五月号の実質的巻頭小説は金子薫さんの「道化むさぼる揚羽の夢の」である。タイトルを読んでうっすらとK・ディックを想起する読者も多いだろう。SF仕立ての小説だが、ハイテクや最新宇宙理論、最新生物学などの知識は一切援用していない。その意味で正統的サイエンス・フィクションではない。純文学〝前衛〟小説の一種である。
では前衛とはなにかということになる。小説に限定せずに前衛を考えれば比較的簡単に概要を把握できるだろう。美術が一番わかりやすいが、前衛アートは未踏の表現領域を追い求める芸術運動である。よく知られているところではポップ・アートがある。ウォーホールは複製アートという概念を生み出した。アートは一点モノというそれまでの常識を打ち破り、大量生産できる版画で、しかもマリリン・モンローやプレスリーなど大衆的スターの肖像を少し加工しただけのシルクスクリーンを作り始めたのだった。
ウォーホールあたりから前衛アート、つまり未踏の表現領域を追い求める美術は百花繚乱になった。だが未踏の表現領域は実に狭い。ウォーホールもそうだが一つの新しい、だがニッチな表現領域を見出すと作家たちは生涯そのタイプの作品だけを作るようになった。この前衛傾向は現代まで細々と続いているが、六〇年代から八〇年代初頭にかけての熱気はすでにない。むしろ未踏の表現領域はもはや存在しないのではないかという閉塞感が漂っている。
ウォーホール以前、乱暴な言い方をするとポピュラリティーという市民権を得る前の前衛アートに遡るとダダに行き着く。第一次世界大戦後の精神的荒廃をストレートに表現したアートだった。代表的作家はデュシャンである。彼は基本的に壊すことしかしなかった。破壊し尽くしてしまえというラディカルな姿勢があった。
そのためシュルレアリスムをベースに、ポップ・アートなどへと変貌してゆく向日的な〝希望〟はダダにはない。だからダダはシュルレアリスムなどに比べれば影が薄い。一過性の芸術運動と捉えられがちだ。ブルトンが考えたように人は破壊に留まり続けることはできず、いずれ新たな構築に向かわなければならない。
では小説の前衛はどういったものになるのだろうか。これも乱暴だが二つのタイプに分類することができる。一つは『フィネガンズ・ウェイク』型で小説形式そのものに揺さぶりをかける言語表現型である。ただしこのタイプは現代詩などに代表される言語実験のラディカルさに欠け、作家は定期的に現れるが今ひとつ読者の支持を得られていない。もう一つがSF型である。しかし日本の、特に純文学系のSF系前衛作家はヨーロッパやアメリカのSF作家が前提とする最新テクノロジーの援用などを無視する傾向が強い。そしてそれは正しい判断ではある。
K・ディックでもS・レムでもA&Bストロガツキー、H・マーティンソンでもいいが、欧米の優れたSF作家は最新テクノロジー世界を前提としながら普遍的な人間存在のあり方を探ろうとする。小説の前提となる世界がどんなに理想的で合理的であろうとも作品の主人公の心性はプリミティブだ。作品世界がいわゆる未来的になればなるほど主人公の心性は原初的なところに還ってゆく。そのためエンタメSF小説はポップ・アートになぞらえることができるが、K・ディックらに代表されるシリアスSFはダダに近いところがある。未来社会、未来テクノロジーを壊すような人間心理を描きだそうとするからである。
ただそれを説得力あるものにするためには前提となる作品の世界観、その構造が必要になる。日本の純文学作家は頭がいいので作品本質だけを移入しようとするが、世界観なしに本質を表現できるかどうかはまた別の問題である。
「話の分からない奴だな。俺たちだって一人一人、殴りたくなったら殴るようにと命令されているのだ。命令さ。少しでも殴りたいと思ったら、殴らなくてはならない。疑問を挟む余地などなしに、この鉄棒を力の限り振り下ろす。反対に、殴りたくなったのに殴らなかった場合や、殴りたくなかったのに殴りつけた場合は、命令に背いたことになる。どこに自由があるのかね? 機械工は蝶を作り、監督官は機械工を殴る。どこにも自由なんてない」
「どうか意味を教えてください」
鉄の棒を弄びながら首を傾げ、監督官は尋ねた。
「意味とは何かね? 俺の言ったことの意味かね?」
少し考えてから天野は言った。
「いいえ、私自身の意味を知りたいのです」
瞬間、監督官は鉄棒を振り下ろした。殴り易い位置にあるらしく、今日も右肩を打たれてしまった。監督官は笑って言った。
「これがおまえの意味だ。聞かずとも知っているだろうに」
天野は歯を食い縛り、呻くようにして言った。
「そして、これは、あなたの意味でもあるのですね」
金子薫「道化むさぼる揚羽の夢の」
「道化むさぼる揚羽の夢の」の主人公は二十代の青年・天野正一である。作品冒頭で彼は鉄製の蛹型の拘束具の中に長時間拘束されている。拷問のような仕打ちである。たくさんの仲間もいて、拘束を解かれた時には亡くなっていた人もいたが天野は生きのびた。縛めを解かれた天野たちは住居と毎日配給されるわずかな食糧を与えられ、工場で働かされる。金属製の蝶を作るのである。定型プロダクト制作ではない。工員は昆虫図鑑を見ながら様々な蝶を作るよう求められた。
天野が住む「地下工場はすり鉢でなく、実際に砂時計の形をしているらしかった。作業場が最深部なのかと思いきや、その下にドーム状の空間が開けており、そこに工員向けの住宅団地が建っていた」と説明されている。この記述から地上で何らかの異変が起こり、生き残った人類が地下深くに巨大なシェルターを作って細々と暮らしていることがわかる。地下世界だから太陽は差さず照明が昼と夜を演出している。では天野がかつての地上の暮らしを憶えているのかというと、そうではない。工員だったという記憶しかない。蛹型の拘束具に入れられていた間にかつての記憶を失ってしまったらしい。
工員は毎日一心不乱に、あまり出来がいいとはいえない金属製の蝶を作らされている。監督官たちが巡回して工員たちを監視するが、彼らは理不尽に工員たちを鉄の棒で殴る。理由などない。天野は監督官に反抗する。なぜ殴るのかと聞く。監督官の答えは単純だ。「殴りたくなったら殴るようにと命令されているのだ」。彼らは命令に従っているだけで「どこにも自由なんてない」と言う。
殴る者と殴られる者という序列はあるが、工場の中には自由意志が存在しないことが示されている。命令に従えば苦しくても生きてはいける。しかし天野は満足しない。「私自身の意味を知りたいのです」と監督官に言う。「道化むさぼる揚羽の夢の」という小説は主人公天野がその存在意味を探求し、自由意志を取り戻すための物語ではある。
「タッタラッタ、タランタラッタ、ラッタラッタ、タランタラッタ」
「どういうつもりだ? 急にご機嫌になりやがって」(中略)
四十前後と思われる(監督官)の二人は、笑いを堪えるのは諦めたらしく、げらげらと笑いながら言った。これまで感じたことのない手応えがあった。好きなように躰を動かしているのに、一発も殴られずに済んでいるとは奇蹟である。活路を見失うまいとして、天野は力を振り絞って起き上がった。
植え込みの躑躅に腰掛けて呼吸を落ち着ける。やがて立つと、慇懃無礼とも映りかねない、勿体ぶったお辞儀をしてみせ、彼は言った。
「ああ、お偉い旦那様方よ! 私は道化のアルレッキーノと申します! 以後、どうぞお見知り置きのほどを」
同
自由を求め自己の存在意味を知りたい天野は工場の規則を破り、再び蛹型の拘束具に入れられてしまう。懲罰である。その拷問の中で天野は生まれ変わる。自分は道化のアルレッキーノだと思い込み、拘束具から出されても道化を演じ続けるのである。突然道化となった天野に監督官たちは困惑して殴らなくなる。天野は仲間を増やし、道化劇団のようなものを工場世界に作り出す。道化になった仲間たちはもう殴られなくて済むのである。
ただ天野は正気を失って人格が分裂したわけではない。道化のアルレッキーノを演じるのは殴られたくない一心からだ。「道化らしさを磨いていけば、あらゆる暴力から逃れられるかも知れない。そう考え、天野は部屋で小道具作りに励んでいた」とある。道化になることで天野の自由意志と存在意義は多少は満たされる。しかしもちろんそれは彼が本当に求めている自由とアイデンティティではない。
地図を自分の方に引き寄せ、野村が言った。
「我々が実施した前回の調査時と、それほど大きな変化はないようですね。丸尾さんはどう考えますか」
前髪を押さえ、前屈みになって地図を読み、丸尾が言った。
「確かに変わっていませんね。大まかに言えば、街の中心から遠ざかるほど、個体数も種類も減少する傾向にある」
尤もらしさに耐えられず、天野は言った。
「でも、そもそも、そうなるように配置しているのですよね?」
野村は丸尾に目配せし、咳払いをしてから言った。
「天野さん、いいですか? 上の工場から届く蝶はどれも生きているのです。そういう言い方をされると、我々としては良い気分ではありません。配置ではなく放蝶と言っていただきたい」
幾らかの皮肉を込めて天野は言った。
「そうでしたね。生きているのかもしれません。機械工は誰も彼も、命を落としそうになりながら作っていますから。血を流して作った蝶には命が宿る。そう考えてみれば、すんなり納得できます。失礼いたしました」
同
再び殴られ懲罰を受けるのではないかと怯えながら道化を演じる天野に、思わぬ救いの手が差し伸べられる。工場のさらに地下深くにある街の役人からスカウトされたのだった。工員も監督員も自由意志がない以上、彼らがさらに巨大な何者かに操られているのは自明である。従って手作り蝶の制作にも意味がある。
天野がスカウトされて住むことになった地下深くの街には家族が住み子どももいる。ショッピングセンターなどもある。しかし恐らく地上の汚染のために動植物はすべて人造物である。天野の工場で作られた蝶は街の至るところにばらまかれていた。別の工場で作られた木や草なども街中に配置されている。地下世界には厳然たるヒエラルキーがあり、中核の人類維持用の街のために奴隷のような工員たちがいるという種明かしである。
なぜ天野がスカウトされたのかその理由は判然としない。恐らく自由意志に目覚めたからだろうと推測できる程度である。役人の野村と丸尾は天野に蝶の生態調査の仕事を与える。街中にどんな蝶が分布していて、それが生きているのか死んでいるのかを報告書にまとめる仕事である。
工員たちは図鑑を見て手作りしているのだから、金属製の蝶だがある程度の種類の分類はできる。しかし生死を言えば最初から死んでいる。だが役人たちはそんなことは問題にしない。生死の判別は天野に委ねられる。よくできた蝶、錆びていない蝶を生きていると報告してもいいし、その逆でもかまわないのである。天野が調査の仕事をしていれば生活は保障される。工場にいたときのように殴られることもないし飢えることもない。
ただ物語はどん詰まりに来ている。天野は彼が属する世界の頂点に辿り着いて世界の仕組みを実質的に知った。そこでは誰もがかつての地上での生活が続いているようなフリをしている。それ以外に地下世界での希望は存在しない。
アルレッキーノに言われ、子供は一目散に駆け寄ってきた。五人の少年少女は台座を囲み、蛹を手で叩いたり撫でたりして、天野の羽化を促してくれた。手のなかで模造の蝶に命を吹き込んだように、金属の蛹を本物の蛹に変容させ、天野のことも、地下から天を目指す、本物の揚羽蝶にするつもりでいるらしい。
天野は眼を瞑って歓びを噛み締め、内なる熱に身悶えしながら、変わっていく自らの躰と、迫りつつある昇天について思いを巡らせた。織物または硝子細工の如く美しい、二枚の翅を羽搏かせ、私はどこまで飛んでいけるのだろうか。一頭の揚羽蝶はどれほど天に近づけるのだろうか。
同
これもほぼ必然だが天野は調査員の仕事を続けられず、道化のアルレッキーノに戻ってしまう。行方不明になった天野を役人の野村と丸尾が見つけ出すと、天野は彼らに罰を与えて欲しい、蛹型の拘束具に自分を押し込んで欲しいと懇願する。役人たちは天野の願いを叶えてやる。小説の最後で天野と道化のアルレッキーノの人格がほぼ完全に分裂する。その理由は説明しようとすればできるがまあどうでもいい。天野は死ぬ。要するに絶望小説である。
この絶望がどれほどの切迫感があるのかが小説評価のポイントになる。ただ高く評価するのはちょっと難しいのではなかろうか。三二〇枚の小説だが、天野は彼以外の他者とは本質的に交流しない。小説は基本的に天野の一人称独白あるいは天野の心理描写で埋められている。いわば私小説をSF的構造で引き延ばしたような手法である。しかしこの長さの小説を私小説の内面描写だけでまとめるのは無理がある。これは純粋に技術的問題だろう。私小説の方法は万能ではない。
絶望による自死という結末自体はアイディアとして悪くない。それが読者には自明であってもその過程をドキドキして読ませるのが小説だとも言える。だが切迫感が足りない。絶望は喜劇で誇張されるべきだが天野が演じる道化が深い悲しみの笑いを生み出していない。
またH・マーティンソンのようなキリスト教圏の作家なら、悲劇を祈りで美しくまとめるのは不可能ではない。しかし無神論的風土の日本の小説で天野の昇天は美しすぎる。表現したいテーマは理解できるがそれを支える小説世界の構造的リアリティが弱い。
大篠夏彦
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