文學界 2020年01月号の時評で「文學界を読めば読むほど純文学とはどういうものなのか、小説がどういうものなのか、どんどんわからなくなってしまうところがあります」と書いたが、文学金魚編集人の石川良策さんのおかげでそれなりに納得できるアウトラインを掴めるようになった。
文学金魚の文芸誌時評は呑気なところがあって、「文学の世界に毎月変わるような状況などないのだから、少しでも作家が創作のヒントにできるような内容にしてください」と要請されていた。そのため「ヒマな時にまとめて時評を書いてもらえばいいです」という実に緩い原稿依頼のスタンスだった。
これは大変助かる話で、僕だって時評に全力投球しているわけではない。ほかの仕事の合間を縫って、まあ言葉は悪いが片手間に書いている。片手間といっても手抜きをしているという意味ではなく、人間にとって世界は自己と他者から成り立っている。そして文学の世界で他者とは自己以外の創作者の作品を指す。他者の作品を読むことは自己の創作にとって必要不可欠で、それによって世界、つまり自他関係をバランス良く保ってゆけるのである。文芸誌時評は自他バランスを取るためにとても効果的な書き物なのだ。
ただ〆切ご自由だとどうしても「この仕事後回し」になりがちで、気がつくと一年分ほど文學界時評を怠ってしまった。これには石川さんもぶち切れたようで「最長三ヶ月遅れ程度で時評を書いてください」というかなりキツイ叱責のメールが飛んできた。僕以外の時評者にも石川さんの強い要請があったようである。引き受けた以上、ちゃんとやらなきゃとは思っていたのでこれには反省しきりだった。
そこで時間を取って文學界を十三ヶ月分読んだ。もちろん全ページ精読したわけではないが、小説中心にめぼしい作品はすべて読んだ。それによって今までモヤモヤしていた文學界の〝純文学へのスタンス〟といったものを、かなり正確に把握できたと思う。
もうずいぶん前になるが、小説界というか文壇というものがまったく理解できなかったので、図書館に出かけて片っ端から文芸誌を借りて一週間ほど読み耽ったことがある。文芸各誌を積み上げて読み進んでいくうちに〝ああ文壇というのは文學界のことなんだ〟とハッキリ理解できた瞬間があった。漠然と文学の世界・文壇というものを眺めている方にはこの感覚は奇異だろう。しかし本当のことである。
もっと突っ込んで言えば、文壇とは文學界が実質的に主宰する芥川賞を頂点とする一種の制度である。制度と言えるのは、芥川賞が提示する作品によってかなりの程度日本の純文学が規定され、純文学作家を自任あるいは目標とする作家もそれを目指して作品を書いているということである。
もちろん文學界以外にも純文学誌は新潮、すばる、群像、文藝(文芸五誌)があり、芥川賞の大半はこの文芸五誌に掲載された、あるいはそこで新人賞を受賞した作家のその後の作品に授与される。しかし他の純文学誌もまた基本的には芥川賞を指標にしている。他誌に書いても純文学系作家は芥川賞的な作品を書かなければならないと刷り込まれており、編集部も純文学系作家は芥川賞を受賞しなければにっちもさっちもいかないと認識している。純文学の世界は実質的に文學界・芥川賞を頂点としたピラミッド構造になっているのである。
これは純文学系作家が本家文學界に書く際により明確になる。他誌に書くよりも芥川賞的純文学度が確実に上がる。特に新人作家の場合はそうである。もちろん他誌は野間文芸賞や三島由紀夫賞などを創設して芥川賞一極集中の純文学界を変えようと努力してきた。しかし牙城を揺るがすには至っていない。むしろそれらは芥川賞の前哨戦、あるいは芥川賞から洩れた作家への報奨賞になっているようなところがある。
この日本の純文学制度は当面変わらないだろう。また純文学系作家はもちろん文學界以外の他誌も芥川賞的制度を翼賛し続けるならば、とやかく言うことは何もない。それは純文学の世界のいわゆる大衆の支持を得ていることになるからだ。ただ文學界・芥川賞の純文学的制度がどういうものなのかは把握しておいた方がいいと思う。
どうしても純文学誌の新人賞や芥川賞が欲しいなら受験と同じで一定のノウハウはある。それが飲み込めれば遠回りせずに済むかもしれない。芥川賞は基本的に文芸五誌で新人賞を受賞していわゆる文壇デビューした作家を対象とする新人作家の中の新人賞の位置付けである。しかし芥川賞のレガシーを活用すれば、田舎のある作家なら地方都市の文学館の館長の職を得られ大学講師になれるかもしれないが、その後の作家活動が保証されるわけでは一切ない。乱暴な言い方をすれば〝どうしても書き続けたい作家〟ならノウハウを活用してさっさと芥川賞という目標はクリアしてしまった方がいい。
芥川賞はビッグネームだから、それを受賞すれば該当作品は確実に一定部数売れる。しかし本を出すたびに芥川賞を始めとする賞をもらって話題になるわけではない。コアな読者を獲得しなければ作家はどうにもならないのだ。なかなか芥川賞がもらえないので悪戦苦闘するうちに純文学作家の視線がどんどん文壇に内向きに絞り込まれ、ついには肝心の読者を見失ってしまうことはままある。文壇内有名人だが小説が売れていないどころか精力的に書いてすらおらず、詩集と同じで四、五年に一回しか本が出ない作家も大勢いる。文壇では有名人で先生だから版元は宣伝に力を入れる。が、たいていそんな人工的話題は年を越せない。各種選考委員の役職を始めとして文壇に就職して食わせてもらうのが目標ならともかく、ありきたりな純文学作家の未来を回避して精力的に書き続けたい作家は、純文学界の制度を理解してスルリとそこを抜けた方がいい。作家の目標は読者を得て書き続けることだからだ。作家になりたいという欲望が芥川賞受賞とイコールならその時点で力尽きる。
芥川賞的日本の純文学は、基本的にはゾラらのヨーロッパ自然主義小説の翻案あるいは早稲田文学的な自然主義的私小説のベースからあまり変わっていない。私の苦悩を描くわけだ。この私小説の流れは明治から昭和後期の、まだ社会が貧しく文化的にも欧米文学・思想を神と仰ぐような時代には〝遅れている日本〟という自虐意識ともあいまってスリリングなものだった。戦後には敗戦の傷もそれを抉る決定的要素となった。戦後文学は乱暴に言えば精神的にも肉体的にも〝腹が減った〟を描いた小説である。そういった飢餓感が社会に満ちていた。
もちろん私小説は日本独自の小説形態であり、その構造を突き詰めてゆくと日本文学の根幹にブチ当たる。それは日本文学の本質を示唆するとても重要な問題である。しかし私小説の本質を捉えて小説を書いているのは西村賢太以外には見当たらない。ほとんどの純文学作家は純文学的雰囲気を醸し出すツールとして自然主義的私小説を援用しているだけである。
一方で現代日本文学の純文学の代表は村上春樹だという評価がある。春樹さんの本が日本だけでなく海外でも広く読まれているのは言うまでもない。ノーベル賞候補になっているとも噂される。じゃあ春樹さんの小説に辛気くさい自然主義的私小説の臭いがあるのかといえば、まったくない。それがないから愛されており、また新しい日本の純文学として評価されている。
じゃあ文壇が実質的に日本の純文学として堅持し続けている芥川賞的自然主義私小説の流れと、日本国内の読者はもちろん世界的評価を得ている春樹小説を順接できているのかというと、まったくできていない。これもハッキリ言えば、なかなか書いてくださらない春樹先生の原稿が欲しくて新刊が出るたびに純文学誌では特集が組まれ、春樹読本が刊行されたりもする。日本の純文学界ではほぼ春樹さんだけが〝売り手市場〟である。しかし村上春樹尊重は上辺だけだ。春樹小説は日本の文壇ではいわば例外扱いである。日本的自然主義私小説に風穴を開ける純文学という形では捉えられていない。
簡単に言えば春樹小説が描いているのは豊かさの中の孤独である。社会が、個の生活が豊かになればなるほど人間存在は孤独になってゆく。フィッツジェラルドのエキゾチックな焼き直しっぽいが少なくとも私小説的孤独とは質が違う。村上春樹は一九四九年生まれであり戦後文学の掉尾を飾った中上健次らと同世代である。しかし中上世代、あるいはその後の世代よりも〝新しい〟と感じさせる小説を書く。作家の年齢と育った時代が作品内容を規定するわけではない。作家の〝世界認識〟が作品を古びたものにもすれば新しくもする。
ドメスティックな日本の純文学も春樹小説も人間の孤独を描いているのは同じである。物質的な豊かさはもちろん、SNSに代表される情報的にも豊かな現代世界に住んでいるのも同じだ。しかし日本のドメスティック純文学が明治大正時代から続く自然主義私小説にウエイトを置いて現代を捉えているのに対し、春樹小説は原則として現代社会の変化という世界認識を元に個の孤独を描いている。日本ドメスティック純文学ではゲームやSNSは小道具にしかならないが、春樹小説ではそれを正面から小説のテーマに据えることができる。
言い添えておけば僕は春樹小説は素晴らしいと絶賛しているわけではない。ここでは書かないがむしろ批判的だ。しかし現代的変化に目をつぶり色あせた自然主義的私小説に固執する日本のドメスティック純文学より遙かに優れていると思う。作家はすべからく作品で現代をスコープの中心に捉える義務がある。また小説のようにマスの潜在願望、欲望、問題意識を露わにする文学形態では現代を捉えられなければ作品が売れるわけがない。
これは余談だが小説批評の低迷も今の袋小路のような状況に拍車をかけている。一九八〇年代頃を絶頂として、日本の批評界には柄谷行人・蓮実重彦を双璧とする〝創作批評〟の時代があった。それまでの小説批評は基本的に小説を読むことでその意義を説き明かし、新たな小説の誕生を促すためにあった。しかし柄谷・蓮實両氏は小説を自らの〝創作批評〟のダシに使った。それは当初はとても面白かった。批評を一種の創作としてスリリングに読むことができたからである。知的情報もふんだんで、特に柄谷氏はポスト・モダニズム思想を縦横無尽に引用して錯綜した論旨で読者を韜晦し、その上に君臨する柄谷行人という特権的知性をアピールするのに非常に長けていた。読者はちゃんと読んだことのないデリダやマルクスを柄谷流になんとなく読んだ気にさせられていたのだった。しかしもう魔法は解けている。社会批評家に転身した柄谷さんの世界認識や予想はぜんぜん実効性がない。
「俺が俺が」「わたしがわたしが」のSNSの時代に、批評家が批評が小説の一種の下僕となってしまうことに我慢ならなくなる心情はよくわかる。だから日本の文芸批評家たちは柄谷・蓮實という先駆者に右ならえして、一斉に自己の思想や感受性をアピールする創作批評を書き始めたわけだ。しかしどの世界でも特権的な位相にいられるのは〝最初に新しいことを始めた人〟だけである。同じことをやっているはずなのに、誰も柄谷・蓮實両氏のような文壇でのプレステージを得られなかったのである。
そのため目先の利く批評家は文芸批評で頭角を現すと、サブカルやSNS、政治・社会問題批評といったより大きなニーズのある批評ジャンルにシフトしていった。これはまあヒドイ言い方かもしれないが、文芸批評界にはより大きなパイを求める才気すらない批評家が残ったような節がある。もちろん文学大好きで文学一所懸命なのだろう。しかし結果が伴っていない。たいていは柄谷・蓮實の創作批評の焼き直しの批評方法でそれも小粒になるばかりだ。欧米哲学や心理学を枕にし、引用して後ろ盾を得なければ自己の考えすら出てこない。原稿用紙のマス目が埋まらないのだ。しかもそれはもう手管が透けて見える手法で作家の批評〝創作〟能力も感じられなくなっている。
では実質的に日本の純文学界に君臨する文學界が、賞味期限切れ間近の伝統的自然主義私小説の危うさに気づいていないのかと言えば、もちろんそんなことはない。文學界の目次は三ページで、たいていの場合、最初のページに連載や書き下ろし小説の目次が並ぶ。これが表向きのメインディッシュである。ただ続く二、三ページには対談や評論、エッセイなどの目次がズラリと並んでいる。
純文学作家の数が多い割には作品発表メディアが少なく、作品を文芸誌に載せていただくのに汲々としているのは周知の事実である。多くの作家が半年、一年待ちだ。小説誌なのだからもっと小説にページを割けばいいのにと思うのだが、むしろ後半二ページの目次の方が充実していく気配である。またそこに登場するのは小説家だけではない。むしろ俳優、タレント、お笑い芸人、劇作家、映画監督、ミュージシャン、マンガ家といった文学の世界を超えた広い社会での売れっ子が後半二ページの著者のメインディッシュである。
文學界に限らず雑誌で編集部の意見が直接的に表現されることは少ない。それは誌面構成から読み取るしかないわけだ。小説家よりもその他の芸能・エンタメ作家・表現者たちを優遇しているのは文學界の明確なメッセージだと言っていいと思う。乱暴に言えば文學界編集部はあまり作家に期待していない。もう少しちゃんと言えば、編集部が力を入れている後半二ページの内容を参考にして小説に現代性を取り込んでくださいよ、というメッセージだと思う。
ただこの場合の現代性の取り込みは、あくまで文學界が伝統的に維持している日本的な自然主義私小説の流れの中でという意味だと思う。従って文學界に限らず日本の純文学文壇で頭角を現したいのなら、少なくとも過去の純文学の雰囲気とそれが生み出された文脈を最低限、学習・習得する必要がある。またこれも乱暴に言えば、主人公はIT企業などで稼ぎまくっている人間ではなく、要領が悪くて苦しい生活に追い詰められている人間に設定して、その孤独を描く方が受けが良いだろう。
しかし終戦後じゃあるまいし食う物もないほど追い詰められている人間ではリアリティがない。たいていはスマホを持つくらいの余裕はあるわけだから、現代社会の底辺に近いところから物質的・情報的に豊かな社会に食い込むような視線があらまほし、といったところである。大文字の社会問題は自然主義私小説にはそぐわない。非正規フリーター、非登校、いじめ、LGBT、長寿化社会、介護などが格好のテーマである。ただしハッピーかドツボの二者択一のオチは避けた方がいい。それをやると大衆文学だと言われる。現代社会に鋭く斬り込むような決定的中身はなくてもいいが、純文学的雰囲気は必須だ。最初に大きく問題を提示して最後はどうせ誰も現代社会など把握てきないのだから、問題は解決不能でさらりと流すくらいの余裕を持てればプロの純文学作家と言っていい。
こういった傾向と対策は、漠然と作家になりたい、小説を評価されたいと思っている作家には寝耳に水かもしれない。しかし文學界を熟読して新人賞を狙い、芥川賞まで見据えている作家には常識的なものだろう。そういう人間がいるのかと思われるかもしれないが、いる。でなければ同じような傾向の作品が純文学誌にズラリと並ばない。文学に限らず人間の世界はどこまで行っても競争である。
そういう作家たちと肩を並べて切磋琢磨するもよし、純文学界のハードルを理解した上で軽くそれを超えて違う表現方法を求めるのも良しである。有名文学賞をもらって作家の肩書きを得たいのなら、最短ルートでさっさともらえば良いのである。その次のステップの方が遙かに重要だ。ここで書いたような傾向と対策を大いに活用していただきたい。
ただ僕は読書体験から言っても、実際に優れた作家たちに交流した経験から言っても今の文学が正しい方向に進んでいるとはどうしても思えない。古典的な言い方をすればご先祖様に申しわけがないような気がする。僕はひたすら文学に忠実なのであって、参考にはするが文芸誌や賞の権威を頭から信じていない。ある程度ハッキリ文學界のスタンスが掴めたので、この批評はこれまでよりも少し厳しくなるかもしれない。
もちろんこの批評は作品批評であってその域を出ない。作家は自己と作品を切り離せないので、批判的なことを書かれたりすると当然頭にくるだろう。しかし僕は常に文学の味方である。作家の味方だということでもある。これも古典的だが小説批評はよりよい小説を生み出すためにあると考えている。
――先輩。彼女がかすれた声で呼びかけてきた。明かりつけて、ルーモス。
――呪文っていうか、命令の合図みたいだな。私は苦笑しながら、皺の浮いたシーツに手を置いて腰を浮かせた。
――やっぱりつけないで、ステイ。
――犬かよ。ベッドに尻を落とすように座りなおした。二人の唾液が混じって、口の中がべとついていた。春花の舌の味と感触を私は思い出した。腰のゆるやかな起伏を撫でた。手が伸びてきて私の指を絡めとった。重心が崩され、私は再びベッドに伸びた。
水原涼「光の状況」
水原涼さんは一九八九年生まれの若手作家である。「光の状況」は私を主人公にして私の言動と心の動きを描く古典的な私小説の形式である。私はある文芸誌の新人賞を受賞して作家を目指している。北海道あたりの大学生で留年を重ねて七年生だが、思い切って卒業して文芸創作科のある東京の大学の創作学科修士課程に入学し直そうとしている。これらの設定が作家の実人生にピタリと重なるのかどうかはわからないが、実際に早稲田の文学研究科の修士課程を卒業なさっている。フィクション要素はあるにせよ作家の実人生に即した私小説である。
私は絵奈という女性と学生結婚したが結婚三ヶ月目で彼女の浮気がわかって離婚した。離婚が成立するまで別居することにしたが、その間に大学の後輩の春花と肉体関係を結んだ。春花の方が積極的に迫って来たからだが私にとっては恋人未満である。絵奈と離婚しても春花と真剣に付き合う気持ちは持っていない。ただ春花は私に迫る際に「先輩、わたし、(恋人と)別れましたよ」と言っているので彼女の方は真剣だ。
春花との最初のセックスの時に、彼女は「明かりつけて、ルーモス」と言う。『ハリー・ポッター』に出てくる呪文でAndroidスマホのライト点灯にも使える。ただし私は『ハリポタ』をファンタジー小説と呼んでいるのでサブカル扱いである。私はまあ言ってみればファンタジー小説作家よりも格上の純文学作家なのだ。当然ファンタジー小説好きの春花の扱いもそれに近くなる。彼女はまだ幼い。では私がうんと大人なのかと言えばそうとも言えない。サブカルもSNSもゲームも援用されているがそれらはすべて小説の小道具扱いである。では小説のメインテーマはなにか。
身体を横にしたり路肩に身を寄せたりして酔っぱらいを避けながらゆっくりと歩いた。浮気の詳細が書きこまれた絵奈の日記を自宅のプリンターで複写しながら、私はこの体験を小説にすることを考えていた。調停や裁判になった場合に備えるなら写真に撮るだけでよく、わざわざ全ページを二部ずつ複写したのは、執筆時にパソコンの横に置いて参照するためだ。でも、妻の浮気、離婚、そして夫の新しい恋人、自分にとっては人生の一大事だが、男やマスターの言うとおり、それはありふれたモチーフでしかなかった。(中略)
何が起きたのかを鮮明に憶えている今書くべきだ、と私は思った。離婚の記憶もそのときに抱いた感情も、掌の皺のように永遠に残るけど、いずれ他の記憶の中でうすれてしまうはずだった。だがそれと同時に、長い時間のフィルターで記憶を濾して、それでも残ったものだけが書かれる価値があるのだ、とも思った。
同
離婚協議中の妻の絵奈は、新婚ほやほやの時期から浮気していた男との交渉を日記に詳細に書き記していた。それを見つけて密かに複写する私の姿は普通に考えれば陰惨である。ただ私は自己の行為を淫靡で陰惨で自虐的だとは捉えていない。それは離婚を有利に進めるためではなく、小説を書くための取材の一貫だからだ。多くの作家は取材のためなら普段はやらないことも簡単にできてしまうものである。その意味で私は小説を書くのに憑かれた人ではある。
しかし私は取材資料を作りながら、自分の人生の一大事であるはずの離婚を「ありふれたモチーフ」だと考える。時間が経って「それでも残ったものだけが書かれる価値がある」と考える。自分の離婚よりもっと重要な、もっと切迫した小説のテーマがあるはずだということである。
だが私の思考には大きな欠落が見え隠れする。もちろん妻の不倫で離婚協議中だとはいえ、私も別の女性と付き合っているという後ろめたさはあるだろう。ただもっと前提の話として、留年し続ける学生の私と就職して働き始めた妻との間に齟齬が生まれるのは当然だろう。またすべての離婚がそうだが原因は男女双方にある。しかし私は妻の浮気についてとことん追求しない。それをやれば私の欠落を抉ることになるからである。問題は置き換えられる。妻の浮気は言ってみれば小説、あるいは純文学小説を書くという浮世離れした目的のための多くの素材の一つに過ぎないと相対化される。だが伝統的私小説の型をなぞりながら自分の、そしてかけがいのない身近な他者の傷を抉らないのでは当たり前だが私小説にはならない。
何も降ってきていないのに、春花は雪片を受け止めるように両手を合わせて掲げた。光を受け止めているようだ、と思った途端、彼女は閉じていた指を拡げた。
――わかってる。(中略)
――そうなの。芝居がかった彼女の仕草に、自分の声が平板になっているのに気づきながら訊いた。わかってたって、いつから?
――先輩、院を受けるって言って、わたしがなんて言っても変わらなかったでしょ。
そうだね、と私は低い声で言った。街まで一緒に出て、喫茶店でケーキを食べたあと、腹ごなしに散歩しようと入ったこの公園で、東京に引っ越す日が決まったことを伝え、別れたいと告げたのだった。(中略)
――あなたは優秀だからね。落ちるはずがないから。
お世辞のような言葉に内心で喜びながら、あまりにもあっさりと受け入れられたことに拍子抜けしてもいた。
同
「春花は雪片を受け止めるように両手を合わせて掲げた。光を受け止めているようだ、と思った」というのが「光の状況」というタイトルの由来だろう。春花という女性は私の別れたいという言葉を、天から降ってきた光のように受け入れたということである。
私と春花は恋人同士だという告白はしていないが、一年付き合ったとある。その間、春花はずっと私のことを「先輩」と呼んでいる。年が離れていても恋人同士になればそんな呼び方はしなくなるのが普通である。ましてや学生同士である。私の方が春花との間に柵を設けている、あるいは春花が私にコンプレックスと尊敬の念が入り交じった感情を持っていて、それを乗り越えて私の内面に踏み込めないのだとも言える。私は学生で留年生だが特権的な純文学作家なのだ。
狭く閉じた大学社会で在学中に東京中央の文芸誌の新人賞を受賞したのは大変な特権的地位を得たことを意味する。普通なら忸怩たる三年留年もさして気にならないのもそのせいだ。それは文学のための貴重な時間だからだ。だから春花は私の身勝手とも言える別れの申し出に素直に応じた。彼女は愛している文学狂いの私との別れの際に、私の大好きな文学的身振りで応えたのだと言ってもいい。
「あなたは優秀だからね。落ちるはずがないから」という言葉は普通に考えれば不可解だ。主人公は三年も留年していてアルバイトで稼いでいる学生である。その上親に頼って修士課程に進学する。「優秀」は純文学作家を指すと考えていいだろう。この小説のテーマは純文学作家である私の特権的矜持だと言っていいところがある。もちろんそれが間違いだとか、嫌味だととか言っているわけではない。コトは文学の、小説の問題に終始する。
私小説の体裁で私を主人公にして実人生に沿った小説を書き始めた以上、なんらかの形で私の内面を抉らなければ小説は切迫感のあるものにならない。それが私小説の絶対譲れないルールだ。離婚でそれをやらないのなら、私の浮世離れした文学狂い、特権意識を強く意識し拡大して底の底まで抉るしかないと思う。それは不安に揺れているはずだ。表層をなぞって誰も傷つかない小説は迫力に欠ける。核を設定してそれを抉れば、私小説かどうかは別として、怖い物見たさであれ読者が思わず引き込まれる小説になる。
大篠夏彦
■ 水原涼さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■