させた村上龍の『限りなく透明に近いブルー』を少し想起させる。現代もまたぶ厚い閉塞感に包まれている。誰かが、いつかはこの閉塞感を打ち破らなければならない。
小説的に言えば作家には今後、プロットのない私小説的純文学の方に突き進むか、プロットを立てて現代社会全体を描き出すか二通りの道があるだろう。どちらの道を選んでも得るものと失うものがある。どちらの道を選んでも先は長く険しい。ご奮闘と幸運を。心から。
池田浩
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