今号では特集「宗教と俳句」が組まれていて、巻頭に荒木優也さんが「詩歌と宗教」という論考を書いておられる。
秋風になびく浅茅の末ごとに置く白露のあはれ世の中
『新古今和歌集』雑下・蟬丸
浅茅の葉や穂先に置いている露に秋風が吹きかかります。この白露が無常の風に散らされ消えゆくように、この世は「あはれ」だと詠い、露を無常の象徴として用います。ところで、ここで詠われている無常は仏教が説く本来の無常とは違います。仏教では、無常に感情を差し挟みません。あくまで客観的に無常を捉えます。それに対して、詩歌では無常を悲しんだり、無常の対象を慈しんだりします。ここには無常観と無常感の違いがあります。
荒木優也「詩歌と宗教 露の世ながら―日本詩歌にひそむ仏教―」
主要な宗教にはキリスト教やイスラーム教(ユダヤ教はユダヤ人にしか許されていない)なども含まれるが、日本人に一番馴染み深いのは仏教である。宗教には違いないのだが、江戸時代まで寺社は学問センターでもあった。日本的精神(哲学思想)は室町時代くらいまでの僧侶たちによって確立されたと言っていいところがある。仏教は宗教であり哲学思想でもあったわけだ。それがベースになって日本文学が開花している。荒木さんは蟬丸の歌を引用されているが、『源氏物語』もバックボーンにしているのは仏教思想である。
この仏教思想の援用だが、荒木さんは「仏教では、無常に感情を差し挟みません。あくまで客観的に無常を捉えます。それに対して、詩歌では無常を悲しんだり、無常の対象を慈しんだりします。ここには無常観と無常感の違いがあります」と解説しておられる。詩歌では無常が時に鮮烈な抒情となって表現されたのである。
荒木さんは詩歌的無常感にスポットライトを当てて、一茶の「露の世は露の世ながらさりながら」といった、抒情的余韻とも未練とも呼べるような句や歌を引用しておられる。ただ日本文学では本来の仏教的無常観を表した詩歌も多いと思う。
つねにゆく道とはかねてきゝしかどきのふ今日とは思はざりしを
日本最古の歌物語『伊勢物語』百二十五段の歌で、業平辞世として掲げられている。人ごとのように自己の死を詠んでいるわけで、まーじつにあっさりしている。『伊勢物語』は平安前期には成立していたはずで、この頃には『古今集』や『新古今』で表現される無常的抒情――つまり作家の強い自我意識表現はあまり見られない。まだ『万葉』的な心性が残っていた。
仏教が本来「あくまで客観的に無常を捉え」ていたように、初期の歌人たちは過度な抒情の入り交じらない無常観を表現していたわけだ。時代が下ると濃密な抒情的無常感が多く表れるようになるわけだが、それは主に和歌が担った表現であり、俳句の方は今に至るまで無常観が主流だと思う。
夢みて老いて色ぬれば野菊である 永田耕衣
無常を表した句でいつも思い浮かべてしまうのが耕衣の「夢みて老いて」である。完全な破調なのだが破調を感じさせない。耕衣は禅に傾倒した俳人だが禅と密教の違いとか対立とかは別として、日本人の元々の心性は禅的――つまりはあっさりとして時には残酷なまでにザラザラとした無常観にあるのではないかと思う。短歌から抒情(人間の自我意識)を拭い去ってしまうと味気なくなるが、俳句では身も蓋もない無常の方がピタリとはまることが多い。
駅頭に老いて 春にて われら棄民
棒立ちの昭和がそこに 麦熟るる
立志はすべて川に棄てた 立冬の朝だ
おい同志 火をくれないか 国は雪
生国は寒夕焼けぞ 馬肉食って来い
星永文夫句集『俗神(ぞろぞろ)』より自選五句
今号では「ピックアップ注目の句集」で星永文夫さんの句集『俗神(ぞろぞろ)』が取り上げられている。昭和八年(一九三三年)生まれで金子兜太の「海程」に所属した後句誌「霏霏」を創刊し、現在は同誌の顧問だと略歴にある。「おい同志 火をくれないか 国は雪」という句を読むと、もしかすると安保闘争などにも関わった俳人なのかもしれない。
句作を始めて二年目、私は所属誌にこう書いている。
まず私が始めたことは、既成のリズムに心情を乗せまいと心がけたこと。一切の俳句的抒情を呪うこと。乾いた抒情を求めること。枯淡という日本人の心境をどろどろに汚して、そこに日本人の原型を塑造すること。
星永文夫 俳誌「祝祭」昭和四十三年(一九六八年)五月号
まあ見事な自己解説である。「祝祭」に自己の作句法を書いてから半世紀以上経っているわけだが、星永さんがそれを維持し続けたことがわかる。実に潔癖でストンと腑に落ちる句が多い。
潔癖に生れて疲れて やがて雪
猪撃って 神々あらく跣あらう
国盗りの謀議にまじる赤とんぼ
敵意しなやかに まんじゅしゃげ黄いろ
隣合えば背く 沿道の枯木たち
昭和史をぬらり食み出すところてん
レモン一個 軍艦島に置いてくる
星永文夫句集『俗神(ぞろぞろ)』より
安西篤さんの星永文夫論からの孫引きだが、句集『俗神(ぞろぞろ)』の秀句である。星永さんが芸術至上派でないのは明らかだが、かといって掃いて捨てるほどいる花鳥風月派ではない。兜太の社会性俳句の影響は受けているだろうが、その表現は独自のレベルにまで昇華されている。
星永さんの表現の核は何かといえば、残酷なまでにザラザラとした無常観が一番近いのではなかろうか。経てきてた作家の生も時代も句に叩き込むように表現されている。スッキリとした言葉遣いだが、単純ではない。突き放したような視線と身を切るような断念が句に深みをもたらしている。星永さんの句は初めて読んだが、すごい俳人がいるものだ。
岡野隆
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