最果タヒさんはとても気になる作家だ。少し前にAdoさんの『うっせぇわ』がバズったが、ちょっとそれに近い感じがある。思春期の子は全身から棘を出していて「うっせぇ意味わかんねぇ」と他者と世界を全否定する瞬間があるが、男の子は子どもの頃から「男の子でしょ」と社会的動物として育てられるせいか、他者の言葉に、社会からの圧迫に目が泳いだりする。でも女の子には何があっても何を言われても平然としている子がいる。それを許されたりもする。社会の網目のすり抜け方を本能的に知っているからという面は確実にある。そんなにピュアではないわけだ。ただその叫び自体には迫力があり、一瞬痛切ではある。社会全体から見れば弱者だが、弱者の叫びを代弁すれば社会的強者にもなれる。
高校受験の頃は眉毛を抜くか、爪をちぎるかをずっとしてしまって、それが自傷行為の一種だとネットで見たときにどちらかといえばもっと不埒なものだと思う、と頭の中で答えていた。爪と指の間の肉をさらけ出したいし、眉毛に隠された皮膚をあらわにしたい。そういうものに興奮しない奴はにせものである、性欲とかないんでないか? 他人から教わった欲望をなぞってさも自分がいやらしい生き物かのように演じている。大丈夫あなたは聖なるひとよ。
(最果タヒ「あなた妃」)
「あなた妃」は「私」が語り手である。眉毛を抜くのも爪をちぎるのも心理学で言われているような自傷行為ではなく、「もっと不埒なもの」であり、私は「他人から教わった欲望をなぞって」いるわけではないと思う。自傷行為なんぞは結局ありきたりで、私の行為はそのようなステレオタイプには嵌まらないということだろう。では私は何を求めているのか。
もちろんそんなはっきりとした結論があるのなら、詩や小説など書かないというのが最果さんの姿勢でしょうね。いわば〝永遠の模索の動きそのもの〟が作品行為としての作品ということになるだろう。
決してなんらかの結論に至らない作品行為は辛いといえば辛い。イライラするといえばイライラが募るかもしれない。しかしなんらかのポイントに達しても私はさらなる「不埒なもの」を追い求めるのではないか。そうせざるを得ないのではないか。作品行為そのものが小説のテーマということである。
(前略)「ぼくはずっと人が嘘をついていると思ってたんや、でもそうではないみたいやってここ数日思い知った。みんな何にも考えてへんのやな。何にも考えてへんから、ありもしないものを欲して、苦しんで、この絵を前にして泣いているんや。そういうのってアホみたいやん。あほやなあ、って思ってるよ。ぼくは姉さんに会いたくてたまらなかったよ」
「へえ」
「なんで姉さんはぼくが好きなんやろって思ってたけど、今はよくわかる」
「ごめん、私、さっきの弟の言葉もよくわからへん」
「アハアハ、なあー、そうやろ? 人って、開けたら、開けへんかったほうがよかった!! って思い知るだけの箱なんやな」
かわいそうや。
弟を見ていたら、私は泣きたくてたまらなくなった。(中略)神様はどうして弟の才能を開花させてしまったんや。弟が絵を描くのは絵が好きだからだ、それが一番ゆうやけの見える気がする時間だからだ。幸福というものに対して、わかり合うということに対して、もうずっと諦めてきたし冷笑していた彼は、ただそれでも絵を描いていたし、それだけうつくしい生き方だった。心は汚く、怠惰で、両親を勝手に死んだことにして、身体は妙な匂いをさせて、人間と語り合うことができない、信じあえない、でもそれでも彼はうつくしい生き物だった。それがなんでみんなわからへんの? なんで急に会話ができるつもりで、彼に語りかけるのですか?
(同)
「あなた妃」に登場する職場の同僚や元彼は、私が所属し付き合わなければならない社会(世界)との齟齬を露わにするための存在として設定されている。重要なのは私と弟の関係だ。「あなた妃」のタイトルは、私が画家の卵である実の弟にとっての妃であることをうっすらと示唆している。
私と弟は双子だが、私が先に生まれてきたので特権的姉であり、実の姉弟だから恋も結婚もない不可侵の姉である。そして私と弟は本質的に理解し合っていて、かつ本質的に離反している。弟は「人って、開けたら、開けへんかったほうがよかった!! って思い知るだけの箱なんやな」と言う。ずっと売れない画家だった弟の絵は突然評価され売れ始めたのだが、私は絵が売れたら弟の魅力は失われると思う。私にとって弟は「心は汚く、怠惰で(中略)人間と語り合うことができない、信じあえない」人だが、「絵を描くのは絵が好き」だという一点で「うつくしい生き物」だからだ。私は弟であり弟は私である。ただ私と弟は表裏だが、表裏は一体になってはいけない。
私は宝くじで五千万当てたがそれを弟にやり、弟になり代わって画家を称して絵を売り始める。弟とは会わない。電話で話すくらいだ。だけど絵は送ってくる。それを売るのである。私と弟の欲望あるいは願望は脆いが繭に閉じたように完結する。私も弟と同じように「心は汚く、怠惰で」誰とも「信じあえない」人間だがその純な核は守られる。攻撃的でそれなりに複雑な修辞を多用した純文学小説だが筋はスッキリ通っている。
たった三十分の遅刻で、何んでこんなことになるんだとの思いがあった。(中略)
まだ自身の、すべては自業自得の因によるどじな流れの連続と、この先、延々と繰り返されることになる、へまな巡り合わせとの異様な遭遇率の高さを知る由もなく、今回のこの仕打ちにひたすらの理不尽を感じ、わが身の故なき不運を訝しがって嘆きながら、
「何が、舌打ちだよ。馬鹿野郎めが。笑わせるない!」
との、悪態をついた。
その怒りもあって、今先までかの旅館で嗅がされていたカレーの臭いは、恰も下痢グソのそれのように記憶が変じていたし、昨夜に頬張ってしまったハンバーグは、あの経営者夫婦がひり出した糞便を練って捏ね合わせたものであったような、もう、救いのない気分に陥ったものだった。
(西村賢太「人糞ハンバーグ 或いは「啄木の嗟嘆も流れた路地」」)
西村賢太さんの「人糞ハンバーグ 或いは「啄木の嗟嘆も流れた路地」」は、彼の作品ではおなじみの北町貫太シリーズ。中学を卒業した貫太は自活しようと東京鶯谷の三畳一間の安アパートに住むが、仕事は続かない。中卒で学歴はなく手に職もないのだが、なぜか自分は特権的で特別な人間であると思い込み、他者をことごとくバカにしている。しかし母親に少額の金をせびり続けるのも限界があり本郷のある旅館で働き始める。が、二日目に三十分遅刻したのを理由にあっさりクビになってしまう。もちろん貫太は反省などしない。遅刻など些細な理由でありちんけなヤツらだと、雇い主の旅館の夫婦を心の中で罵倒する。
西村さんの小説で描かれているのは肥大化した人間の自我意識が社会と接触した際に生じる地獄である。自他との戦いでは常に自己に味方するのが人間存在の普遍的在りようだが、肥大化した自我意識は自己の落ち度を認めず他者を批判し攻撃し続ける。すべて他人が悪いのだ。しかしそれによって自己は追い詰められ社会の中で地獄を見ることになる。
その地獄を淡々と西村さんは描く。多かれ少なかれ、人間の自我意識は肥大化している。西村さんはそれが社会(世界)に曝された際の軋轢=地獄を極端にクローズアップして表現している。そこからの〝救済〟は書かれていない。しかし地獄をじっと直視すること自体が救済である。日本の私小説にしかない小説形態でしょうね。
大篠夏彦
■ 最果タヒさんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■