今月号には「創る人52人の「2020コロナ禍」日記リレー」が掲載されている。著名小説家や劇作家、漫画家、音楽家のそこはかとなくコロナを前提とした日記が並んでいる。
文学者を貶めるつもりはまったくないが、二〇二一年の現代社会で文学者が特権的知性や感性の持ち主だと信じている人はそれほど多くあるまい。もちろんどのジャンルでもファンはありがたいもので、創作者を神のように崇めてくれたりする。しかし当の創作者の方は、自分がそうなのだから他者の創作の現場もおおよそ想像がつく。一昔前のように創作現場はブラックボックスではなく、かなりの程度まで情報公開されている。あれを持ってきてこれを繋いでここからヒントを得てということを創作者は繰り返している。天才――生まれつき天から授けられた特権的才能といったものは信じたくても信じ難い時代になっている。
ただコロナがこれだけ大きな社会問題になっているのだから、なんらかの形でこれに触れないわけにはいかないだろう。新潮は編集部主導の特集ページがほとんどないが、今回は例外で一〇〇ページ以上のコロナ禍日記の大特集である。あの方この方はこんなふうに日常を送っておられるのだなぁと楽しく読んだ。しかし当たり前だがこれらはコロナ禍の傍証的記録である。コロナでわたしたちが最も気にするのは罹患者の記録や医者や研究者の発言である。「罹ったらどうなるの?」「いつ終熄するの?」「防御策はどうすればいいの?」が最大の関心事でそれらはネットなどに溢れている。文学者の関心も同じだろう。
新潮は文学における社会性を重視するようなところがそこはかとなくあるが、三島由紀夫賞などが案外その端的な表れかもしれない。純文学文壇は実質的に文藝春秋社文學界の芥川賞中心だが、それに棹さす賞として新潮三島由紀夫賞、講談社野間文芸賞などがあると言ってよいところがある。
三島の捉え方は様々だが、作家としては純文学作家であり中間作家である。中間作家という言い方は最近しなくなったが、要は純文学と大衆文学の中間にある小説という意味である。これは当たり前のことで小説の原理原則は物語である。乱暴に言えば日本の純文学は私小説の延長上にあって物語性が薄い。純文学文壇では高く評価され、デビュー作から第二、三作くらいまでは読者も興味を持って読んでくれるがなにせ〝私〟小説である。ほとんどの作家のネタはすぐに尽きる。例外は西村賢太さんくらいだ。フィクショナルな物語小説に移行しなければ作家の未来はないわけで、三島もまた同時代の作家たちと同様に純文学作家から中間作家に変貌していった。三島をトリックスターなどと呼ぶのは自由だが、作家としてそれほど特別な道を歩んだわけではない。
杓子定規に言えば芥川賞が後記芥川龍之介の私小説を評価基準にしているように、三島賞は三島文学がその評価基盤になる。ただし三島文学は芥川私小説よりも幅が広い。純文学から社会性小説、大衆小説までの幅がある。だから三島が冠賞に選ばれたのかもしれない。ただ最近の新潮流の三島の捉え方は純文学社会性小説家という側面が強いように思う。それはそれでいっこうに構わないが、三島賞には大衆物語文学というオプションもある。いずれかの時点でそれを活用しなければ純文学の復権や盛り上がりはなかなか期待できないかもしれない。
作家がいろいろな側面で苦悩する創作者であるのは今後も変わらないだろう。ただし作家である以上、苦悩は作品で全的に表現されるものである。そして作品で全的に苦悩が表現されれば作家はある程度は救済される。多くの人は優れた作家の自殺を惜しみ悼むが、それは創作の機能不全の結果でもある。現代社会の琴線・本質に触れられない純文学が、機能不全に陥ったと言えないこともない三島文学の純文学性を高く高く評価するのはあまり健全とは思えない。図太く生き残るのが作家の本道であり、三島文学では貫徹されたとは言えないが、大衆物語文学、あるいは物語の可能性を評価することも必要なんだろうなと思う。
透明な水
流れていく水の中から生まれてきたんだろうって
思います 桜の花びらもきみも まつげで光が転んだ音がして、笑い
声が聞こえます 青いものがいくつも並んだ机の上でぼくはうたた寝
をしています
いつからかわからない うまれるまえからこうだったかも
きみはオフィーリアのように水の中にいて、でも目を覚ました いま
そうしてやっと生まれてきて、とでも寒いと日の光の中で思う
ぼくはうたた寝をしています いつからか歌っていた 寝言として語
っていた 体から血が出てはかさぶたになって、きみと顔を近づけた
くて、たまらなくなる、ぼくの顔はたんなる傷口で 溢れたくてたま
らないものがここにあるんだって思う きみはまだとてもきれいな水
だから 洗い流してほしい 洗い流して去ってほしい 愛している
愛している ぼくはうたた寝をしています きみのことなどまだ知ら
ない まだ知らないんです 愛してる 愛している きっとぼくより
とても 短命なひと
最果タヒ「詩人ちゃん・キル・ミー」(その八)より
今号はコロナ日記がページを食ったせいか、単発の読み切り小説が掲載されていない。連載小説を取り上げるのは気が引けるので、柄にないのですが最果タヒさんの連載詩を読んでみます。なにか代換えみたいで申し訳ないが、これは僕があまり良い詩の読者ではないことの気後れです。最果さんの小説はそれなりに読んでいるが詩は熱心に読んだがことがない。最果さんが詩人として高く評価されていることは重々承知しています。
最果さんの連載は隔月のようだが、タイトルは「詩人ちゃん・キル・ミー」である。「・」で三つの言葉が繋がっており、かつ分断されている。「キル=殺す」がどっちにかかるのかだが恐らく「詩人」と「ミー=私」の両者に向けられている。「ミー」は作家とほぼ等格の人称だと捉えていいが「詩人ちゃん」は非在。
詩に厳密な読解を行うのはどうかなーという声が聞こえてきそうだが、意味伝達の文字を使って書かれた文学である以上、何かが的確に表現されていないと文学の要件を満たさないのも事実。できるだけ読解してみる。
詩の基本的な構造は「ぼく」と「きみ」の対峙である。「ぼく」が「私」になり、「きみ」が「オフィーリア」などの別人格に変わってもその構造は同じ。つまり作品世界は狭い。作家の私性の中でのわたしときみの対立と融和が描かれている詩である。
引用した「透明な水」を例にすると「ぼくはうたた寝をしてい」る。羊水のような自己の中に引きこもっていると言ってもいいし、自己以前の自己原生体の存在格のまま、うとうとしていると言ってもよい。ただし「ぼく」はすでに傷ついている。「体から血が出てはかさぶたになって」いる。また「ぼく」は羊水から溢れたい。外の世界に出たい。「ぼくの顔はたんなる傷口で 溢れたくてたまらないものがここにあるんだって思う」。そんな「ぼく」の願望・希求を叶えてくれる存在として「きみ」がいる。だから「ぼく」は当然「きみ」を「愛している」。しかし「きみ」は「きっとぼくよりとても 短命なひと」であり、「ぼく」の願望・希求は決して叶うことがない。
魔法
街灯がぼくを照らしているのに、きみには一つも光が落ちない
ぼくは何も見えないと知っているのにきみの声がする方を向い
ていて、そのまま誰かが写真を撮った、まるでぼくの目には誰
かが見えているみたいだ どこまでも一人きりのまま、誰かを
愛せるかの実験をしている そのために、きみが美しい 街は
燃えないで 家は燃えないで 鍋も焦げ付かず 緑色の手袋を
つけたまま何かを引っ張ればその手綱に馬はつながって、どこ
までも駆けていけるのだ 永遠に見ることが叶わないきみとい
う人を ぼくはただ呼ぶために、きっと今、幸福でいる。
同
連載であり短詩の連作なので当たり前だが、「魔法」という詩でも基本的構造は同じ。僕は一人っきりできみが見えるのは僕だけ。そして非在だからこそきみは美しく、僕を「どこまでも駆けていける」ような存在にしてくれる、ような気がする。しかし僕はきみの姿を「永遠に見ることが叶わない」わけで、つまりは僕の願望は幻想であり実現することがない。しかしだからこそ僕はきみを呼び、追い求める。そしてそれは「幸福」なことだと表現される。
最果さんにとって詩は不可能性の表象のようなところがあるようだ。ただ詩あるいは詩人が崇高で純な不可能性として設定されていないところがこの作家の面白いところである。「詩人」という不可能性の存在格に「ちゃん」がついているのは、作家を導き不可能を一瞬であろうと可能と夢見させてくれる「詩人」を作家がどこかで軽視し、同格視し、ある意味バカにしていることを示唆しているように思う。だから僕や私は「詩人ちゃん」を愛し聖化しながらその逆に蔑視し、小馬鹿にして作品世界から追放するような素振りも見せる。結局は役立たずの詩人ちゃんに苛立っている。同じ原理の逆方向ベクトルへの作用である。
もうだいぶ長い間、最果さんは「詩人ちゃん・キル・ミー」で表現されているような撞着的でありモラトリアムとも呼べるような位相に留まっておられるように思う。もちろんそれを深化するのも別の位相に抜け出すのも作家次第。いずれにせよさらなる勇気が必要だと思う。
大篠夏彦
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