七月号はいとうせいこうさんの「夢七日」が巻頭である。いとうさんがマルチタレントとして幅広く活躍なさっているのは言うまでもない。小説も数多く出版しておられる。
辻仁成さんや最近では又吉直樹さんなど、いわゆる芸能人で小説を書く人はもう珍しくない。『火花』のような大ヒット作はなかなか出ないが本業の方で高い知名度があるので、小説が書ければ、または版元が働きかけて小説を書く気があるならそれなりの部数は出る。まあはっきり言えばたいていの純文学作家よりも売れるだろう。
では芸能人の小説のレベルはどうかといえば、アベレージだと思う。恐ろしく下手だったり、構成がメチャクチャで読めないということはない。当たり前だがほとんどの芸能人は文学一筋ではない。本業の音楽やお笑い、演技や話術についてはプロだが文学に全力投球していない。それでも一定レベルの小説に仕上がるのは素直になぞるように小説を書くからである。純文学誌からの依頼ならそこでのルールをやんわり捉えて書く。大衆誌なら面白おかしい小説に仕上げる。そこに芸能人ならではの情報を盛り込むので読者は飽きない。
それに対して文学プロパーの作家は豊富な読書体験があり、小説について考え試行錯誤を繰り返してきたので過去作品とはひと味違う小説を書こうとする。なぞるだけでは満足できないわけだ。純文学小説の場合この新しさへの指向が上がる。文体を工夫し内容を工夫する。ただその工夫が空回りしているのが二十一世紀初頭の純文学界である。
やたらと文体に凝れば小説は当然読みにくくなる。内容を工夫し、ありきたりな物語を避けようとし続ければ物語がない、あるいは物語の筋がほとんど追えない一見支離滅裂な小説になったりもする。現代詩と同じで意図的に行われる実験文学はそれなりに意義がある。が、たいていの場合、いつの間にか特殊な文体や物語を書くのが目的になってしまっている。
写実絵画の時代に現れた印象派のように、決定的に新しい何事かを始めた人たちは偉大である。ただ文学の世界の実験的試みは、二十世紀初頭から半ば過ぎまでにほぼ出尽くしている。一九九〇年代以降の情報化社会になると作家のオリジナリティはもはやブラインドではなく、どこから何をアイディアとして引っ張ってきたのか、だいたいわかる。徒手空拳の未踏の新表現は難しいのだ。現代の実験小説にはどうしても過去前衛のコンバインと焼き直しが透けて見えてしまう。
また小説の世界では「文体」をうるさく言うが、これは一九八〇年代頃までの戦後文学の用法を踏襲しているだけだと思う。戦後文学には肉体に根ざした精神的飢餓という表現パラダイムが存在した(他の形でパラダイムを設定することもできる)。パラダイムは作家たちが共有している世界認識のことだが、戦後文学ではその世界認識に立脚して貧しさ、豊かさ、善意、悪意、希求などを表現することができた。パラダイムがハッキリしているからトリビアルとも言える文体の工夫を高く評価できたのである。つまり作家の世界認識が文体を生むのであり、いくら文体を工夫してもそこから世界認識が生まれるわけではない。内実が伴わない美術工芸品のような美しい文体などあるわけがない。
しかし00年代以降の現代作家たちにパラダイムは存在しない。現代をどう捉えていいのか作家はもちろんほとんどの同時代人が試行錯誤中だからだ。パラダイムが存在しない時代に文体を云々しても空しいところがある。
世界の変容に伴って人々の世界認識が変われば文体も自ずと変化する。最近では「文体が素晴らしい」「文体に特徴がある」といった言葉は批評家はめったに口にせず、むしろ小説家が小説を論じる際に使うことが多い。ただ底が浅いような気がする。「よく書けている」「個性的表現を工夫している」といった評価以上ではないだろう。たいして実のない評言で苦し紛れの雰囲気が漂う。
つまり現代文学、特に純文学の世界では規範になるような評価軸がない。キチンとした小説の体を成していれば評価はできるのだが、その先の現代性を捉えているかどうかの評価はまちまちだ。たいていの人々がまだ有名文芸誌や有名賞の権威を信じているが、純文学界に首を突っ込んだ者の多くが評価が恣意的になっていると感じているだろう。
ただ恣意的というのは依怙贔屓という意味ではない。なにを評価していいのかわからないのだ。だから編集部や作家が素晴らしい作品と評価したから有名文芸誌に掲載されたのではなく、たまさか有名文芸誌に掲載されたから素晴らしい作品という歪んだ逆転現象が起こっている。実際僕が読んでいても、出来が悪いを通り超してこりゃ載せちゃいけないなという作品が堂々と掲載されていたりする。しかし優劣基準を立てられないのだから仕方がない。責めることはできない。
プロパーの小説家にはそれなりの矜持があるはずだが現代社会を捉え切れていない以上、プロ中のプロとは言えない。多くの人が「ああ現代社会はこうやって表現すればいいんだ」という作品を生み出せない限り、偶然と僥倖で作家と作品にスポットライトが当たるような状況は続くだろう。それは実は作家にとってもとても危険で不幸なことなのだ。
現代社会の的を射貫くような作品は必ず生まれ、今の混乱した状況に終止符を打つだろう。しかしプロ作家がそれを成すかどうかはわからない。現代ではプロと素人は横一線だ。優れた才能を持つタレントが純文学界に君臨しても不思議ではない。
君はこんな夢を見ている。
柔らかいハンチングを頭にかぶって、よれよれの白い衣服を痩せたその身に着け、独特の薄暗さの中を他の集団と一緒に歩いているのだ。(中略)
映画人たちの数人がそんなことをささやいて笑ったが、よく聞き取れない。センリョウとか内部被曝という単語も耳に入ってきた。汚染が濃いから山が近いというのなら、自分たちのいるそこの度合いもきっと高いだろう。一体何が起こっているのか。君は会話の意味がわかったふりで笑ってみせ、彼らに背を向けて冷静になろうとする。何もわからずについてきたことを咎められたくない。
いとうせいこう「夢七日」「二〇一九年十一月十四日 木曜日」
「夢七日」は一種の幻想小説である。異界を描くファンタジー小説ではなく、交通事故で昏睡状態に陥った木村宙太という青年が見る夢という形を取っている。木村青年は私が大学で受け持つ古典芸能の講義のモグリの聴講生だった。ただ熱心な聴講生でしばしば私に質問しに来るうちに仲良くなった。木村が事故に遭ったのも私の家で遊んだ帰り道だった。それ以来五年間木村は眠り続けている。
個人的に付き合いがあったので私は木村のプライベートをよく知っている。ただ「夢七日」は木村から聞いたプライベートや思考を私が再構成したものでは必ずしもない。眠り続けている木村の意識に私の意識が混ざり合う。「夢七日」というタイトル通り、「二〇一九年十一月十四日 木曜日」から「二〇一九年十一月二十日 水曜日」までの私と木村の意識の混交の叙述である。
引用は小説冒頭だが「映画人たちの数人がそんなことをささやいて笑った」というのは著者の経験で、「センリョウとか内部被曝」が出てくるのは木村が福島で原発作業員として働いていた経験ゆえである。昏睡状態の木村に私の夢を見させ、私が木村の(見るだろう)夢を見るといった構成である。
君は夢でその日、イラストレーター氏の二人で京都へ出かけ、由緒ある寺の堂内でトークショーをするのだった。
呼んでくれたのはそのMちゃんと彼女の京都の女友達で、彼女らはそうした神社仏閣のプロデュースをしているということのようだ。さらに君は君でイラストレーター氏と長年仏像を観て歩いている仲なのだというから、夢は複雑と言えば複雑な設定で進んでいるのであった。
同「二〇一九年十一月十四日 木曜日」
君は現首相の失墜を望むが、だからといって次の総理の座に接近する人物が権力を掌握することを喜んでなどいない。けれどその人物は驚くほどの速さをもってこの国の力の源泉をつかむ。わざわざ近隣諸国へ悪罵を吐きながら。あるいは自分に批判的態度を取る者すべてに牙を剥きながら。長い病を持つ者が自らの責任で自宅へ戻るという政策さえもちらつかせて。
これは悪夢のあとの悪夢だ。
木村宙太、これは君の危機でもある。
同「二〇一九年十一月十九日 火曜日」
夢だからと言ってしまえばそれまでだが、私=木村の夢は自在と言えば自在に、脈絡もなくと言えば脈絡もなく生起する。ただその中にいとうさんは政治批判や香港民主化運動の動向などを織り込んでいる。過度な政治的意図はあまり感じられない。人間の日々の意識の流れはこんなものかもしれない。毎日新たな情報が入ってきて翌日には新たな情報に精神が惹きつけられる。それは芸能ニュースかもしれないしスポーツニュースかもしれない。問題はこの拡散しがちな夢をどう収斂させるかである。
私が君、木村宙太の代わりにサインをしたのが六日前、十一月十四日だった。
まったく同じ日の朝、君のお母さんが未珠ちゃんに伝えた。
君をこの世につないでいるすべての管から、君を解放することにしよう、と。
未珠ちゃんはもちろん抵抗した。
けれど、君のお母さんは涙を流しながら未珠ちゃんに宣言した。
私は母親として宙太を自由にしたい。お願いだから、未珠ちゃんも自由になってください。お願いします。
未珠ちゃんはうなずかなかったし、泣かなかった。これまでだって何度も同じことを話しあい、せめぎあってきたことだったから。
そしてあの体外受精した卵を子宮へ戻そうと、ますます強く決めたのだ。
自分たちの子供がきっと君を呼ぶ。
君は必ずその声で目覚める。
木村宙太よ、君よ。
なんにせよ君は今日、夢から振り落とされるだろう。
現実に帰る。
同「二〇一九年十一月二十日 水曜日」
木村は未珠という女性と結婚していた。未珠の反対を押し切って木村が福島原発で働くことを決めたとき、未珠は許可する代わりに人工授精用の卵子と精子を保存することを条件にした。人工授精の用意は放射の影響を恐れたからだが夫婦の不妊治療の一環でもあった。
拡散し続ける夢の記述を収斂させるのは木村の安楽死である。また私は昏睡状態の木村に代わって未珠の子宮に受精卵を着床させる書類にサインする。死と生が夢を終わらせ現実を取り戻すトリガーとなっている。
死と生の循環性に小説の大団円を設定するのは日本の私小説純文学の一つのクリシェである。ただ「夢七日」に妙な切迫感があるのは著者が木村と設定された人と実際に何らかの交流があり、安楽死に至る過程がある程度事実に基づいているからかもしれない。「木村宙太、昏睡している君はこうして私の夢を借りて歩き回っている」という記述があるが、「夢七日」という小説は不幸にして安楽死することになった木村某へのレクイエムとしても読める。
夢は便利なフレームだが一貫した物語にはなりにくい。それを統御するのが木村の安楽死への過程である。ただそこにモデルとなった人物の経歴や思考から著者の交友関係、政治批判思想、また古典文学への興味などをすべて詰め込むのはやはり詰め込み過ぎだろう。しかしだからといってこの作品が純文学的実験作としてプロ作家の作品に見劣りするわけではない。むしろ抒情的焦点があるので読んで「ああなるほど」と納得できる。それを評価するのかしないのかが、これまた純文学界の不文律的評価基準になるかもしれない。
大篠夏彦
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