今月号には特集「戦争と貧困」が組まれていて、八人の俳人が「戦争を詠む」と「貧困を詠む」のお題でエッセイと自作俳句を発表しておられる。楽しく読ませていただいたが、読んでいて特集とは関係のあるようなないようなことを考えてしまった。
日本人にとって一番身近で切実な戦争は、もう八十年近く前の太平洋戦争である。戦中派の方が多くご活躍なので、今現在詠まれている俳句にもしばしば戦争が句題になって登場する。「○○法案反対」とか「○○辞めろ」といった内容の句は作家の社会主張なわけで、一九六〇年代の政治闘争の時期に盛んに書かれた政治詩(自由詩の世界の話しですが)とあまり変わらない。政治詩の時期にはもちろん戦後詩と現代詩があったわけで、こちらの方が文学として生き残ることになった。それについて詳述するつもりはないが、戦争といった危機に対しての個の人間の反応は、大局的に見れば限られていると思う。
その限定された選択肢の中で、ちょいと気になるのはアポカリプス幻想である。俗な言い方をすれば「世界終末幻想」だ。さすがに過去の戦争を想起するときにはそれは起こらないが――なぜって日本は太平洋戦争の焦土から復興したから――東日本大震災のフクイチ原発事故や、今猖獗を極めているコロナ禍などではしばしば顔をのぞかせる。これも乱暴に言えば「もう世界は終わりだぁ」とか「この際いっそ、ガラガラポンにして全部ひっくり返しちゃえ」といった、ラディカルであり、無責任でもある言説が表れたりする。特にTwitterなどで個々の人間の思想感情が表現しやすくなると、大きな社会的事件が起こるたびに終末幻想が表れるんだなぁと感じたりする。
身も蓋もないことを言えば、今現在社会で活躍し成功している人は、当然のことながらアポカリプス幻想を抱かない。「なあに、時間が経てばまた持ち直すさ」と今現在が続いてゆくと考える。対してただでさえ生活上で苦労している人は、「いよいよ終わりだぁ」と言いたがるようなところがある。もちろんどちらも正しくない。
戦争でなくても大事件が起これば、社会のある部分は必ず変わる。それを正しく見極めなければ現在の生活とか名誉が崩れてしまうこともある。またかなりの大事件が起こっても大勢では社会はそう簡単に変わらない。ジリジリしてイライラしても、社会という大きな歯車はゆっくり大事件を消化してゆくものである。
気になるのは――さすがに微妙な言い方ではあるが――原発以降、コロナ禍の時代に文学者がしばしばアポカリプス幻想を洩らすようになったことである。それが社会全体の無意識から意識になると、社会はかなりヤバイ状況になる。まだそうはならないだろうが、どこかで社会の行き詰まり感が強いのは確かである。文学でも多くの作家が社会的あるいは個人的文学のヴィジョンを見失っている。書いても書いても社会に食い込んだという手応えがなく、行き当たりばったりにならざるを得ないわけだ。
これはなんとかしなければならないわけだが、そう簡単な特効薬はない。ただ大事件とはどういうものかは考える必要があるだろう。今現在の大事件は相対化できないが、過去に学ぶことで対処法をある程度まで正確に吸収できる。人間のやること、そうそう変わらないのである。
大盥・ベンデル・三鬼・地獄・横団 渡邊白泉
この句は(西東)三鬼と白泉の親交の破局を示すだけでなく、前記のブレーンストーミング(脳の攪拌)という独創的な方法が用いられ、赤黄男の詩法とも通じる重要な句なので、詳しく読み解いておこう。(中略)「大盥」とは洗濯当番の新兵が上官たちの襯衣や袴下(ズボン下)を洗濯する大きな盥。それは海軍生活での過酷な苦役を含意する。「ベンデル」とは(中略)ソ連の小説家イリフとペトロフの合作小説『十二の椅子』(一九二七)の主人公で、すばしこく気の利く詐欺師「オスタップ・ベンデル」。(中略)詐欺師「ベンデル」から寸借詐欺師「三鬼」へと連想はなめらかに繋がっていく。「横団」とは白泉が入隊した横須賀海兵団の略称で、海軍という「地獄」を含意。つまりこの句は過酷なもの、憎むべきもの、恐ろしいもの、むごいものへと次々とイメージを攪拌させた句。そのモチーフは三鬼への揶揄や憎しみではなく、海軍という憎むべき過酷な内部構造を白日に晒すところにあった。
川名大「西東三鬼・渡邊白泉・富澤赤黄男の蜜月と破局-「京大俳句」弾圧事件秘話―」
今号では川名大さんが「西東三鬼・渡邊白泉・富澤赤黄男の蜜月と破局-「京大俳句」弾圧事件秘話―」を書いておられる。川名さんには『新興俳句表現史論攷』があり、現代俳句史で文学として非常に重要なだけでなく、戦争と密接に関わった新興俳句運動・俳人たちを論じた著作がある。言うまでもなく新興俳句は特高によって弾圧され数多くの逮捕者を出した。社会主義系の文学者以外で逮捕者を出したのはほぼ新興俳句運動だけだと言っていい。
今回は初期新興俳句運動を代表する「西東三鬼・渡邊白泉・富澤赤黄男の蜜月と破局」について論じておられる。過去の文学運動に関してわたしたちはそれを抽象化して捉えがちだが、川名さんはもっと突っ込んで生々しいその機微を書いておられる。白泉は昭和十四年(一九三九年)に特高に検挙されたが、白泉が京都五条署に勾留されていたときに三鬼は白泉の父親の家を訪れ、白泉の釈放工作の名目で寸借詐欺を働いたようだ。三鬼も昭和十五年(一九四〇年)に検挙されたが三鬼の検挙は遅く、そのため三鬼は特高のスパイではないかという噂が立ったようだ。
川名さんがお書きになっている事柄が事実かどうかは、僕は資料を当たって調査していないのでわからない。ただ生々しい。またこういった書きにくいことをお書きになる川名さんは勇気がある。文学運動もまた人間の営みであり、理念だけではない様々な事柄が絡み合っている。三鬼かどうかは別として、特高が誰かから新興俳句運動の内情を入手していたのも確かだろう。そんなに純粋な文学の話しだけではない。
戦争であれ原発事故であれコロナ禍であれ、複雑に入り組んだ問題を単純化して捉えたいと願うのはほとんど人間の性である。単純化すれば、複雑に入り組んだ問題の上位に自分の身を置いて、何か特権的な認識を得たような気持ちになれることもある。自分だけが知っている秘密の陰謀論などが流行る理由だ。しかし実際は違う。現実はいつも生い。一筋縄ではいかない。
もちろんすでに物故して材料が出そろっている三鬼や白泉、赤黄男の文学を相対化して捉えられるわたしたちは、彼らの交流と離散を文学上の理念の相違として確実に認識することができる。しかしその理念の違いが、根本的にどこから生じているのかにも意識的でなければならないだろう。
文学者はインタビューなどで「○○さんの作品を読んでいますか?」と聞かれ、「勉強不足で読んでいません」と答えたりする。字義通りなのだが字義通りではない。「勉強不足」はタテマエであり、「読む必要がないから読んでいない」「読むに値しないと思っている」というニュアンスが混じることがある。それが本音なわけだが、ことさらに本音を言いたくない場合には韜晦する。
それはなぜか。作家の人間性の評価に結びついていることがある。そういったニュアンスは文学史などの襞を詳細に読まないとわからないところがある。崇高な文学理念であれアポカリプス幻想であれ、理念だけで文学を捉えることはできない。
岡野隆
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