三国美千子さんは二〇一八年新潮新人賞受賞なので新人作家と言っていい。しかしデビュー作「いかれころ」で翌二〇一九年に三島由紀夫賞を受賞し、今回取り上げる「骨を撫でる」で野間文芸新人賞を受賞なさった。異例と言ってよい評価の高さであり早さである。ただ一九七八年生まれの四十代作家なので、デビュー作まで小説を試行錯誤しておられたかどうかは別として、すでに作家としての高い社会性をお持ちだ。
石橋に続いた門屋の片隅にある小門の閂は、ことんと耳になじんだ音を立てて静かに内側に開いた。母屋家にふさわしい堂々とした門なのに、ささやかな音は昔から変わらなかった。年寄りたちが小くぐりとか呼んでいる小さな門はあまりにも長い年月にさらされたため、木ではなくもっと軽やかでもろい材質に変化して見えた。ちょうどオーブンで焼き上げたお菓子に似た色合いをしていた。
三国美千子「骨を撫でる」
小説冒頭だが念入りで繊細な描写である。広い敷地の中に古い母屋が建っているのがわかる。門構えのある家だから旧家だ。しかし古びて脆く軽くなっている。滅びの予感が示唆されている。この旧家がすべての始まりでありそこから登場人物たちが生じてくる。
毎週土曜日に一度、それも弟の結婚相手に遠慮しながら帰る。古い巡礼街道沿いの村にはそこかしこに見張りの目が光っており、その日のうちにふきちゃん帰ってはりましたで、と農作業中の父親の善造に言いつける人がいた。(中略)
母屋の奥の崖の上に建てた、かれこれ二十年近くになる明夫の新居をこの家ではいまだに「新築」と呼んでいるように、ふき子も母屋の人も月日が経っても昔風のままを守っている。二〇〇一年になっても、裏の山はこの家の中ではまつたけ山のままだった。
同
小説の主人公は五十歳のふき子である。冒頭の旧家、倉木家の娘だ。父親は善造で母親は敏子、そして建ってから二十年も経っているのにいまだに「新築」と呼ばれている家に住む弟の明夫がいる。明夫は絵梨と結婚しているが、絵梨は当然のことながらいつまでたってもよそから来た嫁である。
時代設定は二〇〇一年。二十年前はこんな旧態依然とした田舎があったのかと思われる方もいるだろうが、今も本質的にはあまり変わらないだろう。ネットなどの変化に目をつぶって底流を見つめれば、たいていの田舎では「そこかしこに見張りの目が光って」いる。要は小説で何を描くのか、人間社会のどこにフォーカスを当てるのかということである。
ふき子は長女だが女だから、結婚後、当然のように家を出て別の場所で暮らしている。男女平等などと言い出しても仕方がない。作家が描きたい主題はそこにはないのだから。しかし実家との縁が切れるわけではない。むしろ深まるというか冴える。
ふき子は実家の旧家を定期的に訪れる。同じ敷地内の別棟に弟の明夫夫婦が住んでいる。ふき子は自分が生まれ育った家を、両親と弟夫婦を、その関係性を相対化できる位相にいる。またふき子は実家で一番先に生まれた子どもで長女である。弟がしっかり者でなければ家を守るのはふき子以外にいない。いわば田舎的な家長制の中で虐げられながら、結局は家を差配――つまり家族の尻拭いをしなければならない。
「ゆりちゃん、お茶出したげて」
ママはふき子を誰もいないカウンターの隅に座らせると、接客をしていた花柄の服の女に言いつけて奥に消えた。
「あれえ、どっかで見た人やと思うたら」
ゆりちゃんと呼ばれた田中めぐみが胸も露わに、訳知り顔でにやついてくる。やられた。母という人は。めぐみが働いているのをわざと黙っていたのだ。
めぐみは焼きそばを頬張っている男の腕をゆすった。
「堂山さん。ほらご対面」
堂山友敬は横目でふき子を認めると、現場を取り押さえられたようなどきりとした顔をした。(中略)
友敬はいつの間には村を出てふき子の娘たちと同じ校区に住んでいた。素知らぬ顔で同じ小学校に子どもを通わせ、PTAの役員をしていたかと思うと、日南子(ふき子の娘)が四年生の頃には副会長、翌年には会長におさまった。(中略)
「あらお知り合い? ほなめぐみちゃんでええか」
いつの間にか戻っていたママは三人を眺めた。
「小学校一緒やってん。ふきちゃんの方が二つ上やねんけどな」
ふき子はなれなれしいめぐみを無視した。
同
関係性が密、というより粘着的に交わり絡まり合っているのは家族以外の村の人々も同じである。ふき子は実家が貸している駐車場の賃料を回収するために村で唯一のスナックに行く。ふき子の家は土地持ちで、つまり村の中ではそれなりの金持ちで有力な家なのだ。
スナックに行くと昼間ふき子が働いている保育園の同僚の、田中めぐみがホステスのアルバイトをしている。狭い村で知っている人には知れ渡っているはずだが、ゆりという源氏名を使っている。隠してもしょうがないことを村のタテマエという掟がそこはかとなく隠蔽している。真偽を確かめたわけではないが、めぐみは高校生の頃に弟の明夫の子どもを妊娠して堕胎し、それなりの金を父親がめぐみの家に払ったとふき子は聞いている。裏表があり見栄っ張りで虚言癖もあるめぐみをふき子は嫌っている。
客も顔見知りで幼馴染みだ。堂山友敬は市会議員に立候補した。「友敬はいつの間にか村を出てふき子の娘たちと同じ校区に住んでいた」とあるように、この小説では重要な要素ではないが部落もこの土地の属性である。友敬は自分の村で成り上がりたい。そのためにはあらゆるツテを使って市会議員に当選しようとする。そして実際に当選する。
「まるで俺だけ極道やな」
「極道は一家に一人で十分や」(中略)
緑色の母の心臓の波形をふき子は見ながら黙っていた。
ふき子は鞄から財布を出し、千円札をあるだけ四枚抜く。ぷんと金の特有のにおいがふき子の鼻先に漂った。
弟がダメになればなるほど、自分のせいのような気がした。
紙幣を半分に折りまた半分に折ると、ふき子は骨のふくれた指で弟のズボンのポケットにまっすぐ押し込んだ。
胸の中がちりちりと疼いた。愛情だった。娘たちにも夫にも決して感じない、薄暗い愛情だ。明夫はたった数千円でも手もなく言いなりになり、ふき子をやましい気持ちにさせた。母はお金をやる度にこんな、後ろ暗いそれでいて満ち足りた気持ちにひたっているのかとふき子は思った。
また敏子は目を覚まして喉が渇いたのか「ふき子ぉ」と呼んだ。(中略)うっとうしい透明なカーテンに顔を近づけて吸い口の水を、体を起こして飲ませてやり、さっきと同じように排泄の世話を繰り返した。その間に明夫は金の礼さえ言わずいつの間にか消えていた。
同
狭い社会(人間関係)にも事件は起こる。大事件ではなく、淀んだ水たまりの中に投じられた小石で波紋が生じ、水が溢れそうで溢れないような事件である。
ふき子の母親の敏子が血液の病気で入院する。症状は重篤で父親の善造はもう諦めているような気配だ。ふき子は毎日のように母親の世話のために病院に通う。ふき子はまた、少年の頃から不祥事を繰り返し、そのたびに旧家で小金持ちの実家を頼って尻拭いしてもらっていた弟の明夫が、また何か大きな穴をこしらえたことを察知する。果たして明夫は一千万円近い借金を母の敏子に泣きついて払ってもらっていた。敏子は実家のタンス預金から金を捻出した。家庭内窃盗だが今までと同じようにうやむやになるだろう。
敏子は長男で男の子の明夫がとにかくかわいい。明夫のためならなんでもする。そして明夫は当然という顔でそれを受け入れ父母をないがしろにする。父母はなんやかんや言って跡取り息子の明夫を立てる。その一方で長女のふき子になにくれとなく頼る。ふき子への見返りはほとんどない。
墓参りの時に偶然会った堂山友敬は、いつも凜とした雰囲気で自分を寄せ付けないふき子に「お前は、明夫くんをどっかでみくびってるねん。素行が悪うて、金借り倒して。しりぬぐいは全部親や。やってることは人間の屑や。屑以下や。お前が、(明夫が)優しいねんとゆうてられるのは、下にみてるからや。お前んとこのおばんが死んでみ、全部ころっと変わるで。明夫くんと明夫くんの嫁の天下や。村のやつらもさんざん陰であほにしてたくせに、手の平返してちやほやするで、そこんとこよう考えとかんとお前の立場みたいなもんなくなんで」と嫌味を言う。
友敬の言う通りで父母が亡くなれば、実家の財産はすべて弟の明夫が相続する。姉弟均等の財産分与などふき子の田舎では通用しない。そんなものは不文律として存在しないのだ。もちろん実家の財産を明夫が守り通せる保証はない。蕩尽し尽くしてしまう可能性の方が高いだろう。しかしふき子は何もできない。ふき子は狭い家族と田舎の傍観者であり全体を見通す見者でもあるが、その密な関係性の歯車を変えることはできない。
「骨を撫でる」を読みながら「ああ上手いね」「なるほどなるほど」と何度も唸った。本当のことを言えばこの小説に対するそれ以上の批評はない。作家の三国美千子さんが、こういった澱んでおり密でもある関係性社会を描くのが小説だと考えておられることが手に取るようにわかる。もっと言えば「骨を撫でる」のような小説が小説であり、それ以外の小説の形はないと確信しておられることが伝わってくる。そしてそれは正しい。
この正しさは三国さんがデビュー作と第二作で新潮新人賞、三島由紀夫賞、野間文芸新人賞を受賞なさっていることからもわかる。文句のつけようのない端正で完成された小説なのだ。こういった小説を高く評価する文壇というものをわたしたちは信頼していいだろう。
ただ世界は変化している。一九八〇年代ならこの小説の読まれ方は中上健次のような文脈にあっただろう。しかし現代は違う。三国さんの小説の端正さ、正統性はほとんど先祖返りのような質のものだ。腐しているわけではない。作品完成度は文句なしに高い。しかしやはり決定的に焦点が合っていないのではないかという違和感が抜けない。
この違和感は、わたしたちがいわゆる戦後文学までは残存していた小説文学の確固たるパラダイムが失われたことを知りながら、過去にしか拠り所がないこと、言い換えると現代社会にアップデートしたパラダイムを見出せていないことから生じている。だから違和感はあってもそれ以上の批評は出て来にくい。
また新潮新人賞、三島由紀夫賞という三国作品の異例の評価の早さ、高さは、そこはかとなく新潮が超保守的小説メディアであることを示唆している。文藝春秋社文學界は大混乱しているような印象があるが、超保守の新潮文壇はどっしり構えているような感じだ。それはいまだに文壇や文士を信じ、無条件に純文学の方が大衆文学よりも素晴らしい文学だと考えている作家たちにとっては大きな救いだろう。そういう大樹がなければ純文学作家の矜持など吹き飛んでしまうような危うい現実が足元に拡がっている。その一方で現状の文学に疑問と危機感を持ち、新たな試みを模索する作家たちにとって大新潮は「あそこの新人賞に応募しても無駄、通らないよ」と写る可能性がある。
ただだからこそ小説の世界には複数の小説メディアが存在するわけだ。この時評で何度か書いたようにメディアごとにそこはかとないクセがある。そういったクセを作家の方もある程度把握しなければ数打っても矢は当たらない。
大篠夏彦
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