文學界のほかに新潮、群像、すばる、文藝のいわゆる文藝五誌の時評を始めたわけだが、まーとにかく文學界は読みにくい。どの雑誌でも時評を書く前にめぼしい作品をダーッと読んでいくわけだが、文學界が一番時間がかかる。書き方が非常に特異なのだ。その特異さは作家が違ってもほぼすべての作品で共通している。
つまり文學界的な書き方というものがかなりハッキリした形で定着している。芸能人や文化人、それに押しも押されぬ人気作家は定型化した書き方をしないが、多くの純文学系作家が文學界に書くときは文學界的文体で書く。ではなぜそうなるのか。文學界が純文学界を代表しているからというのが公式回答だろう。しかしそれではあまりに抽象的過ぎる。ちょいと下世話に説明してみたい。
ミカンとオレンジはそっくりである。これを文学に置き換えてミカンを大衆小説、オレンジを純文学小説とする。どちらも小説なのだから似ているのは当たり前だ。ただ農家(作家)によっては品種改良などの掛け合わせでミカンなのかオレンジなのかよくわからないモノを出荷したりする。市場ではたいていその出自でミカンかオレンジかに分類される。作家が大衆小説誌でデビューしたのか純文学誌でデビューしたのかによって大衆文学か純文学かに分類されることが多いわけだ。しかしまぎらわしい。
池波正太郎は小説について「(読者から)木戸銭(本や雑誌代)もらってるんだから楽しませなきゃね」という意味のことを言った。大衆小説の定義は比較的明確だ。読者を笑わせ泣かせハラハラさせる。もちろんこれら要素があるからといって大衆小説だとは限らない。しかしまあ読者を楽しませる作品は大衆小説に分類されることが多い。じゃあ純文学小説の定義はどうなのかといえば、これが曖昧だ。
芥川賞の方が注目されがちだが、小説界の中心は直木賞である。直木賞は原則として流行大衆作家の新人賞である。で、直木賞は絶対矛盾の中にあるから注目が集まりにくい。たくさんの読者を持つ大衆作家は特に直木賞という権威を必要としていないからだ。受賞しても数ある勲章の一つだ。そんなものはなくてもやっていける。じゃあこういった方法で芥川賞=純文学の新人賞を説明できるのかというと、これが難しい。芥川賞は大衆文学の反措定というのが実態だろう。
もの凄く単純化すると、純文学小説はひとまず小説の最も〝純な部分〟を体現した小説だと定義できる。となると〝純な部分とはなんぞや〟ということになるわけだが、これが日本文学では一度も定義されたことがない。誰も定義したことがないと言えるほどだ。定義の代わりにあるのは純文学を巡る〝制度〟である。これが強靱である。
下世話に言えば、純文学小説とは大衆文学のように面白くなく読むのが苦痛の場合もあるが、それでも読まなければならない、読むだけの高尚な価値があるとタグ付けされた小説である。芥川賞がそのわかりやすいタグとして機能しているのは言うまでもない。もちろん大衆小説と同じように、純文学とタグ付けされた作家の中からも大衆小説的作品で人気作家になってゆく作家はいる。しかし多くの、はっきり言えば芥川賞を受賞した純文学作家の大半が受賞を頂点として文学界からじょじょにフェードアウトしてゆく。タグ、つまり制度がなければたいていの純文学作品は流通しない(売れない)。
このタグは書き方に最も明瞭に表れる。文体などといった高尚なものではない。大衆文学とはハッキリ違う、オレンジ(純文学小説)というシールが貼られた書き方である。その発信源が文學界だと言ってかまわないだろう。他の文芸四誌では文學界ほど明瞭な書き方の縛りはない。作家は比較的自由に書いている。しかし文學界に作品を掲載する時は違う。特に芥川賞が欲しい作家はほぼ間違いなく文學界的書き方をする。遠くから籠に盛られた果物を見て、金色のシールが貼られていればオレンジ(純文学小説)である。それに忠実に従う。
純文学小説のタグ付けは言うまでもなく商品流通のためにある。書店に並んだ時などに大衆文学か純文学か一目で見分けられるようでなければならない。雑誌や本を開いた時に視覚的にわかり、数ページ読むとなおのこと「ああなるほどこれが純文学ね」と感じられる書き方である。だからと言って優れた小説だという保証は一切ない。しかし文學界と芥川賞によってこの純文学的書き方(シール・タグ付け)が成立しているので、読者の多くが茫漠とであれ純文学と大衆文学の違いをイメージできるのである。買う前からオレンジ(純文学小説)だとわかり、読む際には「難しいですよー、時間がかかりますよー」と覚悟を求められる。商品訴求の鉄則であり、そうでなければ読みやすくも面白くもない純文学小説が(いっときであれ)大衆小説並みに売れるわけがない。
で、何を言いたいのかというと、以上が〝現実制度〟だということである。日本以外にこんなバカげた文学制度は存在しない。芥川賞と直木賞という官庁的権威によって文学の質が分類されてしまうなんてアホらしいことである。お上に弱い日本人の精神性を表しているのかな、とちょっと思う。しかしこの現実制度を一人の作家の力で壊すのは難しい、というか不可能だろう。いつだって現実は恐ろしく手強いのだ。今も昔も官庁の力が強いのと同じですな。しかしそれをより良い形に変えてゆくことはできるかもしれない。そのためには〝現実制度がどういうものなのか〟を知らなければならない。
純文学小説家を志す作家がいつの間にか純文学制度に取り込まれ、芥川賞受賞を頂点として文学界から消えてゆくのは不幸なことだ。版元は慈善事業で本を出版しているわけではないので売れなくなれば作家は冷遇される。意地悪でそうしているわけではないが、純文学小説が芥川賞という制度(タグ付け)に乗らなければ売れず、芥川賞は同じ作家に二回は授与されないので結果として作家の使い捨てになりやすい。
また芥川賞は年二回、最大四人の作家に授与される。しかし年に四人も優れた純文学作家が出てそのまま生き残れるわけがない。この授与回数と上限人数は多分に商業的都合だ。本当は年1回授与、受賞者上限2人でも多いくらいだろう。そのため芥川賞が早期退職金になる作家も大勢出ることになる。そんな作家にならないためには現実制度を知り、あらかじめその陥穽を超える方法を考えておかなければならない。
またこの現実制度はスタート時点からある。文學界新人賞を受賞したいのなら、よほど内容的に斬新な作品は別として、やはり文學界的な書き方をしなければならない。新人賞を受賞したい作家はそれを肝に銘じて数年分の文學界バックナンバーを読んで書き方を学ぶ必要がある。これはほぼ絶対である。小説の鍛錬にもなる。ただそれを実践すれば文學界新人賞は超えなければならない一つのハードルに過ぎなくなる。〝現実制度がどういうものなのか〟を知ることは作家として第一線で長く活躍してゆく基礎にもなる。
学校では「モテる」ことになっている。ひやかされたり泣かれたり嫉妬されたりでごまかすのが面倒だった。みんな、おれを媒介にして何かをみたいだけだ。だからごまかすこともないと不遜に思うところもある。軽いことばをまとい、五ミリほど足が宙に浮いているひととばかり付き合った。相手の腰にじぶんの腰を打ちつけることと、そこまでの身のこなしだけを考えた。相手もじぶんも、誰とでも交換可能なただの人形だった。どの時代のどの空間の暗がりにも繰り返された、むなしい運動を反復する。個を演じ、懸命につとめる動きが、嫌悪をまじえて思いだされた。笑いに滲ませてすぐにわかれる。きらきらしたことばを短くつかう。そしてまた別の肉体にふれていく。学校の屋上。両親不在の家。森の奥。死の匂いがする。それを薄く嗅いでいるときもあったが、決まりごとのように受け入れていた。勝手に年を取ったもうひとりのじぶんが、おまえは最低だと囁いていた。草花や虫、木と石と空に孤独に親しんでこなかったことで、いつか晴れた日の心地よさに微笑むことすらできなくなる、とときどきは馬鹿に箴言めいた台詞を吐いた。知らんよ、おまえもおれだろうが、と苦々しく思う。
青野暦「穀雨のころ」
今月号は文學界新人賞発表号で青野暦さんの「穀雨のころ」と九段理江さんの「悪い音楽」が受賞された。青野さんの「穀雨のころ」の「穀雨」は農作物に恵みをもたらす雨(四月頃)のことである。稀にしか使用しない漢字であり、文体からもタイトルからも純文学を書こうとして書かれた作品だとわかる。ただその純文学文体には理由が感じられる。作家にそうしなければならない思想があるということである。
高校生活、つまりは少年少女たちの思春期を描いた青春小説の一種である。主人公格はサッカー部のエース、仙崎響(ヒビキ)である。彼はモテる。サッカーに一所懸命で次々セックスする女の子もいる。しかしヒビキは行き詰まっている。生の実感が持てない。「個を演じ」ているが「死の匂いがする」。そんな自分を高みから見るもう一人の自分がいて「おまえは最低だと囁」く。しかし「知らんよ、おまえもおれだろうが、と苦々しく思う」とあるように、自分一人ではこの閉塞から抜け出せそうにない。
(前略)淡々と授業を受け部活に行きごはんをときに半分以上残しながらも食べていた。誰かの生を踏みにじり、屍の上に立ち、傷つけ奪うことでしか前に進めないと、日記に書いた。比喩ではない、文字通りの現実としてそうなのだと付け加えた。一方で、陳腐だ、とあざけるじぶんもいた。事故に遭ったひとのひととなりを、そのときの気持ちを、人生を、孤独を、じぶんの拙いことばで追ってみずにはいられない。狂っている。ときにはノートをひろげそのひとのすごした幸福な時間、家族や恋人との時間を、すがたもかたちも知らないのに、確かに知っているはずのそれを、思いだそうとし、匂いや色まで入れて記述した。ばかみたいだ。でもやめられない。罫線を無視して、鉛筆の細かい字はどこまでも増えた。文字が増えることに満足はなく、昨日書いたことをよく消した。こんなんじゃない。こんなんじゃない。いらだって消しゴムに力がこもり、紙が破れて、それがきっかけとなり、ノート自体をばりばりと破いた。新しくノートを買いに行った。なるだけぶ厚いものを選んだ。
同
重要な登場人物に平山亜沙子(アサ)がいる。アサはヒビキの幼馴染みでサッカー部のマネージャーだ。ただ彼女もまたぶ厚い閉塞感にとらわれている。「こんなんじゃない。いらだって消しゴムに力がこもり、紙が破れて、それがきっかけとなり、ノート自体をばりばりと破いた」というのは作家の「穀雨のころ」という作品の執筆姿勢でもあるだろう。その試行錯誤の姿勢には迫力がある。
ヒビキはアサとセックスしようとするが生理が始まって未遂に終わる。二人の関係においてセックスは重要ではないということだ。そして小説末尾でヒビキは、アサは「次のステップを確実に踏みしめるための準備をしている」と思う。では同じような閉塞感にとらわれた二人のうち、アサだけが「次のステップ」に進めるのはなぜか。小説ではそれが突き詰めるほどには描かれていない。示唆されるだけである。
「やめろよ、わたしってどうして生まれてきたの、みたいな目すんのは」
エミは笑いながらそう言って、数秒後、ハツが顔色を青白くしながら微笑みを返してくるのを気まずい思いで受けとめた。もっとおおきく笑い飛ばしてやりたいような気持ちになったが、一応神妙な顔をつくり付き合ってやる。すると今度はだんだんハツの頬に赤みが差してくる。
同
ヒビキとアサのほかに、椀田初之輔(ハツ)と相沢絵未(エミ)という重要登場人物がいる。そして小説ではよくあることだが、主人公格の登場人物よりもサブ的なハツとエミの関係の方に小説の主題がスリップされて表現されている。
ハツはヒビキの親友でサッカー部員だ。サッカーは上手ではなく、その上どうも精神を病んでサッカー部を休部している。ヒビキはハツのことが気になる。エミもだ。なぜなら彼は自分に正直に精神の活動を休止して普通のサッカー部員の高校生活から静かにドロップアウトしようとしているからだ。このハツに興味を抱き、ある種の救いの手を差し伸べるのが美術部で絵を描いているエミである。
作中にエミの詩が掲載されている。お世辞にも上手いとはいえない。しかしその概念だけを、混乱した感情観念だけを撒き散らした詩は「穀雨のころ」という小説の縮刷版だ。そしてなぜ詩なのか? 言うまでもなく絵のような言語表現だからである。言語を使って言語以上の審級を求めそこで救済(閉塞感からの超脱)を模索するということである。
キャプションを見ると、「『オランスの朝』の作者」という題だ。作者のエミのことを、アサは知らないが、このひとがハツのことを面白がっているのはわかる気がした。(中略)やわらかい雨の降りそうで降らないときが多かった。穀雨のころのある日を思って、エミはこの絵を描いた。
同
ヒビキとエミは文化祭の時に美術部の絵の展示を見に行く。ハツの絵とエミの絵が展示されている。ハツの絵は「オランスの朝」というタイトルで、エミの絵はハツをモデルにしたので「『オランスの朝』の作者」というタイトルだ。この絵の解釈も詩と同じように多義的だ。ただハツが絵を描くことによって精神的な救いのきっかけをつかみ、ヒビキもエミもそれを感受しつつあるということはわかる。
小説ではその先が問題だ。「穀雨のころ」という小説は迫力がある。ただ詩と絵は小説とはまた違う表現(世界認識方法)だ。あくまで小説で「穀雨のころ」の主題をどこまで掘り下げられるのか。それを十分期待できる魅力的新人純文学作家が登場したと思う。
大篠夏彦
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