文学の状況は刻々と変わっている。ひところ、純文学小説新人賞の受賞作には海外留学経験を題材にしたものがちらほらあった。まだ帰国子女的な心性が珍しかったからである。しかしすぐに陳腐になってしまった。今ではそういった小説はどこにでも溢れている。
LGBTをテーマにした小説も目新しかった時代がある。松浦理恵子さんの『親指Pの修業時代』はもはやLGBT小説古典と言っていいが、平等意識の高まりとともにLGBT小説が激増した。作家がLGBTをカミングアウトするのは今でも多大な勇気が必要だが、いかなる批判も御法度という社会的コンセンサスが出来上がりつつある。ただLGBT小説の激増によって、新人賞などもそれだけでは受賞できなくなりつつある。
このほかにも日本語が母国語ではない外国人による純文学小説、ハイブリッドで肌や髪の色が違うが日本人として育った作家の小説なども増えている。作家が小説で自己表現しようとすれば、自らの最も特異な点を探すのは当然のことである。だから様々な他者との差別点が小説で表現されることになる。
しかし小説に限らずどの世界でも競争はある。これがウケるとわかれば多くの人が殺到する。そうやって当初は新鮮だった特異色がどんどん普通のものとして色あせてゆく。芸能人や文化人の小説、歌人俳人詩人の小説、その逆の小説家の詩など、文学の世界にはこれからもトレンドが浮いては消えてゆくだろう。波に乗れるのはラッキーな最初の作家だけであり、後発作家はたいてい乗り遅れる。もちろん乗り遅れてもいい。流行はすぐに終わる。
またLGBTを始めとする平等概念が社会に浸透して定着しているのは、それ以上に社会全体の歪みが厳しくなっているからという面がある。LGBT、男女平等、モラハラ、セクハラ排除などは、ちょっと語弊があるがタダ(無料)である。「やめよう、禁止しよう」と認めても誰の懐も痛まない。少なくとも社会の上辺ではそうである。しかしいったん利害が絡めば微妙な圧力がかかる。平等概念に比べて懐に直結する貧富の格差などの社会問題が非常に深刻なのは言うまでもない。
富を独占する者は決してそのノウハウを公開せず富の再分配にも慎重だ。追いつめられた者たちは声高に政府の施策を責め社会保障を求めるようになる。自助努力という言葉を嫌う。自助努力ではもうどうしようもない所まで追いつめられていると訴える。そういったギスギスした現代社会をオブラートにくるんでなだめるために平等という耳に優しい大義名分が流通している気配がある。もちろん小説はそういった表層ではなく現代社会の本質を描かなければならない。
ところが数日まえのこと、若い営業部員から持ちこまれた資料を目にして、わたしはほとんど流れ作業になっていた判子押しの手を止めざるを得なかった。少しのあいだ、唸った。気を取り直して判子をまた握ってはみたが、やはり押せなかった。それはポスターのカンプで、中央の大部分を占めるようにひとつのイラストが描かれている。黒々とした短髪に凜々しい眉、大きく見開かれた瞳にすっと通った鼻筋、口角のもちあがった唇からは白い歯が覗き、その笑んだ男は腰に小さな布しか着けていない。問題はそれ以外にあった。それ以外の全部と言っていい。顔や首、胸や手足をおおう皮膚のすべてが、ピンクとしか言いようのない、目にしみるような色で塗りつくされているのだった。背景が黒一色で覆われているせいで、その肌はよけいに烈しくわたしの目を刺激した。(中略)
「完全にアウトとは言い切れませんが、リスクは否めません。部長はどう思われますか?」
事なかれ主義の組織の長がどう反応するかは、想像がついた。デスクに広げたカンプを小さな老眼鏡をあげさしして観察していた部長は、長いため息をひとつ吐いたのち、案の定、わたしに想定通りの指示を出した。
杉本裕孝「ピンク」
杉本裕孝さんは第120回文學界新人賞受賞作家(二〇一九年)で、以前「将来の夢」という作品をこの時評で取り上げたことがある。正直あまり感心しなかったが「ピンク」を読んで「ああ上手くなられた」と思った。作家は作品を重ねるごとに技術的にも内容的にも成長してゆくのが理想である。理想ではあるがなかなかそううまくはいかない。「ピンク」は作家の成長と成熟を感じさせる作品だった。
主人公はわたしで広告会社の法務局で働いている。広告製作物の表現審査が仕事だ。広告マンも世の中の大勢はわきまえており、わたしはたいていは提出された資料に判をつくだけでよかった。ところがある日、微妙な案件が持ちこまれた。皮膚がショッキングピンクで塗られた男の肖像画を使った広告だった。肌の色を強調する表現に対する世の中の視線は厳しい。わたしは判をつくのをためらってしまう。はたして上司は再考をわたしに指示した。
母を訪問するたび、デイヴィッドは初めましてから始めなければならない。彼に対する母の態度は、初めよそよそしいものに過ぎなかったが、訪問を繰り返すうち、徐々にそっけないものへと変わり、そのうち冷淡さを備え、やがて攻撃的になった。挨拶のハグをしようとする彼を叩いたり、蹴ったり、またあるときは、もっていた鉛筆の尖った先を振り回したこともある。そのたびにわたしはあいだに割って入るのだが、彼女の興奮が容易に収まることはない。そこからの処しかたはデイヴィッドの方が長けていた。
ごめん。無理してぼくに付き合ってくれなくても構わないよ? 以前、訪問後に車内で謝ると、なぜ謝るの? 彼は心底わからないといった顔をこちらに向けた。わたしが胸を詰まらせながら説明不要なはずの理由をなんとか絞り出すと、彼はあっけらかんとした口調で、あれはただのスキンシップさ? 笑みをさえ吹きこぼしながらそう言って、わたしの手を握った。わたしは黙ってその手を握り返すしかなかった。
同
わたしはゲイで身長二メートル近い黒人のデイヴィッドと結婚している。しかしLGBT小説によくあるスキャンダラスな要素は一切ない。デイヴィッドとの関係は良好だ。わたしは元々アメリカで働いていてそこでデイヴィッドと知り合ったのだが、母が老いて痴呆状態が進み一人暮らしが難しくなった。母を有料老人ホームに預けることにしたがわたしは母の傍に住むことにした。その際、デイヴィッドはわたしといっしょに日本のコンサルティング会社への転職を選択したのだった。
デイヴィッドは自分の母親のようにわたしの母に接する。しかし母の反応はあまりよくない。わたしは母のデイヴィッドへの態度が「徐々にそっけないものへと変わり、そのうち冷淡さを備え、やがて攻撃的になった」ことを気に病んでいる。小説は社会的コードに触れるかもしれないピンクの肌の広告、そして母とわたしとデイヴィッドの関係を中心に進む。
いったい、わたしは何を心配していたのだろう。何を期待していたのだったろう。広告会社の提案したキャラクターを広告主が喜び、原作者も喜んだ。これ以上のハッピーエンディングはないはずだった。しかし、なぜだか手放しで喜べない自分がいる。もやついたものが胸にあって、どうにもすっきりしない。まさか――不意に過ぎった仮説はわたしを静かに打ちのめした。わたしは火野不二男という、考えてみればたった一度会っただけの、よく知りもしない青年に、勝手な憧れと憐れみの情を寄せていた。情を寄せながら、彼の成功を願いながら、実のところ、彼が厳しい現実に打ちひしがれるところをみたかったのではないか。そして、息子に寄せる母の期待などそう簡単に報われることがないことを証明してみせたかったのではないか。力及ばず、申し訳ない。そうあたまを垂れ、他人の躓きに気持ちよく涙したかった――だとしたら、わたしはなんと善良ぶった、卑しい傍観者だろう。からだの底から怖気が胸へと迫りあがってくる。
同
異例のことだがわたしはピンクの肖像画の作者・火野不二男に会った。美術大学への進学志望だが学校とも勉強とも相性が悪く、引きこもって絵ばかり描いている青年である。母親は息子の絵が広告に採用されたことを喜ぶが息子を心配してもいる。初対面のわたしに息子のことをよろしく頼むと何度も頭を下げる。それがわたしの母の姿に重なる。
わたしの母は厳しいピアノ教師だった。ピアニストになることはできなかったが、芸術家を育てるという夢を持っていた。青年時代までわたしは母の期待に添った画学生でアメリカ留学までした。しかし画家にはなれずアメリカで就職したのだった。不二男とその母にわたしは自分の母息子関係を重ねる。本物の芸術家のイメージを彼に垣間見もする。しかしそれは幻想だった。
社会的コードに触れることを恐れ、わたしの会社は不二男の絵に改変を加えた。広告主は和菓子屋で商品の原点が素甘(ピンク色の餅菓子)だったので、角を付け加えてユーモラスなスアマ君というキャラクターにしたのだった。元画学生だったわたしはそれは「いちばんやってはならない改変」だとショックを受ける。原画が持っていた迫力すべてが失われてしまっていた。しかしそれを見た不二男の反応は意外なものだった。「すごくいいです。かっこいいです」と不二男は本心から喜び、広告マンに「俺も生やしてみようかな・・・・・・角」と、わたしには決して見せなかった笑顔で冗談を言った。
わたしは二つの意味で現実に衝撃を受ける。一つは他者は自分ではないこと。引きこもって絵を描いている不二男にわたしは本物の芸術家(画家)という理想的イメージを見た。もちろん将来不二男が実際に画家として立つ可能性はゼロではない。しかしわたしが見ていた画家のイメージはわたしのものでしかなかった。不二男がわたしのイメージ通りの画家なら彼は自作の改変に怒り狂ったはずなのだ。だが現実は逆だった。
またわたしは自分が無意識に作り上げたイメージで、不二男に「情を寄せながら、彼の成功を願いながら、実のところ、彼が厳しい現実に打ちひしがれるところをみたかったのではないか」と考える。実際法務担当者であるわたしは不二男の絵には問題があると指摘したが、最終案を決定する権限を持っていない。事はわたしの予想通りに進むがそれを傍観し、その結末まで自分なりに予想していた。
この後、わたしはなぜ母がデイヴィッドに対して攻撃的なのか、その理由を告げる。LGBT小説に読者が暗に期待するようなゲイのパートナーに対する母の反発から、という理由ではない。小柄で痴呆が進んだ母は、黒人で身体の大きなデイヴィッドが本能的に怖いのだ。それはわたしにもデイヴィッドにもどうしようもないことである。デイヴィッドはそれを受け入れさらにわたしが思ってもみなかった解決案を実行する。小説はハッピーエンドで終わる。
「ピンク」という小説は純文学的クリシェから言えば少し物足りないかもしれない。ゲイの世界の特殊性、その情報的新し味は一切描かれていない。母とわたし、デイヴィッドとの関係も今注目のLGBT問題とはほぼ関係がない。これが日常なのである。そんな日常を描くLGBT小説があってもいい。またこのプロットなら大衆小説とはいかなくても中間小説として展開し得る可能性を持っている。作家がうんと若ければ恐らくセンセーションを狙える題材ではある。しかしそうはなっていない。こういった作家の成熟もあっていいと思わせる秀作である。
大篠夏彦
■ コンテンツ関連の本 ■
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■