今号は「特集 30代俳人」である。編集部の特集リードには「30代は、昭和の最後の十年間に生まれている世代。彼らが生きてきた平成時代の俳壇では、著名結社の終刊、俳句の国際化の進展、少子高齢化を背景とした俳句人口の高齢化、結社に入らずネットで活動する若手俳人の増加、ネット句会の活発化などが起こった。こういった俳壇の流れの中で作句をしてきた30代の俳人は、どのような句を生み出してきたのか」とある。
編集部の俳句の未来に対する危機感は強いですな。編集部の危機感は少子高齢化による俳句人口の減少と、ネットの普及による既存結社の消滅にあるようだ。そんな危機感の表れとして、次の時代を担うだろう若手俳人をチア―・アップする特集だろう。
ただ少子高齢化による俳句人口の減少はあまり気にする必要がないと思う。確かに俳句人口が減れば関連書籍や雑誌の売上げは減少する。しかし市場は縮まりながら一定のパイは維持するはずである。むしろ俳句人口の減少は俳句愛好者にとってはメリットが多いかもしれない。俳句人口が顔が見えるくらいの規模にまで減れば、一人一人を丹念にテイク・ケアすることができるようになる。これは俳句以外の社会全体にも言えることで、社会的責任は重くなるだろうが個々人の存在の重要性は増大する。俳句好きならそれなりの金額を俳句につぎ込めるということでもある。
ネットの普及は様々な影響を与えている。しかしこれについてもディメリットよりもメリットの方が大きいのではなかろうか。ネットが普及してからせいぜい三十年ほどである。今は混乱期を抜けて試行錯誤の時代に入ったと言えるが、ネットの利用方法が落ち着いたとは言えない。ネットで俳句の集団などができても、まったく平等なプラットホームなどあり得ない。創作者は誰もが自分が頭一つ抜け出したいと願っているのだから当然のことだ。結局は今の結社と似たようなプラットホームになってゆくだろう。むしろその方が文学者が踏む段階がわかりやすいかもしれない。
一人で書いていた作品をなんらかの形でネットに発表する。それから俳句集団に参加して様々な人と交わる。自分の作品が批評されたりほめられたりする。こういったことは紙の結社誌や同人誌と変わらない。ただその先があるわけで、作品が商業句誌などのメディアに掲載されたり、句集を出したりすることで初めて能動的に俳句を発表したことになる。ここまで来れば結社誌や同人誌で発表した作品は一種のスーブニールである。別に紙である必要がない。試行錯誤はネットでじゅうぶん。
では結社はどうなるのかと言えば、ネットがインフラの世代になれば大半がネットに移行するでしょうね。ただ結社は定義し直されることになるだろう。「結社に来れば楽しいですよ」「俳句は楽しいですよ」で結社員を増やす結社は相変わらずあるだろうが、主宰の俳句に対する考え方や指導方法を情報公開しなければ〝上に立つ主宰〟がいるピラミッド型の結社を維持するのは難しいだろう。主宰には従来通りの人間的魅力だけでなく、結社、つまり俳句は集団的営為の方が絶対に良いのだと他者を説得できるだけの知性が求められるようになるわけだ。
一番気になるのは結社費だろうが、キャッシュレス時代がさらに進むのだから問題あるまい。むしろ会計は明朗になるでしょうね。ある程度熱心な俳人が一番気になるのはどうやって自分の句集を出すかだろうから、結社誌や同人誌のための費用をネットメディアで浮かせて句集出版のためのシステムを作れば more better かもしれない。
とまあ別に俳句の未来を悲観することはないですよ、ということを書いたわけだが、未来を明るくできるかどうかはやっぱり人次第。いつの時代も急激な変化は大抵失敗するわけで、少しずつ物事を変えてゆかなければならない。ただ何をどうやって変えてゆくのかという〝方向〟が見えていなければ、現状維持でじょじょに衰退してゆく可能性はある。その責任を30代の若手が全部担う必要はないわけだが、新しい胎動を感じさせる作家であらまほし、というところでしょうね。
子規の忌をだらりだらりと残業す
なきがらの戻り冬浪見ゆる部屋
歳末のごろりと眠る畳かな
好きになるただ冬薔薇といふだけで
みんなきれいみんなむなしい吊雛
啓蟄の臭き運河をよろこべり
この夜にかぶさってくるさくらかな
松本てふこ「むなしい」
水の中なる水色のラムネ壜
花火などなかつたやうな夜空かな
日当たりて金色となる冬の蠅
垂れながら透明になる氷柱かな
いちめんの雪に焦点失へり
朧から出られぬ月の光かな
影に入る落花の白くなりにける
抜井諒一「金色」
特集には11人の30代俳人が作品を発表しているのだが、うーん、まあ雑誌を実際に読んでいただければわかるが、俳句の完成度、つまり技術面でも若者らしい鼻っ柱の強い新し味のある表現という面でも正直物足りない。もっとストレートに言えば選抜俳句エリートという割には下手だなと思った。
その中で松本てふこさんの「むなしい」と抜井諒一さんの「金色」は読んでいて食い込むものがあった。「みんなきれいみんなむなしい吊雛」(松本てふこ)、「いちめんの雪に焦点失へり」(抜井諒一)と閉塞感が強い。日常を題材にしてそれなりの俳句を作るよりも正直な表現だと思う。空しさ、徒労感、先の見えない不安と、とことん闘っていただきたい。30代には闘う時間がたっぷり残されている。
ことごとく未踏なりけり冬の星
つまみたる夏蝶トランプの厚さ
洋梨とタイプライター日が昇る
ビルディングごとに組織や日の盛
眠られぬこどもの数よ春の星
子にほほゑむ母にすべては涼しき無
列聖を拒みて鳥に花ミモザ
高柳克弘「列聖」
つぐみ来るから燃えるつてしぐさして
寒いなあコロッケパンのキャベツの力
濃いさくらうすいさくらを呼びわける
永日のきみが電車で泣くからきみが
たふれたる樹は水のなか夏至近し
朝焼のおかへりホールトマトの缶
山があり山影のあり いちまい
小川楓子「おかへり」
高柳克弘さんと小川楓子さんは、技術や題材で新し味を模索しておられる。しかし小川さんの作品は誰が見てもニューウエーブ短歌の強い影響を受けている。んーんー。
高柳さんの作品はいっけん新しそうなのだが、よく読むとこれは何をもって新し味なんだろうと思ってしまう。「ことごとく未踏なりけり冬の星」は述志だろうが、続く俳句が未踏の表現になっているかどうか。「ビルディングごとに組織や日の盛」は新しげなのだが俳句で書かれた通りの意味である。「列聖を拒みて鳥に花ミモザ」はタイトルになっているから思い入れがあるのだろうが、句だけで意味やイメージが独立した表現になっていない。そうとうに好意的な解釈をしなければ何を表現しているのかわからない。ノンセンス俳句でなく、きっと意味があるのだろうから、そっちの方が問題だ。つまり表現として舌っ足らずだと思う。
もちろん30代が俳句の未来をしょって立つ義務も義理もない。ただ文学の世界というものは、必ずどこからともなく新しい才能が現れてくる世界である。今30代で多少頭角を現していてもそんなもの当てにならない。さらなる奮起が必要でしょうね。
読んですぐくべる手紙も春の午
花柄の傘借り帰る春の雪
春炬燵時効の話むしかへし
しらをきりとほすつもりの洗ひ髪
身の上を語り合ふなら蚊帳吊つて
夕立のやうな恋してすこし痩せ
燈を消して小ごゑで話し後の月
カンナ燃ゆ老いたる恋のどこか嘘
女から話きりだし青蜜柑
あひに行くうしろめたさの咳一つ
逢ふよりも待つとき好きと冬の宿
こまぎれの会話のつなぐ冬籠
葛湯吹く二者択一を迫られて
姜琪東「桑の實」
今号には「特集 恋の句30句競詠」が組まれていて、「俳句界」発行人兼編集総務の姜琪東さんが俳句とエッセイを発表しておられる。一読して中年男女の道ならぬ恋を題材にした連作句だとわかる。小説的オチもある。サラリと余韻のある江戸俳句の味わいですな。
岡野隆
■ 松本てふこさんの本 ■
■ 抜井諒一さんの本 ■
■ 高柳克弘さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■