今号の巻頭は千葉雅也さんの「オーバーヒート」。新潮に限らず他の純文学系文芸誌、大衆小説誌でもプロパーの小説家以外の作品を掲載することが盛んに行われている。それだけ小説界が行き詰まっているということだろう。もはや小説家だけで今の閉塞感を打ち破ることはできず、新たな力、新たな才能を欲しているということでもある。
晴人の視線はまっすぐ伸びて壁のタイルにぶつかる。
僕らは並んで換気扇の下でタバコを吸っている。ごうごうという通常の音にシュンシュンとこすれるような異音が混じっている。この苛立たしい音が前触れもなく鳴り始めて数日続くときがあるが、気づくとまた消えているので、ヤニのせいだろうし掃除すべきなのだがしていないままだった。旋盤みたいな音。高速で回転する金属に油を垂らし、そっと刃を当てると、灰色のかつお節を撒き散らしながらその素材はだんだん意味を持つものに近づいていくだろう。(中略)
飲みに行ったあと、僕の部屋でセックスをした。それはいつも通りのことだった。挿入はしない。ただじゃれ合うように交替で体の表面を刺激し合い、我慢の果てに精液がほとばしるに至って、そのあと二人でタバコを吸っているこの少し気まずい時間が好きだ。
千葉雅也「オーバーヒート」
小説は言葉によって意図的に一つの物語世界を構築してゆく営為なので、無意識的なものを含めてあらゆる箇所に作家の意図、あるいは作品の方向性を示唆する事柄が表現される。「オーバーヒート」の主人公は僕で私小説である。フィクションは入り混じるが読者は作家と主人公はイコールであり作家のリアルな言動を読んでいるつもりになる小説である。僕は恋人の晴人とセックスしたとあるのでゲイだ。最初から隠す必要がないと明示されている。
僕と晴人はセックスを終えたあと、換気扇の下でタバコを吸う。ベッドやソファの上でタバコを吸い散らかさず、必ず換気扇の下で吸う二人は社会的ルールを守る人間だと示唆されている。私小説によくある無頼な要素はこの小説にはないと言ってよい。
そして僕は晴人と「二人でタバコを吸っているこの少し気まずい時間が好きだ」とある。二人は恋人同士だが精神的に深く結びついているわけではない。ただ僕は換気扇の「異音」を聞いている。「刃を当てると、灰色のかつお節を撒き散らしながらその素材はだんだん意味を持つものに近づいていくだろう」とある。果たして痩せ細りながら「だんだん意味を持つものに近づいて」いけるのかが、いちおうの作品のアポリアだと言える。
人差し指でガラス面を爪弾くようにして下へと、過去の方へスクロールしていき、最初の引用リツイートにぶつかった。それは「○○さん(僕のこと)は鋭い」という肯定的なコメント。問題なし。(中略)さらに支持表明的なコメントがいくつか。そして次のコメントが現れた。
逆張りでは社会を変えることはできません
ほほう。こめかみに力が入る。眉が持ち上がったのがわかる。アカウントを確認すると、アイコンは当人の顔らしく、モノクロで、真横を向いた黒縁メガネの男性だった。小野寺真一というのがアカウント名。本名なのだろう。(中略)
ともかく「#LGBTは普通」運動を混ぜっ返す発言が気に入らないような陣営の人間であることは、まあわかる。
・・・・・・しかし「逆張り」ねえ。
確かに僕は流れに逆らっている。だがそれは当事者の立場からなのだ。カムアウトした上での話だという文脈をわかっているのか? それにこいつはべつに当事者でも何でもないだろう。「アライ」というやつか。当事者でなくても公共の正義のために声を上げるという動きが広がっている。「連帯」などと言われる。クソ食らえだ。
相手は一応大学人なので、問題が起きるかもしれないから、ひとまずブロックせずに放置。
同
僕は大学で哲学を教えている。ゲイだとカムアウトしてギャル男風のファッションに身を包んでいるのでなおさらのこと、様々な大学の事務処理作業を的確にこなすよう心がけている。学生指導でもパワハラと指弾されないよう注意を怠らない。また僕は学術的な本で頭角を現したが今現在の興味はTwitterで様々な事柄をtweetし、学術論文よりも数多くの人々の興味を引くエッセイなどを書くことに向けられている。
僕は蕎麦屋で「同性愛はやはり「倒錯」である。(中略)「普通」でなくて何が悪いのか。異性愛にしてもいろんなケースがあり、その多様性も倒錯的である。異常な異性愛もある。みんなふつうだ、ではない。みんな倒錯だ」とtweetした。
同性愛を「倒錯」だとtweetしたのは、僕が「今やリベラルで先進的だと見られたければLGBTを支持「さえすればよい」ような空気」に苛立っているからである。「LGBTは普通? 普通だと思われたがるなんてのは、マジョリティの仲間に入れてくださいというお涙頂戴の懇願にほかならない。「我々」は「やつら」とは違うとプライドを持ってきたんじゃないのか。腰抜けが!」とある。
同性愛は僕の個人的かつ社会的属性である。それが日常(常態)である以上、「倒錯」と呼ぶのは本意ではないはずだ。一方で僕は嫌というほど同性愛に向けられる偏見を経験している。ヘテロが大半の世界で同性愛は「倒錯」と見做されているじゃないかと発言する権利を持っている。また子孫を残すのが生物本来の在り方だとすれば同性愛はマイノリティである。社会的権利を得るのは当然としても同性愛とヘテロ世界は対立する部分がある。
僕のtweetには肯定的コメントが多かった。が、小野寺真一という大学教授が「逆張りでは社会を変えることはできません」とコメントしてきた。小野寺の「逆張り」というコメントにそれほど深い意味はないだろう。世の中のLGBT許容の流れにあえて逆らう発言をしても大勢は変えられませんよ、といったくらいの意味だと思われる。
僕は小野寺の発言に苛立つ。「確かに僕は流れに逆らっている。だがそれは当事者の立場からなのだ。カムアウトした上での話だという文脈をわかっているのか?」と心の中で反論する。僕が苛立ったのは小野寺が僕という人間の文脈を理解していないからである。しかし僕がネットで小野寺の略歴を調べていることからわかるように、僕と小野寺は旧知の仲ではない。彼は彼なりの文脈で軽い気持ちでコメントしただけかもしれない。
僕は小説の中で誰とも密な交わりをしていない。東京から大阪に移住することになったが東京よりも古い文化を持つ大阪に馴染めないでいる。僕が東京が好きなのは「東京はいたるところが無意味になるまで歴史性を奪われた表面都市」だからである。僕は人にも土地にも強く執着しない。しかしそんな僕の中には常に膨大な言葉が渦巻いている。では僕が言葉に執着し、言葉を愛し信頼しているのかというとそうではない。僕は「くだらない! 言葉は醜い!」「言語は存在のクソだ!」と考える。
この言語に対するアンビバレンツな在り方は、逆接的に僕を無謬の人にしている。僕は言葉は信用できず、ただ表層を流れてゆくものだということを理知的にも実践的にも知っている。小野寺の「逆張り」コメントに対しては僕の文脈を理解していない一面的批判だと即座に反論できる。同性愛は「倒錯」というtweetは必ずしも否定的なものではなく、異性愛も多かれ少なかれ倒錯的なのであり「みんな倒錯だ」と敷衍できる。どんな場合でも問題の審級を変えれば即座に反論できる。言葉でできた世界とはそういうものだ。信用ならない。
では僕は常に正しくあることで自己保身を図っているのかと言えば、そうではない。言葉は人々の肯定と否定のオモチャである。それが言葉でできた世界の本質だという思想が僕にはあるように思われる。普通の学者が重視する学術論文よりもTwitterやFacebookに夢中になっている理由もそこにあるだろう。他者を共感させ時に反発させることもある、浮いては消えてゆく言葉の働きに価値を認めているということである。
「いや、そういうのもちょっとあるけど・・・・・・まあ、雑誌の仕事とか」
「すごいスね! 彼氏はいないんですか?」
どう答えるか迷った。ナンパの可能性があるゲイバーなら、いないというポーズを取るのはよくある。しかし今嘘をつく必要はべつにない。まだこいつを買うと決まったわけじゃないが、それはナンパじゃなく契約関係に過ぎない。
「いるんだよね」
答えてから、でも嘘をついてもよかったと思う。嘘をついていいかどうかなんて真面目に考えているのが滑稽だ。じゃあ彼らの言うこと、彼らが見せるものの何割が本当だっていうのか。なぜ僕だけが、僕だけはちゃんとしようと思うのか。晴人の顔が浮かんだ。晴人の女性的な感じのわりには大きな、掘り出されつつある岩のような肩甲骨を思った。僕は晴人に誠実であろうとしている。はずだった。だがこの店にいる。晴人だってどこで何をしているかわからないわけで。
同
晴人と微妙にすれ違いを繰り返す僕は新宿二丁目のウリ専バーに行って男を買う。男娼とのセックスの描写もリアルだ。私小説なので秘密の暴露も描かれていることになる。しかし普通なら隠しておきたい買春行為や細密なセックス描写は隠された僕の心理の暴露になっていない。
僕は恋人の晴人に誠実でいたいという気持ちとセックスへの欲望を簡単に両立させる。両立できる。それが可能な理由はいくらでもある。浮気といっても男娼相手で一種の商取引だ。晴人だって同じようなことをしているかもしれない。また男娼との会話は微妙な二重線を描いている。どこまで本当なのかわからない。それは晴人を始めとするすべての他者との会話(交わり)にも言える。そして本音(本心)と呼べるような本質は恐らくどこまで皮を剥いても現れない。むしろ言葉の断片を捉えてそれを本音(真理)と措定するから矛盾や葛藤が生じる。だからその時々の自己の心理の動きを白日の下にさらすことが誠実さの表れになる。僕は真面目で誠実な人である。
心拍数が上がっている。かつてその液体を嗅ぐと鼓動が高まったのと似て。その瓶に実際臭いがあるのか、今この家に充満する酸性の臭いをその残り香と取り違えているのか、判断がつかなくなる。
書類はあとで取りに来る。小瓶だけポケットに入れ、階段を下りて一階の電気を消したら、背後に何かの気配が留まっているのを振り切って、一気にその家をあとにした。外はパラパラと弱い雨が舞い散り始めていた。
この小瓶は存在を消さなければならない。だが僕は、その抜け殻を、幽霊をすぐは手放したくなかった。
同
これも私小説の一つの必然的な流れとして、僕は実家のある茨城に帰省する。生まれ育った土地だから初めて両親にゲイであることをカミングアウトした回想も入り混じる。最初父母は動揺した。しかし多くの両親がそうであるようにやがて受け入れた。ただその過程をドラマチックに描こうという意図はまったくない。
僕は両親の受け入れが「うやむやに起きた。両親は還暦も過ぎて、息子の私生活を認めなければ今後世話をしてもらうのに不都合だと思い始めたのかもしれない。そういう計算もあるのではと疑った」とある。両親を傷つけるかもしれない言葉が書かれているわけだが、僕にとっては自らの心の動きをストレートに表現することが誠実さである。それをやっても両親の僕への態度は変わらないだろうし、僕が両親の老後の面倒を見ることになるのも変わらない。
帰省の目的は母方の家を取り壊すことになったので、そこに預けてある僕の荷物を整理することである。実家は比較的裕福だったが僕が修士二年の時に破産した。僕はその後は奨学金などで博士号を取りフランスに留学した。母方の家には留学の際に荷物を預けそのままにしてあった。
人や土地に執着しない僕にどうしても残さなければならない物は少ない。論文やアルバムの類いだけだ。しかし僕は荷物の中に小瓶を見つける。「心拍数が上が」るほどの秘密の小瓶だ。何が入っていたのかは明らかにされない。ただ僕は「この小瓶は存在を消さなければならない」と考える。実際僕は、地元の友人たちとドライブに出かけ車を停めた観光名所の橋の上から小瓶を捨てる。証拠隠滅だとは言えない。僕にも秘密があることが明らかになるが秘密である以上詳細は明かされない。秘密にもさしてこだわりはなく、リテラルに秘密だから秘密のまま消えたのである。
「あれ、○○さん(僕のこと)来てた?」
伊澤がいつの間にか隣に立っていた。
「あのさあ、訊きたいんだけど、哲学的には「死」ってどうなの?」
「なによ急に。
死ぬって、まあ死ぬよね。それだけでしょう」
「俺、死にたくないんだけど」
そう言われて、今日は言葉を抑えないことにした。
「僕はべつにいつ死んでもいいよ。これをやり遂げなきゃ死ねないとか、急に死んだらもったいないとか思わない。ここまで十分生きてきたわけで、誰だって十分生きてきたんだよ。誰でも、今この時点まで十分に生きてる。だからべつにいつ死んでも損なわけじゃない。まあこういうふうに、哲学は「死の練習」とか言われてて」
「じゃあ今すぐ死ねよ」
「は?」
「いつ死んでもいいんだろ、じゃあ今すぐ死んで」
僕はカクテルに口をつける。酸っぱい。ただ酸っぱい。
「それはできないな。べつに今すぐ死にたいわけじゃない。
いつ死んでもいいってのは事故なんかで偶然的にってことで、意図的にいつ死んでもいいってことじゃないから」
「じゃあいつ死んでもいいじゃないじゃん」
伊澤サーン! とゴジラが痺れを切らすように呼んだので、伊澤は振り返って「ほーい」と返事をする。
同
「オーバーヒート」の大半は作家の実体験に基づいているだろう。しかし小説末尾で行きつけのバーで、苦手にしている伊澤という常連客から投げかけられた死を巡る問答だけははっきりとフィクションの手ざわりがある。もちろんそれまでの作品世界を壊すような決定的な何事かが書かれているわけではない。伊澤に「じゃあ今すぐ死ねよ」と言われ僕の死の理論は即座に一般論に審級を変える。「べつに今すぐ死にたいわけじゃない」と反論できる。だがここで表現されているのは緩慢な自殺だろう。足元に広がる虚無を知っている僕は緩慢に死んでゆく。小説のクライマックスである。
僕は晴人を含めて他者と濃密に交流しない。ときおりTwitterなどでの対外的に言葉を発信することもあるが、大半は内面独白である。その意味で私小説の形式を正確に踏まえている。しかし日本文学が伝統として守ってきた私小説ではない。
日本の私小説は唯一無二で他に置き換えが利かず、それゆえ絶対に正しいはずの自我意識が肥大化して他者や社会と激しく衝突する様を描く物語である。自我意識は他者や社会との対立で傷つき敗れ去り、その強烈な自我意識を捨てきれぬまま「しかし」と呟き続ける。LGBTが純文学私小説の大きな題材になる理由である。もちろん題材は家族や恋人間の葛藤でもよい。救済を設定するかどうかは別として、その苦の世界は近現代人の肥大化した自我意識の本質を表している。もしくは表していた。
それに対して「オーバーヒート」の僕の自我意識は小さい。僕はゲイだがそれが人間個々の個性においても社会存在面でも多面的だということを知っている。もちろん僕の存在格は明確だが希薄化した自我意識に様々な角度から情報が入ってくる。僕は他者や社会から射しこんでくる情報の角度によってその都度言葉を発する。それは同意を得ることもあるし反感を買うこともある。議論を活発にすることもあるし冷や水を浴びせかけることもある。そんな錯綜する情報総体が現代社会、現代人の実体である。正反対の発言に写っても文脈をたどれば矛盾はない。僕は文字通り移動し続けている。
きちんと私小説の形式を踏まえながら従来型の私小説ではない「オーバーヒート」は、新しい現代私小説だろう。「オーバーヒート」が示唆した虚無を抉ることでさらなる私小説の可能性も生まれるかもしれない。
一方で純文学小説誌には相変わらず従来型の私小説が溢れている。しかしほとんどの作品がかつてのような苦の世界に到達できていない。「オーバーヒート」が露わにしたような自我意識の相対化、情報の多面化が影響している。自己の自我意識の固有性と強さを信じて一直線に自我意識を肥大化できないのである。日本文学の伝統をなぞって従来型の私小説を書き続けるのであれば、大袈裟に言えば現代において何が自我意識の〝真〟なのかを明らかにしなければならないでしょうね。
大篠夏彦
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