今号は「特集 滑稽俳句と川柳」で「なんとも面白そう」と思ったのだが、特集を読んでうーんと唸ってしまった。滑稽を全面に出した俳句川柳は意外と定義しにくいのだなとしみじみ思った。
つばくらや子をおもふ身のひまもなし 舎羅
目利してわるひ宿とる月見かな 如行
鉢たゝきあはれは顔に似ぬものか 乙州
かろき身の蟬は子もなし親もなし 猿蜼
おもふ事たまつて居るかひきがへる 曲翠
野に咲けば野に名を得たり梅の華 東花坊
市中は物のにほひや夏の月 几兆
蒲団着てねたるすがたやひがし山 嵐雪
蚤虱馬の尿する枕もと 芭蕉
「江戸時代末までの滑稽俳句30句」(抄出・復本一郎)より
アンソロジーのトップバッターは復本一郎さんで、蕉門諸家の俳句から滑稽俳句を選んでおられる。江戸時代と現代では言語感覚がだいぶ違っているわけだが、どの句も平明な句である。では滑稽かというと「?」が付いてしまう感じだろう。
こういうとき辞書を引きたくなるわけだが、滑稽の辞書的定義は「おもしろおかしいこと」「馬鹿馬鹿しくて笑えること」などである。前者に当てはまる句は多いが、後者になると「どうなんでしょうね」という感じだ。
几兆「市中は」は言うまでもなく『猿蓑』で、芭蕉が「あつしあつしと門々の声」と受けたわけだが、歌仙が巻かれた几兆宅に居れば笑い声が上がったかな、という程度である。近代俳句以降の滑稽になると、なおあまり笑えなくなる。
糸瓜咲て痰のつまりし佛かな 正岡子規
叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな 夏目漱石
青蛙おのれもペンキぬりたてか 芥川龍之介
おそるべき君等の乳房夏来る 西東三鬼
蝶墜ちて大音響の結氷期 富澤赤黄男
女あめんぼと雨とあめんぼと雨と 藤田湘子
雪だるま星のおしやべりぺちやくちやと 松本たかし
恋猫の恋する猫で押し通す 永田耕衣
威し銃おろかにも二発目をうつ 橋本多佳子
「明治・大正・昭和の滑稽俳句30句」(抄出・八木健)より
別に揶揄しているわけでなく、素直に「人によって滑稽の捉え方は違うもんだなぁ」と感心してしまった。文学主義に凝り固まっているわけではないのだが、子規「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」や赤黄男「蝶墜ちて大音響の結氷期」が滑稽句だとすれば、それは俳人(読者)個々の解釈の問題になるのではないかと思う。この幅がえらく広いと仮定すれば、滑稽俳句という定義はあってもなくてもいいものになってしまう。
特集では「平成以降の滑稽俳句30句」アンソロジーや川柳も掲載されているが、読み進むほどに滑稽の定義が曖昧になってしまいそうなので、ここらへんで引用はやめておきましょう。
江戸には狂歌があって、これは短歌形式である。蜀山人こと大田南畝が詠んだと言われる「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」「白河の清きに魚のすみかねてもとの濁りの田沼こひしき」などが有名だ。言うまでもなく政治風刺が含まれているわけだが、江戸っ子らしく斜に構えた笑い混じりの批判である。
狂歌は理に落ちてくどい面があるが、作者が何を言いたいのかはハッキリしている。一首で完結した表現なので単に滑稽を詠んでいるのか、為政者を笑い飛ばしているのかなどすぐにわかる。俳句より七七長いと作者の自我意識をストレートに表現できるのだ。
しかし五七五と短い俳句では狂歌のような完結した表現にはなりにくい。それが滑稽俳句のアンソロジーを組んでも今ひとつ焦点が合いにくい理由だろう。俳句では馬鹿笑いを誘うような表現は難しい。にやりと笑ってしまうような表現、もっと言えば脱力系のフッとした笑いになる。
と考えると「滑稽」より「諧謔」の方が俳句にはピタリとくるのではあるまいか。辞書的には滑稽も諧謔も同じようなもので、実際俳句は長い間、滑稽・諧謔の表現とも呼ばれてきた。ただ厳しい修行によって無の境地を目指す禅では諧謔を大事にする。禅の公案はたいてい無茶苦茶で、論理的に考え詰めて、論理を突き抜けた断定に至れば良しとすることが多い。ただその境地は意外なほどあっけらかんとした笑いに包まれている。俳句の滑稽=おもしろおかしいこと・馬鹿馬鹿しくて笑えることは、禅的な諧謔に近いと思う。
ただ今度は諧謔を元にして「諧謔俳句を集めよ」というお題を出しても撰者によってかなりばらつきが出るだろう。何を諧謔と感じるのかは人それぞれ違うからだ。しかしそれでは何も定義できないことになるわけで、もっとプリンシプルな定義が必要になる。
俳句の表現の基本は省略である。言い尽くさず「けり・かな・や」の切れ字で意味やイメージを断ち切って余韻を残す。これは滑稽諧謔俳句でなくても同じである。では省略を基本とする俳句の滑稽諧謔はどんなものになるかと言えば、地上の馬鹿馬鹿しい出来事や行為を天から眺めるような、達観に近い笑いということになると思う。
この達観による乾いた笑いはそんなに簡単ではない。作句するにせよアンソロジーを作るにせようんと敷居が高くなる。滑稽諧謔俳句はなかなか一筋縄ではいかない。特集を読んで、考えてみるとホントに難しいものだなぁとしみじみ思ったわけである。
ある年齢に達したら、主宰を含めて役職を退くのである。その年齢は七十歳とか、七十五歳とか、あるいは八十歳とか、いろいろあるだろう。しかし、その年齢が来たら、例外なく役職を降りる。そうすることによって、少しでも新陳代謝の風が吹くのではないか。
佐高信「役職定年制の導入を」
今号では「超高齢化の結社経営」特集も組まれていて、「俳句界」で「甘口でコンニチハ!」の対談を連載しておられる佐高信さんが新陳代謝の必要性を書いておられる。おっしゃっていることはわかるのだが、うーん、これもまた難しい問題ですな。
大結社では若手に主宰や結社誌編集の座を譲ることがすでに行われている。そうしなければ結社を維持できないことは、ちょっと目端の利く俳人なら敏感にわかる。じゃあそれが新陳代謝であり俳壇の活性化に繋がっているのかというと、これもうーんなのである。
美しい禅譲と言えないことはないのだが、俳壇では結社が長年をかけて築き上げてきた俳壇内既得利権確保の目的がないとは言えない。ハッキリ言えば、大結社で要職を占める若手俳人が俳人として優秀なわけではない。結社が俳壇で確保している利権を順繰りに継承できる物わかりのいい若手が要職を占めるようになる、と言えないことはない。ただそれじゃあダメなのかと言えば、そうとは言えないところが俳句の難しいところだ。江戸時代から現代まで、俳人として名を上げた作家のほとんどが結社主宰である。主宰になることが俳人を育てる面もある。このあたり、ホントに俳句界は厄介だ。
また高齢化が進んだ小規模な結社は、ちょっと残酷だが主宰と共に消滅してゆくしかあるまい。高齢の医者の元に高齢の患者が集まるように、高齢化した結社を引っ張ってゆくのは若手には難しい。元々よほど結社のポリシーがハッキリしていて優秀な若手が参加していない限り、自然消滅してゆく方が理にかなっていると思う。もちろん結社主宰には俳句の高い能力だけでなく人間的魅力も必要になる。両者を兼ね備えた俳人は少ない。
結社が俳句の世界にどうしても必要だと仮定すれば、その理由をハッキリ示してリベラルだが図抜けた若手が新たに結社を作るしかあるまい。今号の特集はどれも難しい課題でした。
岡野隆
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