今号には佐藤厚志さんの「象の皮膚」が掲載されている。文芸誌はどこもそうだが目次に四〇〇字原稿用紙換算の枚数が記載される。「象の皮膚」は二〇〇枚である。中編の枚数であり、この枚数になると一つのアイディアだけで小説をまとめるのは難しくなる。事件であれ人間心理であれ核になるアイディア一つで書ける枚数は頑張っても一五〇枚程度だ。
小説書き始めの人は「枚数なんて関係ないだろ」と思うかもしれないが、作品枚数は絶対的である。短編の延長で書けるのは一五〇枚程度が限度。アイディアを二つ、三つ増やして混ぜ物を詰め込んでいっても二五〇枚が限界になる。概ね三〇〇枚を超えるようになるとキッチリとしたストーリーと、主人公を取り巻く複数の主要登場人物を設定しなければもたなくなる。三〇〇枚超くらいから大衆小説とか中間小説と呼ばれ始めるのはそれゆえだ。事件中心の物語になるからである。
では逆に「物語がなく事件が起こらないのが純文学なのか?」という問いが生じるわけだが、うんと単純化すればその通り。物語は事件によって生じるのであり、事件とは愛憎、殺人、逮捕、逃亡などの決定的出来事を指す。大衆文学では必ず事件によって物語が動く。しかし純文学では基本的に大きな事件は起こらない。主人公の心理描写中心だからだ。それがなぜ文学の中で最も〝純〟な何かを表現している純文学と呼ばれるのかと言えば、ささやかな人間心理が決定的事件になる(場合がある)からである。
もちろん事件によって物語を動かさないので純文学の枚数は短くなる。一〇〇から一二〇枚が理想的。長くても一五〇から一八〇枚。それ以上の引き延ばしは危険だ。また社会的事件が起こらない人間心理が決定的事件になるのはほとんど奇蹟的なことである。奇蹟はそうそう起こらないからそれを起こした作家、近づいた作家が文学の世界で尊敬されているのだとも言える。
幼いうちから、凜は親兄弟から「アトピー」とか「ピーコ」というあだ名をつけられて育った。ただ「ピー」と呼ばれるときもあった。物心ついた頃には、そういう家庭内の自分に対する呼称にすっかりなじんでいて、悪口を浴びせられているとか、いじめられているというふうには全然思わなかった。
幼稚園を卒園するまではアトピーも大したことはなかった。成長するに従って皮膚の病状は悪化の一途をたどった。顔や首のほか、体の節々の表裏に現れていた湿疹は、小学校の低学年で全身に広がり、日々強いステロイド剤を塗布するようになると、肌がごわごわと強ばって黒ずんできた。三つ上の兄良太と三つ下の弟茂樹は、凜をばい菌みたいに扱った。
佐藤厚志「象の皮膚」
「象の皮膚」の主人公は凜という若い女性。高校を卒業してから書店に勤め、転職して別の書店で契約社員として働いている。最初の書店では夏は半袖の制服で肌を晒さなければならないのが転職の理由だった。凜は子どもの頃からアトピーに悩まされてきた。小学校の同級生からは「ばい菌」とからかわれ遠ざけられた。それは中学高校になってもさして変わらず、凜はいつも学校で目立たぬように、気配を消して生きてきた。
では家で救いがあるのかといえばそれもなかった。両親は凜をいろんな病院に連れてゆきアトピーを治療しようとはしてくれた。しかし父親は「お前は気合いが足りない」からアトピーになるんだと理不尽な言葉を投げつけた。二人いる男兄弟も同様で凜を「「アトピー」とか「ピーコ」というあだ名」で呼んだ。両親はそれを黙認した。大人になっても凜のアトピーは治らない。ずっと悩まされ続けている。
水泳の時間が始まってもプールの周りを走らずに日蔭でうずくまっている凜を立たせて、瀬野上は二度頬を打った。凜は怒りで震えながら目にいっぱいの涙を溜めた。それでも肌を晒したくないと言えなかった。肌を見せる羞恥に比べたら、級友の前で叱られたり、叩かれたりするほうがよっぽどましだと思った。小学校の時、水泳の時間に凜の肌を見た女子の悲鳴がいつまでも耳に残っていた。キモチワルイ、とその子は叫んだ。教室では近くの席で、勉強を教え合うこともある子。彼女の叫びで一斉に凜に視線が集まった。男子のひとりが「げえ」と呻く。ねえねえ、見てみて、と指をさされる。凜を取り囲んで、ひそひそと囁かれる声。かわいそう、かわいそう、かわいそう。
*
凜は雑誌を受け取りながら「いらっしゃいませ、お預かりいたします、お客様、返品交換は一切お受けできませんがよろしいでしょうか」ときっぱり申し渡した。
サイトウチヨコは首を傾げて「はあ」と白々しく了承し、図書カードで会計を済ませた。案の定、サイトウチヨコは会計を終えて十分後に戻ってきて返金を要求した。
「お客様、先ほど申し上げたとおり、返金はいたしかねます」
凜は言った。
「え、なんで、間違ったのはそっちでしょう、先月号が欲しかったのに今月号を渡されたんだから」(中略)
すぐに内線で石綿に連絡してから凜が「今、責任者が参ります」と告げると、サイトウチヨコは「二度とくるか、くそぼけ」と罵声を浴びせかけて石綿がくる前に去った。
同
小説は凜の回想と現在の書店勤務が入り混じる形で進む。作者の佐藤さんは小説家のかたわら書店員として働いておられるので、派遣社員あるある、書店あるあるの挿話は情報としてとても面白い。大型書店にはさまざまな客がやってくる。常連さんの顔は自ずと書店員も覚えることになるが、中には迷惑な客もいる。サイトウチヨコは金券ショップで図書カードなどを買って書店で買い物し、間違ったから返金してくれと迫る迷惑常連客だ。そういった迷惑客がけっこういる。書店で利ざやを稼いでもたかがしているのに、「なぜか彼らは数十円、数百円というわずかな利ざやを得ることに努力を惜しまなかった」とある。
凜の学生時代の辛い記憶が入り混じる理由は、言うまでもなく今現在の彼女の心理や行動原理を補完し人物像を明確にするためである。凜は感情移入すればかわいそうと読者が思ってしまうような理不尽な仕打ちを受け続けているわけだが、大衆少年少女小説ではないので救済は設定されていない。では徹底して絶望の淵に沈んでゆくのかといえばこの小説ではそれも避けられている。凜は無神経で暴力的な他者(社会)に対して反抗し、反撃するような人間としては造形されていない。
残酷な他者(社会)に対峙するたびに「自動販売機に徹しなければいけない、と凜は思った。心を動かしてはいけない。体だけ動かしていればいい」と考えたとある。この小説で凜が本の売買を仲介するだけの書店員に設定されている理由もそこにあるだろう。凜は家族や同僚や客などの社会に対してまったく能動的に行動しない。徹底して受動的だ。小説で描かれているのはアトピーという厄介な病気を抱え、理不尽な仕打ちを受けてもそれに一切反撃せず、ひたすらアトピーを恥と考えてひっそりと社会の片隅で生きてゆく女性の日常である。
十三夜月が光った。散歩コースから、植え込みのバラの棘に注意しながら松と紅葉の木の間を抜け、陸上トラックを渡って芝生を踏んだ。凜の前に、夜空が大きく開けた。暗闇なのに、煌々とした光の中に投げ出されたような気がして、突然羞恥がこみ上げてきて恥部を隠す。それも興奮が打ち消した。(中略)凜は、ものごころついた頃から自分の魂を側に感じた。自分から分裂した魂がつかず離れずに側にあり、衛星のように回転していた。衛星がいつも痛みや苦しみを代わりに受けてくれた。その衛星が今もっとも近接していると感じた。凜はかわいそうと言われるのを忌みながら、本当はかわいそうと言って欲しかった。一番かわいそうと思っているのは自分だった。(中略)もう少しで何か忘れていた本当のことに触れられそうだった。しかしそう思ったのもつかの間で、望むところのものがぼやけ、再び衛星は遠ざかってわからなくなった。摑みかけた像が崩れた。公園の反対の端に着いた時、頬が濡れていた。興奮が急速に冷め、魔法が解けたように恥ずかしくなって凜は茂みに入った。そこは始めに服を脱いで歩き出した場所だった。
同
小説の時間軸では東日本大震災も起こるが、この大事件も凜にさしたる影響を与えない。凜の身近な人が亡くなったとか実家の家族や自宅が大きな損傷を受けたということもない。また凜が勤める書店のある仙台の被害は比較的軽く、一定期間後には営業を再開した。ここで挿入される、日用品にも事欠く生活なのに、なぜか書店に客が押し寄せてきたといった書店あるある話も面白いが、凜の日常を変えることはない。しかし小説である以上、つまり始まりがあって終わりがある物語である以上、なんらかの出来事は起こらなければならない。
寝苦しい夏の夜、凜はベッドで体をかきむしる。薬を塗っても痒みは治まらない。眠れない凜は外に出て、深夜の人気のない公園で裸になって歩き出す。子どもの頃から誰にも見られたくないと隠してきた体を夜の闇の中で晒すのである。「凜はかわいそうと言われるのを忌みながら、本当はかわいそうと言って欲しかった。一番かわいそうと思っているのは自分だった」とあるように、このささやかな冒険が小説のクライマックスである。ただ「摑みかけた像が崩れた」とあるように、凜は引きこもった自己の心と身体を一瞬だけ外に晒し、再び以前と同じ日常に戻る。
乱暴な言い方をすれば、「象の皮膚」という小説のテーマは〝痒み〟である。人間の生は、人間の日常は〝痒い〟のだ。なぜ痒いのか、なんの問題があってどう直すのか、あるいは治らないのか、それを他者はどう受けとめるのかといった解答じみたものは、小説を読んだ読者がそれぞれ考えれば良いことである。とにかく小説は人間が逃れられず意識から消そうしても消えない痒みを描こうとしている。それが純文学なのだと言えばその通り。実際「象の皮膚」は三島由紀夫賞候補作になった。新潮社はこの作品を純文学として高く評価したわけである。
ただショバが変われば評価が変わる小説だということは、言いにくいが言っておいた方がいいように思う。「象の皮膚」の曖昧なクライマックスシーンは大衆文学では通用しない。むしろ書店あるある話を深めて事件が起こる物語に仕立てることを要求されるだろう。また書店あるある話や東日本大震災が、小説引き延ばしの小道具として使われている面があるのは否めない。アトピーという当人にとっては宿痾であり恥であり、何よりどこからも救いの手が差し伸べられない生の〝痒み〟がこの作品でシャープに描き出されているとは言えない。夾雑物がテーマの純粋性を損なっている気配がある。
純文学作品のクリシェに素直に従い過ぎているのではあるまいか。しかしその素直さが純文学という枠組みの中で及第点以上の完成度をもたらしているのも確か。ただ「象の皮膚」は微妙な形での私小説であり二度、三度と書店あるある話などを使うことはできない。
正念場はこれから。純文学であろうと取材し架空の登場人物を設定しプロットを立て切迫感のある小説を量産してゆかなければならない。生きている限り作家には必ず次の作品がある。いつも正念場である。
大篠夏彦
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