当たり前だが小説には謎がなければならない。読者は家とか電車の中で、つまり基本的に安全な場所で小説を読む。退屈な日常を退屈だなと表現した小説は、そうとうな筆の力がなければ読者を惹き付けられない。よくツカミということを言うが、最初に読者をツカム仕掛けがあるのが理想的だ。
もちろん純文学作品の場合、大衆小説のように読み始めて数ページで殺人事件が起こったりしない。だが「それからどうなるの?」と読者の興味を掻き立てる必要はある。起承転結で進む単純な物語は書きたくないというのが純文学作家というものでもあるだろう。しかし物語の力は強い。テレビを見ても映画、ドキュメンタリー、マンガでも読者を牽引してゆく最大の力は物語だ。
この物語のフレームを壊そうとするのも純文学のあり方である。ただそれが目的化してしまうのはどうなんだろう。強靱な物語の力を活用しながら、プラスアルファで純文学性を表現する方法もある。しかしそれを意図的にやっても日本の文壇ではたいてい大衆文学に分類されてしまう。それだけ純文学というジャンルの掟がきつい。純文学というカテゴリーは自然発生的なものではあるが、純文学作家養成システムは確かにある。
女子たちってああいうのほんと好きだよな。ああいうのって? ほらあれみろよ。うんざりしたような声をこぼす翼くんにぼくがたずねると、翼くんはあごで教室の隅を指し示した。目をやると、凜ちゃんが床に跪き、その顔と手を向けられた瑞穂ちゃんが交差させた両手を胸にあてているところだった。あーまたやってんだ、マリアさまごっこ。そう言ってうしろからじゃれついてきた俊輔くんの腕をかわしながら、ぼくはそれに名前がついていることを知った。おめでとう、恵まれたおかた。主があなたと共におられる。あれから次の休み時間に、麗奈ちゃんはいつも一緒に学校に通っている梢ちゃんの机に行って、片方の膝を床につけると、顔と手を梢ちゃんに向けてそう告げた。すると梢ちゃんはまるくておおきな目をうるうるとさせて両手を胸にあてた。たくさんの男子がみていた。麗奈ちゃんはまるい頬を赤くしてうれしそうに微笑んでいた。
(杉本裕孝「将来の夢」)
杉本裕孝さんの「将来の夢」の主人公は小学生のぼくである。大使館に住んでいて母親との母子家庭なので、母が外交関係の仕事に就いているのだろう。大使館近くのキリスト教系の学校に通っている。読んでわかる通り、僕の一人称一視点小説である。つまり僕の内面独白によって外界が描写され、その意味が――すべてではないが――解釈され表現されるということだ。
小説冒頭でキリスト教の無原罪のお宿りが描写される。どうでもいいトリビアだが、キリストはユダヤ教エッセネ派という禁欲集団に属していて、彼らの中にはセックスは罪だという考えがあった。マリアの懐妊が無原罪で聖なるものとされた理由である。女の子たちが「マリアさまごっこ」をしているのは、小学生ではあるが、彼らの中にすでに性の目覚めがあることを示している。ジェンダーではなく生物学的な本能に従って女の子たちはマリア様ごっこをしているようだ。
大きな事件は起こらないが、この小説の始まりは読者の興味を惹き付ける要素を持っている。大使館職員の息子という、特権的でもある主人公の出自がどう活かされるのか気になる。マリア様ごっこを含むキリスト教の教え――それはマジョリティである日本人には無縁である――がどのように物語の核心として展開するのかも謎解きの要素だ。つまり物語設定のハードルが意外と高い。
ぼくはりんごを手にとって、それをまたから通していった。そしておしりの穴のあたりにりんごを押しつけた。するとおしりの穴が心臓みたいに、どくん、と動いたような気がした。でも穴には入っていかな。力をこめて押してみたけれど、やっぱり入らない。ぼくはりんごをベッドのうえに置いて、そのうえから座るようにしておしりの穴をりんごに押しつけた。でもやっぱり入らない。途中でバランスを崩して、ぼくはベッドのうしろに倒れて壁にあたまをぶつけた。
(同)
友だちの雄大くんの母親が妊娠していて、もう臨月だった。ぼくは雄大くんの家に遊びに行き、雄大君の母親の大きなお腹を触らせてもらった。雄大くんとその父親が出産に立ち会うと聞いて、自分も立ち会わせてほしいと懇願した。家族じゃないとダメなんだと父親からやんわり断られたが、ぼくは雄大くんから母親の出産の様子を詳しく聞いた。そしてりんごを使って自分も出産を疑似体験してみようとしたのである。
ぼくはトランスジェンダーなのだろうか。恐らくそうだろう。同級生の男の子たちは、女の子たちのマリア様遊びをからかい半分に眺めはしても、その特権的でもある行為を深く考え体験したいとは思っていない。しかしなぜ出産なのだろう。
シスターは赤ちゃんを産んだことはありますか? 思うより先にぼくはたずねていた。いいえ、ありませんよ。どうしてないんですか? わたくしは神におつかえする身ですので。どうして神さまにおつかえすると赤ちゃんを産めないんですか? どうしてって、それは、神のまえではきよくまずしくあれねばならないからです。どうしてきよくまずしいと赤ちゃんを産めないんですか? 間宮さん、どうか落ち着いてください。シスター、だって、だって、マリアさまだって赤ちゃんを産んでいるのにどうして産めないんですか? ねぇ、どうして? どうしてなんですか? あー、間宮くんがシスター高木を泣かしてるー。気がつくとすぐうしろに翼くんと俊輔くんと大地くんがサッカーボールをもって立っていた。(中略)わたくしは泣いていませんよ、間宮さん、わたくしは大丈夫ですよ。シスター高木のいつになく震えた声を背中にききながら、ぼくは走って教室に戻った。
(同)
ぼくがシスター高木にぶつけるのは実質的に神学論争である。雄大くんの母親もぼくの母もお手伝いの木村さんも、子どもを産むのは幸せなことだと言った。その幸福をぼくは体験してみたいと願っている。ただ旧約聖書のアダムとイヴの時代からユダヤ・キリスト教にはセックスは罪悪だという考えがある。現実の人間世界に敷衍してゆけば、その考えには確かに裏付けがある。男女の揉め事、ダメだとわかっていても惹かれてしまう男女の心と肉体を描くことを止めれば、小説は大きな主題を失う。聖職者が禁欲、特にセックスの禁忌を重視するのはそれが良くも悪くも最も人間的行為だからでもある。聖なる者はまずセックスと無縁であるわけだ。
またぼくは単に女性になって子ども産んでみたいわけではない。現実の女性たちが子どもを産むのは幸せだと言っているのに、なぜキリスト教はセックスを不浄と考えるのか知りたい。なるほど主人公はまだ小学生だから、キリスト教でいう不浄に触れたことのない存在である。しかし主人公は自己の将来を先取りしている。タイトルにあるように「将来の夢」――その残酷を感知している。キリスト教の文脈ではトランスジェンダーの罪はさらに深い。だが少年のぼくを語り手にしてしまった以上、この問題に深入りするのは難しい。ぼくは神学論争も現実的な肉体的苦悩も引き受けられない。
それなりに面白い設定なので興味のある方は実際に作品を読んでいただきたいが、当初の設定が消化し切れているとは言い難い。作家はLGBTの問題を描きたかったのか、神学と現実世界との齟齬を描きたかったのか判然としない。無邪気な子どもの夢というには深入りし過ぎている。言いにくいが作品構成(プロット立案)の段階でもっと問題を整理すべきだったのではないか。よくあるLGBT小説を書きたくなかったのかもしれないが、茫漠としたアトモスフィア小説では純文学、つまり何かの本質の〝純〟な部分を描き出す作品にはならない。
大篠夏彦
■ 金魚屋の本 ■