どうでもいいんですが、群像さんの表紙は紛らわしいなぁ。パッと見て何月号だかわかりゃしない。漢字のタイポグラフィデザインは難しいですね。図像と同時に意味として目に飛び込んできてしまう。焦点が拡散してしまうんですな。全部黒色文字ってのはちょいと変えた方がいいかも。余計なお世話でした。
で、今月号は群像新人賞発表号です。石沢麻依さんの「貝に続く場所にて」、島口大樹さんんの「鳥がぼくらは祈り、」の二作品が受賞作、松永K三蔵さんの「カメオ」が優秀作です。島口大樹さんの「鳥がぼくらは祈り、」は秀作だなぁ。上手いです。朝井リョウさんの『桐島、部活やめるってよ』をちょっと思い出した。1998年生まれのまだ23歳。これが初めて書いた本格的小説なら凄いな。売れっ子作家になる資質があると思います。
零時半、池井は家にいる。もうやめてください、金切り声聞こえる。母親の声だ。(中略)池井は眠れない。(中略)もし次に母親の顔に傷が増えていれば、俺が父親を。もしくは警察に。それをできない自分を知っている。俺もいつかああなるのか。妻を子供を殴る自分と時空を越えて対峙する。(中略)
一時半。高島は家にいる。ひとりだ。ひとりで住んでいる。(中略)父はいない。死んだ。母はいない。どこかで別の家族と暮らしている。それは彼の家族ではない。(中略)姉は消えた。ある日出ていった。(中略)どの場所で父親が首を吊ったのかわからない家でひとり眠る。
同時刻、ぼくは駅前にいる。熊谷駅だ。眠れずに散歩している。(中略)母親の働く店の前を通る。風俗だった。(中略)そんなに厭ならお父さんのとこ行けばいいじゃない。と自分のために働いているはずの母親は言った。父親の居場所は知らない。
二時。山吉は公園にいる。(中略)ライターを数度捻じる。(中略)そこに紙をかざす。(中略)紙が燃えていく。それは紙幣だった。金を燃やす。誰にも知られずに。
山吉が燃やしている金は彼の父親が彼に送っているものだった。(中略)父親の顔は見たことがない。手紙も返したことはない。それでも毎月の手紙が止むことはなかった。
島口大樹「鳥がぼくらは祈り、」
「鳥がぼくらは祈り、」の主人公はぼくである。埼玉県熊谷市に住んでいて中学生の頃からつるんで仲良くしている山吉、池井、高島という友達がいる。池井と高島はお笑い芸人になることを目指していて高島は将来映画を撮りたいと言っている。この四人が小説の主要登場人物だ。
高校生らしく時間を持て余して集まっては意味のない会話と行動を繰り返しているが、四人はそれぞれ家の事情を抱えている。池井は家庭内暴力、高島は父親の自殺と孤独、僕は母親の風俗業、山吉は母と離婚した父親から毎月送られてくる手紙とそれに同封された五万円の金。彼はその金を使わずこっそり公園で燃やしている。ではなぜ僕は友達の家の事情をよく知っているのか。
「映画、いつ撮んのお前」
と僕は高島に聞いたのだが、それこないだ言ってたじゃん。と話の腰を折られて少し苛立った池井がそのまま、
「なんかドキュメンタリーみたいにするんでしょ?」
と聞くと、やっと高島が話し始めて、ドキュメンタリーって言うか、ちがうんだよ。(中略)
「ちがうんだよ、いやもしかしたらドキュメンタリーになっちゃうかもしれないけどさ。なんか映画見てるとさ、ふとした時にさ、ああ今この人って演技してるんだよなあ、って思う瞬間ない?」
ぼくはあった。池井もあった。(中略)
「いくらうまくても演技だもんなあって。そういうのが厭なんだよね。だから、演技じゃないのを撮り溜めて、それを繋ぎ合わせて、足りないところは撮ったりするかもしれないけど、でもそうしたら、なんかいいかな」
同
高島はいつもカメラを携帯して撮っている。なにを撮っているかといえば、日常だ。特に僕と池井、山吉の三人の友達を撮っている。時には自分自身を撮ることもある。その理由は演技じゃない動画を撮り溜めて映画を作りたいと思っているからだ。それはドキュメンタリーのようだけどそうじゃないと高島は言う。この高島の撮影が小説では非常に効果的に使われている。
映画に文法があるように小説にも文法がある。国語の文法ではない。書き方の文法である。小説は大別すれば「僕、私」といった主人公が語る一人称一視点と「山田、田中、一郎、花子」といった三人称に語らせる三人称一視点小説がある。一人称一視点はいわゆる私小説の書き方で、三人称一視点は大衆文学などでも広く使われる。小説では地の部分で人物の心理描写を行うのが常套だが、三人称一視点は一人称一視点よりも視野を広げられるからだ。
ただ誰が語っているのかが混乱した小説は文法破綻を起こしやすい。読者が混乱して読んでくれないことが多いわけだ。そのため語り手の視点はなんらかの形で統一(固定化)しなければならない。しかし一人称であれ三人称であれ視点の固定化はなにかと不自由だ。
それを島口さんは高島のカメラを小道具にして解消しておられる。高島のカメラは友人たちの日常を撮り、ヒマを持て余した僕はそれを漫然と見ることがある。カメラに写った友人たちの日常から僕は彼らが必ずしも意識していないその背景を直観的に理解することがある。小説は一人称の「僕は」から三人称の「池井は」という形にスッと主体が移行する。完全に自由な視点で現実を描けるわけではないが、この方法は斬新でありとても有効でもある。
また映像は残る。人間は過去を忘れて、あるいは消し去って先へ先へと進んでゆかざるを得ない生き物である。小説でも直線的に時間が流れる。ただ「鳥がぼくらは祈り、」では高島の映像が過去として残されている。登場人物たちはそれをよすがにいつでも過去に戻ることができる(引き戻されることもある)。映像としてある過去は現在と同じように生々しい。自分は変わったが変わっていなくもある。小説はいつでも過去を現在として描けるということでもある。大袈裟に言えばこれは新たな小説文法の創出かもしれない。
「親父が自殺した」
その声がスマホから聞こえて、それがたしかに池井の声だと実感してから、電話を切るまでの時間を高島は時間として認識していなかった。川が流れていたがそれは時間とは無縁だった。
「わからん、なにがなんだか」
「自分がそうならないわけがない」
って思わないか?
電話でも会話を無意識に反復した。会話ではなかった。反復でもなかった。池井の言葉だけが鼓膜にこびりついた。それが何度も木霊した。
同
語り手の視点をよくある曖昧な純文学的手法で拡げるのではなく、高島のカメラを使ってしっかり具体性を持たせたように、「鳥がぼくらは祈り、」では小説半ばくらいでキッチリ事件が起きる。家庭内暴力をふるっていた池井の父親が突然自殺したのだ。池井は少年らしく泣く。父親を憎みながらそれでもかけがえのない父親だったと思う。アンビバレントな感情を隠さない。また自分も将来妻子に暴力を振るうだけでなく自殺するのではないかと怖れる。それを自殺で父親を亡くした高島に話す。言葉にするとありきたりだが少年たちは自分で考えて自分で立つ大人にならなければならない。「鳥がぼくらは祈り、」はビルドゥングスロマンでもある。
「なにしてんだよ」
と問うたのはぼくと高島だった。振り向いた池井の髪が頬がTシャツが重たく濡れているのを見て、その雨量の凄さが実感として得られるのと同時に指先から伸びる鋭利な質感の物体に眼がいく。
「なに持ってんだお前、」
と言ったのはぼくと高島とは反対側にいた山吉だった。(中略)
とぼくが思うと同時に山吉は思い切りよく池井の右手を蹴り飛ばす。池井の中で鈍い音が鳴ったが、それも雨音に飲み込まれていく。湿度の高く重たい空気を裂くようにしてナイフが飛び、それを高島が回収した。
同
二百枚くらいの中編小説だと思うが「鳥がぼくらは祈り、」では三、四回少年たちの間で事件が起こる。池井の父親の自殺を機に、高島は再婚して娘(高島の腹違いの妹)を産んだ母親に会いにゆく。僕はたまたま公園で父親が手紙に同封して送ってきた一万円札を燃やしている山吉の姿を見て思わず止めてしまう。山吉は怒り狂って僕を殴る。お前だって俺と同じことをしてるじゃないか、と山吉は僕をなじる。僕には自傷癖があった。痣になり傷がつくほど脇腹をつねるのをやめられない。僕と山吉はいずれ和解する。そして池井である。
池井の父の自殺の原因の一つは借金だった。僕ら四人は不良でも半グレでもないが、学校では大麻が取引されその裏には暴力団がいる。暴力団の手先になっている高校生もいる。そんな高校生の一人が闇金の取り立て屋になって家に来ていた。父親は平身低頭していた。
池井は先輩から暴力団同士の縄張り争いで、高校生の間でも抗争が起こっていると聞かされる。仲間をボコボコにした対立する他校の生徒を、殺さない程度に痛めつける計画があると打ち明けられる。ターゲットは父親の元に取り立てに来ていた生徒だった。池井は自分から志願して報復計画に加わる。人で混雑する夏祭りの日にターゲットの後を先輩といっしょにつけた。ポケットにナイフを握りしめている。
こういった事件は小説には必須である。業界内で評価を与えてくれる業界人ではなく、身銭を切って本を買ってくれる読者を強く意識するなら魅力的な事件(プロット)は必要不可欠だ。それができなければ一定数の読者ファンを獲得でずストレスなく書き続けるのが難しくなる。業界内評価が高くても本が売れなければ、いつもいつも業界人の顔色をうかがって小説を雑誌に〝載せていただい〟て本を〝出していただか〟なければならなくなる。
島口さんは独創的な書き方だけでなく、読者を惹きつけることができるプロットの立て方も体得しておられるようだ。大いに期待のできる新人だと思う。
ただ池井の襲撃を僕と高島、山吉が見つけて寸前のところで止めるという展開は、どっちに転んでもよかったのではないかと思う。小説では池井の犯罪行為を友達三人が止め、四人の友達が少しだけ成長した内面を抱えて相変わらずバカをやって騒ぐという大団円になっている。いわゆるハピーエンドだ。
しかし池井に犯罪を遂行させて、友達四人の中から一人だけ社会の表舞台からドロップアウトする人間を出すプロットもアリだと思う。作者の島口さんは優しいのだろう。本質的に倫理的なのだと思う。ただ小説では優しさや倫理がそのまま表現されるのが効果的だとは限らない。残酷さによって作家の美質がよりいっそう際立つこともある。
大篠夏彦
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