今月号には遠野遙さんの「教育」300枚が一挙掲載されている。芥川賞受賞第一作で初長編である。もちろん巻頭。遠野さんは文藝の新人賞を受賞して文藝掲載の『破局』で芥川賞を受賞なさったのだから当然ですな。文藝の新たなスター作家である。しかし「んー」なのである。「―」が500個くらい付く。「―」の記号名はなんと呼ぶのだろう。長音記号かな。だけど小説批評では〝ためらい記号〟である。なにをどうやってもあまり好意的批評になりそうにない。
この時評を読んでくださっている方は大篠という人はあんまり誉めないな、厳しい批判が多いなとお感じになっているかもしれない。それはそうかもしれないが、これでもだいぶ抑えているのである。ちょっと言いにくいが書いてもしょうがないなと思う作品については書かないようにしている。適当に作品を選んで批評しているわけではございません。
新人賞受賞を狙っている作家の卵の方たちは、各文芸誌の特徴や実際に受賞した作品が気になるだろう。新人賞を受賞していわゆるプロとしてデビューした作家は自分の作品の評価が気になるはずである。エゴサーチと言ってしまえばそれまでだが、自分の作品への批評が載っていたりすれば「やだなー」と思いながら時には目を通したりするはずである。もちろん誰にとってもあんまり気持ちのいい作業ではない。ただイヤイヤながら読んでみて、一つでもなるほどと思うことがあれば批評と小説の関係は良好だと思う。
柄谷・蓮實以降の小説批評は創作批評に傾いていて、小説をダシにわたしはこう思う、こう感じるを書くようになった。小説批評のはずが批評家の社会批判と哲学的(あくまで〝的〟ね)思考開陳の場になっていることもしばしばだ。批評家のエゴが強くなって小説と同質の創作を批評で行う(あるいは行おうとする)のが創作批評である。小説家が批評を読まなくなった大きな原因である。ま、作品とは関係ないことが書かれているわけだから作家にとっては What a relief ! かもしれない。しかし文芸批評である限り、どうやったって小説批評の枠組みからは抜けられないのだからキッチリ小説を批評するという選択肢だってある。批評と小説の理想的関係は批評が小説をきちんと読解していることからしか始まらない。
ただ小説を読んでいて「こりゃなにを書いてもムダだな」と思う作品はけっこうある。どういう作品かと言えば、典型的なのは作家が〝文壇を文学の世界そのもの〟として捉えているのが手に取るように分かってしまう作品である。
これもまあ言いにくいが、そういう作家の本は決して売れていない。しかし文壇内での評価は異様に高い。だから雑誌に作品が載れば丁重に扱われるし、どー見たって売れないよなという作品でも単行本が出たりする。文壇の権威を信じる少数の人たちが買ったりするので賞を受賞すれば最低部数は売れたりもする(そういう作家はたいてい50歳くらいまでに、ありとあらゆる文壇賞を総ナメにしてしまっているものですけどね)。
しかし作家の視線が文壇内に釘づけになっているのでそれ以外のところから発せられる声は耳に届かない。届いたとしても無視する。なぜかと言えば自分の作品の評価を決めるのは文壇人であって読者を含めた文壇外の人々ではないからである。文学青年少女は誰しも最初は少しでも良い作品を書こうと志すわけだが、文壇作家はまあ言ってみれば文壇内の評価を気にするのが習い性になってしまっているところがある。
もちろんそういった作家が生まれるのは〝文壇が世界そのもの〟と固く信じる作家を文壇が必要としているからでもある。わたしたちの社会は経済で回っている。露骨なことを言えば大金を稼ぎ出す人はそれだけでやっぱり社会ではエライのだ。しかし人間金だけではないというのも揺るがせにできない真理である。それはいろんなフェーズで言えるわけだが文学の場合、決してたくさん売れなくても文学史上、大袈裟に言えば人類の文字表現の歴史から言って絶対に無視できない作品というものはある。そんな作品をわたしたちは縮めて純文学と呼んでいる。
しかしそんな傑作、滅多なことでは生まれない。しかし純文学の土壌を用意しておかなければさらに傑作を生み出すのが難しくなってしまう。また純文学作品は「面白かった」という評価だけでは不十分である。文学史、表現史、現代的状況などすべて加味して綜合的判断を下さなければならない。いわゆる小説のプロの太鼓判が必要なのだ。その太鼓判の代表が芥川賞である。純文学のために文壇というコミュニティは必要なのであり、当然、コミュニティの価値観を心から信じてくれる文壇作家もいてくれなければ困る。
この時評で何度も書いているが、純文学誌は文學界、新潮、群像、すばる、文藝の五誌がありこれらは文芸五誌と呼ばれている。が、純文学業界は絶対的に文學界文藝春秋社主催の芥川賞中心に回っている。野間文芸賞、三島賞など対抗する賞はあるが芥川賞に比肩する権威は得られていない。純文学業界の目は常に芥川賞に注がれていると言っていい。文藝が芥川賞受賞第一作と表紙にデカデカとインフォメーションしていることでもそれはわかりますよね。
で、芥川賞がいわゆる優れた純文学作品を輩出しているのかと言えば、当然「んー」である。それは見てりゃ(読んでりゃ)すぐわかる。三作に二作は似たような小説だ。小説の書き方がパターン化して固着している。パッと誌面の文字ヅラを見ただけで純文学小説だということがわかり、冒頭2、3ページを読んだだけでこりゃ事件もなにも起こらない例の純文学小説のパターンだなとわかったりする。誰だってすぐ気がつくパターンを純文学はムツカシイものだという社会的通念がモヤッと包み隠している。
もちろん作家はバカじゃないから純文学作品を書こうと思って書き、ということはスーッと読める普通の小説の書き方をあえて外している場合が多い。時にそれが前衛的に見えたりもする。だけど実際は前衛でもなんでもない。むしろ後ろ向きだ。前衛の顔付きをしていてもたいていはカフカなり○○なりを援用しているだけで手垢のついた手法の焼き直しだ。純文学業界の前衛小説はたいてい文学の過去をよく知っていて古き良き古典文学の世界を愛し懐かしんでいる作家による後衛作品である。それが文壇内、ということは芥川賞の選考基準では非常に高く評価されたりする。伝統工芸展じゃないんだからこれは問題だなと思うことしばしばである。
じゃあ僕は〝芥川賞をぶっ潰せ〟と考えているのかというと、ぜんぜんそうではない。万が一芥川賞がなくなっても間違いなく別の権威が生まれる。文学に限らず社会はなんらかの権威を必要としているからだ。
森鷗外は社会主義が勃興し始めた時代の人で大逆事件もつぶさに見た。彼は「アナーキストの言う通りに既存社会をぶっ壊したら、社会に不満を持っていた人たちが今より厳しく劣悪な社会制度を作る可能性が高い」という意味のことを書いている。鷗外先生は現状の社会を改良してゆく方が良いと考えたわけだ。もちろん鷗外先生の期待通りにはいかず、先生が所属した陸軍が暴走して日本は太平洋戦争に突入したわけだ。しかし既存制度を壊してもヒドイ混乱を経て同じような制度になってゆくのも間違いないだろう。それを改良するのは既存制度の改良よりも時間がかかるんじゃなかろか。
僕は純文学の芥川賞一極集中化、そのどう見ても不可思議な選択基準は修正され相対化されるべきだろうなと思っている。もっと言えば芥川龍之介的私小説を尊重する芥川賞はこれはこれで存続していただいて、拮抗する別の権威(評価軸)が生まれればさらにいいと思う。だたしそれには純文学の再定義が必要だ。これがけっこう難しい。
芥川賞系純文学はたいてい私を語り手(主人公)にした私小説でその内容の大半をわたしの心象内面独白が占める。会話文は少なくやたらと地の部分が長い小説で視覚的にも純文学だとすぐわかる。パターン化しているわけだが、大局から見て純文学とは比較にならないほどたくさん書かれ売れているいわゆる大衆小説と較べれば、書き方でも内容面でも純文学小説には明らかな特徴がある。だから似たような作品だけど芥川賞=純文学作品は文学業界で一つのジャンルと呼べるほどイメージ明瞭なわけだ。逆に言えば、私小説・内面独白・地の部分が長く会話が少ないない小説といった様々な特徴以外に優れた純文学とは何かをハッキリ定義しなければ、「純文学には問題あるぞぉ」と思っても現実は変わらない。
そういった高邁な理念というか理想は「賛成!」と言ってくれる人はいるだろうが、総論賛成で各論反対で終わるのが常である。そりゃそうで、誰だって今日と明日の生活(方針)が最優先である。文學界や新潮、群像、すばる、文藝様から依頼が来れば特に若い作家なら「待ってました!」になるのは当然のことだ。それを責めたりすることは絶対しません。なんの含みもなくおめでとうと言います。世界は自分一人の力で回っているわけではないですからね。様々な形で他者に認められ助けてもらわなければにっちもさっちもいかない。いつの時代でも権威が必要だということでもある。
ただ冷たいようだが相手は相手の都合で動いている。評価されれば感謝するのが当然の礼儀だが、頭っから権威を信じるのは危険だ。他者が作った権威(財産)を自分が作り上げたかのように頼っちゃいけないということである。すべて自分で決めなければならない。少しでもなんだかヤバそうだぞぉと感じるところがあるならコソッと複数の逃げ道というか進路を探っておいた方がいい。そのヒントを探るために文芸五誌の批評を書いたりしているわけです。要はまずは純文学文壇を相対化して眺めてみましょうということである。純文学界全体の相対化ですな。それは作家の視野を広げると信じています。
で、冒頭の方の議論に戻るが、何があっても文壇盤石と思っているような作家の作品は取り上げない。つーか関わり合うとマジヤバイことになる。そういう先生方とは関わっちゃいけないんだなぁ。遠野遙さんはどうなんだろう。よくわからないがまだお若いから文壇に染まり切ってはいないかもしれませんね。
羽根田がポルノ・ビデオのパッケージを手にとって眺めている。この学校では一日三回以上オーガズムに達すると成績が上がりやすいとされていて、学校側から生徒にポルノ・ビデオが供給される。生徒たちが飽きないように、月に数回のペースで新作が出る。
遠野遙「教育」
遠野さんの「教育」は高校か大学くらいの学校が舞台である。世間とは隔絶された学校で生徒は一日三回オーガズムに達することを推奨されている。男女共学なので彼氏彼女の関係もあるが基本フリーセックスだ。ただ推奨されているのはヘテロ(男女)関係でゲイのことは考慮されていない。オーガズムを得るのが目的ならヘテロでもゲイでもいいようだが偏っている。また若者たちのフリーセックスOKの学校だから、いわゆるポルノ的要素が強いのかといえばそれもない。あるにはあるがそれこそありきたりなAVのようだ。
要するにセックスは運動のようなものである。当たり前だが男女の感情が絡み合わなければ卑猥な感情や描写すら生まれようがない。なんやかんや言ってセックスは読者の興味を惹きつけるのでそれなりに面白い設定なのだが細部の詰めが決定的に甘い。一日三回オーガズムというノルマは記憶に残るがそれが有効に活かされているとは言い難い。
距離をとってモニターを見つめているうちに、青いカードが私に呼びかけているように思ったのは気のせいだとわかった。一方で、赤いカードが少しずつ輝きを増しているように感じた。(中略)カードが私を呼んでいる。立ったまま赤いボタンを押した。(中略)赤いカードには(中略)モモンガの写真がプリントされていた。ゾウは青いカードのほうだった。カードは最初から私に呼びかけていたのだ。しかし疑いすぎてそれを無視してしまった。私はもう少しカードから受ける第一印象を信じるべきかもしれない。
同
学校は全寮制で健康的食事、適度な運動、セックスすべてが揃っている。授業はスピーカーから流れる音声を聞いて学ぶだけだ。ただし居眠りはできない。監視カメラが生徒たちをモニターしていて居眠りすると懲罰を受ける。では生徒たちは理想的(セックスを理想に含めるかどうかは人によるだろうが)生活を送って何を目標にしているのかと言えば透視である。定期的に小部屋に入って透視の試験を受ける。回答率が27.5パーセントを上回ると上位クラスに進級できるようだ。ただしカードは四枚なので透視能力が養われているかどうかは疑わしい。ではなんのための透視か。主要登場人物の一人もそれを問うが、実社会で役に立つとか能力を身につけて卒業後に特殊な仕事をするためではないようだ。
非常に雑な言い方になってしまうが「教育」という小説に登場する人間たちは目的を失っている。失っているというより最初から持っていない。「なんのため?」という問いや「どこに向けて?」という目的意識を持たないで「教育」に心と身体を委ねている。そしてこの「教育」はそれなりに枠組みはしっかりしているが(細部の詰めは甘い)、教育自体がいわゆる教育方針を持っていない。それを少しでも感づき反抗心を抱く者は学校から排除される。
何もすることがない、空虚であるというテーマ自体は魅力的なものだ。それが遠野さんの別の作品では輝きを放ったこともある。しかしこの作品は物語要素を散りばめただけで小説というまとまった言語有機体になっていない。空虚そのものだろうとテーマはお持ちなのだから、もっとテーマに肉薄した新作を読みたいものである。
大篠夏彦
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