スポーツと違って文学の世界の賞は時に微妙だ。賞は水ものと言われることもある。例えば村上春樹や筒井康隆、夢枕獏さんといった名だたる売れっ子作家は芥川賞や直木賞を受賞していない。貘さんはちょっと記憶にないが、春樹さんや筒井さんはたまになぜ芥川賞、直木賞を受賞できなかったんだとルサンチマンを滲ませることがある。それはまあ当然で、彼らくらい実績を上げた作家からみれば、なぜコイツがといった作家が賞を受賞していたりする。では文学賞は不公平なのかと言えばそうとも言えない。
単純に言ってしまえば巡り合わせ。巡り合わせの運・不運が賞の受賞を左右することはよくある。芥川・直木賞などのプロ作家向けの文学賞は、財団が授与することになっていてもバックには出版社がいる。完全にシガラミのない賞など存在しない。どの版元だって自社出版本を売りたいわけだから、それが微妙に評価に影響する。自社の媒体で何度も候補になるような作家がコンスタントに秀作を発表していれば、ポッと出の傑作があっても今回はコンスタント作家にしましょうかということにもなる。別に誰かが意地悪をしたり評価を歪めたりしているわけではないのだが、その時々の状況によって、後から見るとなんで? という選考結果になることはままある。
新人賞も似たようなものだ。まあはっきり言えば、新人賞応募作の90から95パーセントが箸にも棒にもかからない作品だ。簡単に言えば小説になっていない。もう少し砕いて言えば、商業小説誌に掲載され単行本として出版される小説を一度も真剣に読んで学ぼうとしたことがないんじゃないかという作品だ。作品から「創作は独自なものだろ、オリジナリティを評価してくれよ」という叫びは聞こえてくるのだが、完全に独自なオリジナリティは、はっきり言えば世の中に存在しない。そういった表現を追い求めている作家は冷や水を浴びせかけられたように感じるかもしれないが、小説のセオリーをキッチリ踏まえた上でオリジナリティを発揮しなければ新人賞というハードルは越えられない。どんな世界でも商品の顔をしていない商品は売れない。商業小説――つまり見ず知らずの他者がすんなり読める小説という大前提を踏まえていれば、最終とはいかなくても一次、二次選考には残るはずだ。そのくらい新人賞応募作でマトモな作品は少ない。
また新人賞は応募作次第だ。金魚屋で辻原登先生は平然と該当作ナシを連発しておられるがそれは稀で、商業誌にとって新人賞は一大イベントで作家の卵の購買を当て込むという目的もあるわけだから、まず必ず受賞作を決めなければならない。良作が集まっていればいいのだが、そうでない場合はまあまあの作品から選ぶことになる。最近では複数作受賞や佳作も雑誌掲載することが増えてきたが、受賞一作と決めていた時代には後で伸びた作家の処女作が選ばれなかったということもある。
何度も新人賞に応募して二次、最終に残る作家もいるわけで、そういう作家に編集部がテコ入れすることもある。新人賞は公平だと思って応募する作家は「それはないんじゃないの」と思うかもしれないが、相手のことを考えれば納得できるはずだ。新人賞は水もので出来の悪い作品しか集まらなければ編集部が困ることになる。それを毎年毎年続けていれば、新人賞ギリギリの作家を受賞前から指導することは別に不公平でもなんでもない。ポッと出の傑作があれば同時受賞とかにすればいいわけだ。一種の保険である。
そういった相手の事情を考えなければ新人賞通過は難しい。エンタメ小説を文學界とか新潮に応募してもムダということだ。それはわかりやすいかもしれないが、群像、すばる、小説すばる、オール讀物などの違いを把握している新人は少ない。メディアの背後には自社の独自性と優位を守り喧伝したい人たちがいる。では受賞者はそういった違いを把握しているのか。ある程度把握している。作品を書く力だけではなく、そんな読書の努力と読解能力も新人作家の実力の内である。ただし20代、30代で作品を書くのに手一杯の作家はたいていそんな余裕はない。それをあえてやった新人が受賞者になる傾向はある。
俳句の世界の批評は評釈という方法を取るのが一般的である。作家がいつ、どこで、なにを思って俳句を詠んだのかを事細かに解釈する批評である。小説批評は俳句評釈ほどベタではないが、新人賞などを巡る批評が正確なものだと言うこともできない。選んだからには最大限誉める、それが礼儀であり新人賞批評の大前提でもある。ただしそれは長い年月の間に検証されることになる。新人賞受賞は作家の卵にとってはようやく超えられた高いハードルだが、ほとんどの新人作家が単行本を一冊も出せないまま消えてゆく。
新人賞選評からは、今編集部と選考委員の先生方がどんな傾向の作品を求めているのかはうっすらとわかる。が、その評価は割り引いて考える必要がある。決めるのは自分自身だということだ。ただし小説新人賞受賞作は間違いなく一定のレベルを超えている。キチンと小説になっている。どんな作品であろうと、小説新人賞受賞を目指す作家は、そこだけは必ず読み取らなければならない。
男は一つ一つ商品を紹介していった。無線式、暗視機能付き、動体検知機能付き・・・・・・様々な機能を持った、いくつかのメーカーの商品を、易しく丁寧に説明する。くどくどしいのと、トンネルによる反響のせいで、男の声は徐々に催眠効果を発揮する。山彦や木霊に似た柔らかい残響が、彼の眠気を誘っていく。山彦の正体は一説によると女攫いの猿だというが、それではコンクリートに宿る神はなんだろうか、と彼は空想上の生き物に意識を攫われはじめる。立ち去るタイミングを失いそうだったので、説明が一段落したところで半身の姿勢になった。切り上げようとすると、すかさず店員が反応する。
「最後に一つ説明させてください。話を聞いた後で、何も買わずに帰って頂いてもかまいませんので」
澤大知「眼球達磨式」
澤大知さんの「眼球達磨式」の主人公はデパートに勤める彼である。三人称形式だが主人公というには彼の叙述に距離がある。作家がなんらかの目的で彼を操っている。
彼はある日、従業員向けの特売をやっているデパートの地下に行った。いつもは行かない用途不明の薄暗い通路で家電を特売している初老の男がいた。彼は興味本位で店を覗く。売られていたのは防犯カメラだった。彼のアパートの近所で、なぜか理由はわからないが、不特定多数の民家に少量のゴミを投げ込む不審者が出没していた。彼はリモコン式のアイと呼ばれるロボットを買う。覗きなどに悪用されたので今は生産中止になった製品だった。
「山彦や木霊に似た柔らかい残響が、彼の眠気を誘っていく」とあるように、彼はこの通路で現実世界から異世界へと足を踏み入れている。その後彼はまたこの通路に戻ってきてアイを売ってくれた初老の男を探すが、当然見つからない。デパートの家電販売店の人間もそんな人は知らないという。また「山彦の正体は一説によると女攫いの猿だという」という記述は物語の伏線になる。異世界に踏み込むというのはそういうことだ。
先を行くアイは、電柱から電柱へ、小停止と発進を繰り返していた。あたかも追跡されることを望んでいるかのような動きである。後ろを付けることは容易で、自分で自分の背中を追っている感覚だった。肩の力を抜いて操作していると、ふと相手のアイから飛び出したアンテナが目に付いた。見た目といい、回転のイメージといい、まるで精子にタイヤが取り付けられたようだった。近づく景色を孕ませて、妊婦の腹のように膨らませていく・・・・・・。
同
彼はアイをコントローラで操って街を徘徊させることに熱中する。アイから送られてくる動画はパソコンに表示される。とりたてて刺激的動画が映し出されるわけではないのだがやめられない。仕事を終えて家に帰るとアイの操作に熱中してしまう。
ある時、彼は同じ型のアイが徘徊しているのを見つけその後をつける。「まるで精子にタイヤが取り付けられたようだった。近づく景色を孕ませて、妊婦の腹のように膨らませていく」とあるように、アイの操作には性的イメージがまとわりつく。しかしそれが窃視とストレートに結びつくことはない。
その別のアイを追いかけているうちに、彼のアイは制御不能になってしまった。ただカメラは動画を送信し続けていて女の足が写った。不可抗力なのか意図的なのかはわからないが、どうやら彼のアイは見知らぬ女の家に行ってしまったようだった。
瓦猿を先頭に、一行は斜面を滑り降りた。ところどころ足場が悪いが、瓦猿が格子部分に手を引っ掛けてサポートし、問題なく道路に降り立った。するとすぐにアイが瓦猿を上に乗っけて、ヤモリの耳を頼りに、住宅街をひた走る。数を集めているだけではなく、役割分担を上手くしているようだった。アイは目、ロボットドッグは口、猿は手、ヤモリは耳。呼吸はしないわけだから、鼻の役は不用らしかった。彼は自分の感覚器官がばらばらになって、街を走り回っているような気がしていた。卑小な精神の檻からの、知覚どもの脱走劇。無能な看守のような遣る瀬無さが、うつろな胸に広がっていく。
同
彼はもう自分では操作できないのに、なぜか相変わらずパソコンのディスプレイに写し出されるアイの動画を見続ける。すでに現実界を離れて異界の出来事である。アイは文字通り瓦で出来た瓦猿とロボットドッグ、ヤモリといっしょに行動している。冒頭近くで示された「山彦の正体は一説によると女攫いの猿」という記述が具体化されている。また「彼は自分の感覚器官がばらばらになって、街を走り回っているような気がしていた」とある。彼がアイの主人ではなく、アイが、それが送ってくる動画が彼を支配している。
再び背もたれを摑まれ、彼は椅子ごとベッドの前まで運ばれる。(中略)女の臭いが近づいた。(中略)女の肌と触れ合った。硬くなった尖端を女の中に差し込むと、だがそれをしたのは彼だけではなかった。女のほうでも、彼の額に何かを突き立てている。彼は女の歯が当たったのだと思ったが、そうではないようだった。彼のよりも硬く、尖端の尖ったもの。額から眉間、そして瞼へと移動する。暗闇で何も見えないが、それは嘴のようだった。(中略)
インターホンの音が鳴り響いて、彼の体は起き上がった。(中略)玄関までたどり着くと、ドアスコープに向かって、首を突き出した。が、すぐに後ろから女もやってきて、ドアを開けた。待ち受けていたのは、群青の制服に身を包んだ二人の警官だった。ちょっとしたやり取りがあった後、彼は力なく頷いて、大人しく二人に連れて行かれた。(中略)自らの力では何も見ることができない以上、他人の景色を借用するほかないのだろう。しかし彼に、その付けを払う能力があるとは思えなかった。
連れ去られる彼の背中を尻目に、おれも外へ出た。ちょうどそのタイミングで女はドアを閉め、部屋の中に引っ込んだ。おれは静まり返った廊下を転がり出した。すぐに平衡感覚が狂い、景色が歪みはじめる。一回、また一回と転がるたび、たしかに激しく痛かった。
同
彼のアイが女の元に行った以上、彼は現実に女と会わなければならない。またアイがうっすらと窃視の性的欲望を秘めている以上、彼は女とセックスする。ただアイによる窃視は現実世界から異界に移行してしまっているので普通の男女のセックスではない。彼は女を犯し女に犯される。セックスの翌日、彼が警官に連れ去られるのは、彼が「自らの力では何も見ることができない以上、他人の景色を借用するほかない」人だからである。そしてアイがこの物語の主人公であることが示唆される。
この複雑といえば複雑な構成の小説に、論理的、ということは現実世界との一対一対応で解釈できる余地はない。ただ小説の所々に散りばめられた物語断片は、小説的にはすべて回収されている。キチンとした小説になっている。
ただしこのタイプの作品はだいぶ前から純文学の世界で生み出されている。正直なところ、新しさの面でも留保がある。このタイプの小説を書き続け文壇での評価が重なってゆくと、うっすらと垣間見える作家のテーマがかき消され、韜晦、つまり小説的修辞を凝らすことが小説の目的になってしまうのではないかという危惧もある。そんなことは現代詩にでも任せておけばよい。小説には別の役割がある。しかしダッチロールしながら世界を完結させた力は評価できる。新人賞受賞という形で作家としてのチャンスはもらった。To be continuedではなかろうか。
大篠夏彦
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