ほとんどの小説は読んだ端からすぐに内容を忘れてしまう。文芸誌には多くの作家が書いているので読んでいる時は作家の名前を強く意識するが、それもすぐに忘れてしまう。ただずっと印象に残る小説もある。それほど多くはない。
印象に残る小説では必ず事件が起きている。この事件は殺人などの社会的大事件とは限らない。ほんの些細な心理の動きでも、それを作家が大事件として描き切っていればいいのである。そういう意味では、なにかが起きそうで決して起こらない純文学小説はすべからく失格だ。事件が起こらない純文学小説は最初の数ページを読めばすぐにわかる。引き延ばしがある。主人公の心理を薄く引き延ばして枚数稼ぎをしている。そこにあるのは純文学的アトモスフィア、雰囲気だけである。
なぜそんなことが起きるのか。純文学とはなにかを定義把握しないまま毎月純文学小説を掲載してゆかなければならない純文学雑誌があるから、というのが最も現実的理由だ。またどんな場合でも創作者はお手本になる作品がなければ創作できない。純文学アトモスフィア小説が文壇で評価されればそれに右ならえして作家は純文学モドキの小説を書くことになる。
さらに悪いことに純文学アトモスフィアはほとんど純文学そのものに置き換わってしまっている。しかし非常に深刻な矛盾がある。そんな小説は売れない。古典と呼ばれるような近・現代文学の傑作・秀作小説は読者が面白いと惹きつけられ夢中で読み耽った小説である。読むのが苦痛に感じられる小説が傑作・秀作として残ることは非常に稀だ。
純文学小説が売れないのは当たり前だ。そのほとんどが優れた小説ではないからである。制度的に大衆文学に分類されていても心理を含む大事件が起こり、読者を惹きつけ強く印象に残る小説こそが純文学の第一関門を突破している。
井上荒野さんはかなり高い確率で強く印象に残る優れた作品を書く作家の一人である。彼女はどこから見ても純文学作家である。もちろん作家本人がどう思っておられるのかは知らない。作品の質の問題である。
「はー、疲れた」
安奈はベンチの背もたれに頭を預けて、空を仰いだ。いつもの安奈だった。「はー、疲れた」は口癖なのだ。
「錠剤Fだっけ?」
私は言った。
「そう。ドクターFのね」
安奈は言った。そのドクターFとやらと、安奈はネットで知り合ったらしい。そういうサイトがあるということは、知識として私も知っていた。
「なんかあったの?」
肉まんをひと口食べて、私は聞いた。
「とくに、なにも」
安奈は咀嚼しながら、宙を見て答えた。
「理由なくたっていいじゃん。私の勝手じゃん」
「まあ、そうだね」
私が言うと、安奈はクスッと笑った。
「〝まあ、そうだね〟ばっかだね。みちるさんは」
井上荒野「錠剤F」
井上荒野さんの「錠剤F」の主人公はみちるである。短編だが主要登場人物に安奈がいる。事件のきっかけを作るのは安奈である。
みちると安奈はハウスクリーニング会社で働いている同僚だ。安奈の口癖は「はー、疲れた」でみちるの口癖は「まあ、そうだね」である。それだけで二人が互いのことを深く理解し合っている親友ではないことがわかる。言っても言わなくてもいいような、とりあえずの言葉で会話を続けているからだ。本当はあまり話すこともない。偶然同じ職場で働いているだけの関係に過ぎない。
みちるは休日に安奈と出かける。「今日のこのあとのことも、嘘に決まっていた。でも、あるいは、だから、私はついてきたのだった。嘘だと分かったときに安奈がどんな顔で、どんな言い訳をするのか知りたかった」とある。
さして親しくもない女二人が出かけても、浮き立ったお出かけになるはずがない。会話に深みも生まれない。ましてみちるが休日に安奈と出かけたのは、なにもすることがないからという理由を除けば彼女の嘘を見破るという意地悪な目的からである。
こういった設定が井上さんは本当に上手い。小説家は主人公を知的で感受性豊かな人間として描きがちだ。人間心理を描くのが小説のメインにならざるを得ないからである。主人公が知的で感受性豊かでなければ心理描写は続かない。しかし井上さんはごく普通の、はっきり言えばあまり頭もよくないような人物設定が非常に上手い。だから小説に強烈なリアリティが生まれる。
みちるが安奈と出かけたのは彼女が錠剤Fを買うと言い出したからである。それは十万円もするのだと言う。みちるは錠剤Fも、それを買うという安奈も信用していない。すべて嘘だと思っている。ただし小説冒頭では錠剤Fが何かは明かされない。
「もうちょっとおじさんかと思ってたんだよね、ドクターF」
おじさんだったらどうだっていうのよと私は思い、「年は関係ないだろ」と男も言ったが、すでにその声にはあきらめが滲んでいた。
「やっぱりやめる。ごめんね。っていうか、ただのビタミン剤だったらまだいいけど、苦しんで死ぬ薬だったらいやだし。死ねずに後遺症だけ残っちゃう場合だってあるわけだしね」
そんなすごい薬である可能性はほとんどゼロだろうと私は思ったけど、「そうだよ」と同意した。
「死んじまえ」
というのが男の捨て台詞だった。サイゼリヤが入っているビルの前で、私たちは男と別れた。
同
ドクターFはネットで自殺用の薬を売っている若い男だった。みちるはドクターFは来ないだろうと思っていたが本当に現れた。みちるは焦る。自殺しようとしている人が目の前にいて、そのための薬を売る売人が目の前にいれば多くの人が「ちょっと待って」と止めに入るだろう。
みちるが思わず「だってそれどう見たってふつうのビタミン剤とかそういうのじゃない」と言うとドクターFが動揺した。みちるの言葉を待っていたように死にたいはずの安奈も不信感をあらわにする。さして死ぬ理由もないままなんとなくドクターFにコンタクトした安奈は、同じ理由で自殺を、錠剤Fを買うのをやめたのだった。ドクターFは「死んじまえ」という捨て台詞を吐いていなくなった。「サイゼリヤが入っているビルの前」という記述も効いている。小説的無意識が現実に存在する店の種類を的確に選択している。
それがきっかけで私たちはいくらか和やかな雰囲気になった。個人情報はあまりオープンにしないほうがいいと警戒しつつ、自分たちについて少しずつ喋った。私と安奈が派遣社員で家事代行会社で働いていること。ドクターFとシンヤはともに高校を中退した十九歳で、「バイトしながらバンドとかやってる」こと。中退した理由を私も安奈も聞かなかった。そういう話はしたくなかったのだ。その代わりのように安奈が「弟~」とふざけ、シンヤが「お姉さま~」と応じた。私はちらりとドクターFを窺った。すると彼はニカッと笑った。
「楽しいっすね」
「まあ、そうだね」
「楽しいよね」
安奈が言い、
「マジ?」
とシンヤが言った。
同
目的がなくなったみちると安奈は居酒屋に入って飲み始めた。その店に偶然ドクターFが友だちらしき男と入ってきた。二人とも酔っていた。みちるは驚いたが、さらに驚いたことに安奈が立ち上がって二人と話し始めた。「あっちの席、行こうよ」安奈にうながされるまま、みちるは四人で飲むことになった。ドクターFは自殺用の薬を売っていることについて「しゃれですよ、しゃれ。反応する人がいるとは思わなかった」と言った。
ついさっきまで緊張したやり取りをしていたドクターFと、詐欺を働こうとしていたのかもしれない彼らといっしょに飲むのは唐突な展開かもしれない。しかしみちるも安奈も目的がない、何もすることがないのだ。それはドクターFも同じである。詐欺を働く覚悟を据えていないからあっさり錠剤を売るのを諦め捨て台詞を吐いて逃げるように立ち去ったのだ。
またこの展開は何よりも事件は起こる時には起こることを描いている。小説的な伏線を張って起こる事件は衝撃が少ない。気付いた時には取り返しようもなく起こってしまう事件が読者に強い衝撃を与える。この事件の本質は最後までこの小説で維持される。
今では先導しているのはドクターFで、シンヤは安奈と並んで歩いていた。(中略)このふたりはいいムードだなと私は思った。ということは私に残されたのはやっぱりドクターFか。イエーッと、橋の中央で彼が叫んだ。さっきの居酒屋での「いえー」よりもずっと本物っぽい――心の底から楽しんでいるような声だった。私はなぜか、サイゼリヤの前で別れたときの「死んじまえ」という彼の声を思い出した。あれも心から憎んでるみたいな声だった。誰のことをかはわからないけど。
橋の中央は暗かった。ちょうど、ドクターFがいる辺りだけ、街灯の明かりが届いていなかったのだ。でも私には、彼が欄干に足をかけて体を引っ張り上げているのが見えた。安奈とシンヤにもきっと見えていただろう。何が起きようとしているかわかったときにはそれはもう起きていた。ドクターFは、そう名乗った十九歳の男は、そのシルエットは、陸橋の上からふっと消えた。
同
居酒屋を出て四人で陸橋を渡っている時にドクターFは「いえー」と楽しそうな、それでいて「死んじまえ」と言った時のような切迫した声をあげ、唐突に陸橋から飛び降り自殺した。なぜ彼が自殺したのかはわからない。一切の説明はない。しかし事件は起きた。「何が起きようとしているかわかったときにはそれはもう起きていた」。
伏線に沿って結末に進むのだけが小説ではない。決定的事件によって物語全体の意味が示唆される小説もある。「錠剤F」は後者のタイプの小説である。ただどう解釈しても読者に強烈な印象を残すのは事件の唐突さ、その決定的なまでの取り返しのつかなさである。お見事。
大篠夏彦
■ 井上荒野さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■