今号には俳句雑誌では珍しく、超売れっ子作家、宮部みゆきさんの短編小説「ぼんぼん彩句」が掲載されている。句誌にはたまに俳人が書いた小説が掲載されることがあるが、なかなか俳壇を超えて読者を獲得するところまでいかない。文芸誌に依頼されて小説を発表する俳人もいるにはいる。でもまあはっきり言って小説になっていない。文芸誌も苦しいから、こりゃ大結社の要職にいる俳人に小説を書かせて、結社同人が雑誌を買うのを期待してるんじゃないかと思うこともある。そのくらい小説誌は売れないのである。実売部数から言えば商業句誌の方が上かもしれない。
昔から俳句と小説の相性は悪い。代表的なのは高濱虚子だ。虚子が漱石と親しかったのはよく知られている。散文革新で小説の先鞭をつけたのは子規だが、子規死後に虚子は文章会(山会)を引き継ぎ漱石よりも先に小説を書き始めていた。漱石『猫』が「ホトトギス」に掲載されたのはよく知られている。虚子は小説家の先輩として『猫』初回原稿を読んで修正すべき点を指摘したと回想している。
ただ漱石が昇り龍のように、あれよあれよというまに小説家として評価されていったのに対し、虚子は小説家として一家を為すことができなかった。それどころか子規門の歌人、伊藤左千夫『野菊の墓』、長塚節『土』と、子規根岸短歌会の歌人にも先を越されてしまった。虚子は大正二年(一九一三年)に俳壇復帰したいうか、俳句に専念した。碧梧桐の新傾向俳句に対抗するだめだが、小説の仕事に見切りをつけたわけだ。大正時代になると漱石門から芥川龍之介を始めとする若い小説家が台頭し始めていた。虚子を貶めているわけではないが、写生小説墨守の虚子に小説家としての芽がなかったことは、作品を読めばわかる。
俳句と比較して歌人は小説と相性がいい。古くは荻の舎の歌人だった樋口一葉がいる。岡本かの子も歌人として出発した。もちろん歌人で小説家として名を挙げた作家は少ないが、俳句ではほぼ皆無なのだからかなりの数だとも言える。そういえば鷗外も俳句ではなく短歌を好んだ。高位高官は和歌を嗜むものという明治時代の不文律に従っただけだとも言えるが、俳句をあまり詠んでいないのはやはり短歌の方が相性が良かったのだろう。
余談だが自由詩と短歌の相性もいい。与謝野鉄幹「明星」からは北原白秋が出た。歌人として有名なだけでなく、詩人としても一時代を築き、その門下から萩原朔太郎、三好達治、吉田一穂を輩出した。石川啄木の処女出版は詩集である。平安時代にまで遡れば短歌は物語文学の母体だが、明治維新以降には自由詩の母体になったのである。これに対し、短歌から室町時代に分かれた俳句はその当時から今に至るまでスタンドアロン表現である。
俳句と小説の相性が悪い原因が写生にあるのは言うまでもない。写生では外界の事物を取り合わせて間接的に作家の自我意識を表現する。ほとんどの俳人が写生俳句を作っているのはもちろん、俳句の絶対的基盤である芭蕉「古池」を見ても俳句にとって写生がほぼ絶対的基盤である。俳句内部では「人事」に分類される小カテゴリーがあるが、花鳥風月と同様、現実世界の人間の営みを写生的に取り合わせていることに変わりはない。俳句では短歌や小説、自由詩のように、作家の私性を全面に押し出して作品世界を生み出すわけではない。愚かしく奇妙でもある実世界の人間を描かない(興味がない)俳人に小説が書けるわけがない。
ただもっと前提的な話として、俳人が小説を書けないのは、俳句の表現基盤である写生について徹底して考えないからだろう。なぜ俳句にとって写生が絶対的基盤なのかを理解できれば、小説でもそれなりの成果を挙げられる可能性はある。百年一日のように「俳句は五七五に季語で世界で一番短い詩で、形式を守っていればどんな俳句でも文学です」と繰り返していたのでは埒が明かない。文学ジャンルにはそれぞれ掟のようなものがある。俳句の方法を使って小説を書いても間違いなく失敗する。
夫にはずっと好きな女の子がいて、義父母も、夫の二歳下の妹――わたしにとっては小姑である義妹も、その女の子と夫が結婚することを望んでいたなんて、わたしには知るよしもなかった。結婚前も結婚後も、夫の家族との付き合いのなかで、わたしがその女の子の名前をちゃんと耳にすることはなかったし、いまだに写真さえ見せられたことがない。
それは夫の一家四人だけの秘密だった。わたしにはその一端を窺わせる必要などない夢と理想だ。わたしと息子は、それを打ち消す身も蓋もない現実でしかない。
宮部みゆき「ぼんぼん彩句」[2]
宮部さんの「ぼんぼん彩句」の主人公は地方都市で司法書士として働く知花・わたしである。結婚して息子がいるが、夫の智之との仲も、夫の実家との関係もギクシャクしている。よくある夫の浮気などが原因ではない。結婚してしばらくして私は、夫は高校生の時に交通事故で亡くなった女の子が好きで、その子にいまだに未練があることを知った。それを除けば素行などにとりたてて問題のない夫なのだ。
ただ異様なのは、夫の家族――義父と義母と義妹三人もまた、夫と亡くなった女の子との結婚を望んでいることである。そのため義父と義母と義妹は私と夫の子供、可愛いはずの孫にもあまり関心を示さない。結婚生活が長くなると、夫の家族は夫の亡くなった女の子への思慕を隠そうともしなくなった。夫の実家に行くと、どういうつもりなのか亡くなった女の子の話ばかりする。ちょっとしたホラーである。
■義妹(秋美)のパート■
「いつか智之がみっちゃんと結婚すれば、あんたたちは本当の姉妹になるのよ」
うちのお母さんも、もう思い出せないくらい昔からそう言ってたんだ。
■夫(智之)の会社の若いOLのパート■
「ちょっと意味わからないです。そんなに幼なじみを忘れられないなら、最初から結婚しなけりゃよかったのに。子供までつくって、何ですかその態度」
「死に別れは、未練がのこるらしいからねえ」
先輩はしょっぱそうな顔をして言った。
■夫の父(主人公の義父)のパート■
秋美がみっちゃんの思い出話をしたがるのは、あの子にとってはみっちゃんと仲良くしていた時代がいちばん幸せで、みっちゃんが亡くなってからはちっともいいことがないからだ。楽しいことばかりだった昔が懐かしいのはしょうがないじゃないか。
■夫の母(主人公の義母)のパート■
せめて孫が女の子だったら、みっちゃんの分まで可愛がれたのに。あたしらは跡取りに拘るような昔の人間じゃない。知花さんにそっくりな男の子じゃつまらないよ。
智之もだらしなくなったもんで、
「知花が嫌がるから、鶏頭の絵は俺が預かっとくよ」
なんて言ってさ。外して持っていったけど、どこにしまいこんだんだろう。まさか捨ててはいないだろうけど・・・。
(同)
ささやかと言えばささやかだが、家族にとってはホラーのように奇妙な人間関係は、小説ではストーリー展開とともに解き明かされなければならない。ただ宮部さんは主人公の視点からそれを行っていない。義妹、夫の会社のOL、義父、義母のパートを設けて問題の核心に迫ってゆく。それにより、義妹の亡くなった女の子への強烈な執着が発端だと示唆される。
小説手法として言えば、宮部さんは有吉佐和子『悪女について』に近い方法で「ぼんぼん彩句」[2]をお書きになっている。『悪女について』は自殺した公子という女性の死の真相とその生涯を、公子と生前親しかった二十七人に小説家がインタビューして明らかにする小説である。主人公は公子なのだが彼女は負の焦点である。謎であり空虚な中心でもある公子の周りを、公子と関係の深かった人たちの言説が取り巻く構造である。
「ぼんぼん彩句」は短期不定期連載で、宮部さんは毎回様々なタイプの小説を書き分けておられる。似たようなテーマではなく、一回ごとにいとも簡単に違う設定を作り出しておられるのはさすが百戦錬磨の流行作家だ。短編小説はアイディアを蕩尽してゆく贅沢な小説なのだ。また句誌掲載ということで、そのまんまという意味ではないが、俳句を意識した連作短編になっている。特に[2]はなんとも俳句らしい小説だ。俳句は空虚な中心を感じさせる表現だからである。
「――娘は、鶏頭の花が嫌いだったんです」
わたしが言うと、知花さんは大きく目を瞠った。こんなきちんとしたきれいな女性でなければ、「目を剥いた」と言いたいくらいに。(中略)
「でも、絵に描いて・・・」
「みちるはあのとき、怖いものの絵を描こうとしていたんです。自分が不気味だと思う素材を描いてみる、と」(中略)
なぜだろう、知花さんの顔に喜色が広がってゆく。
「そうなんですか、いいことを伺いました」(中略)
「野方の家には、お別れに、一つぐらい意趣返しをしたいと思っていたんです。本当にいいことを教えていただきました」
そうして、知花さんは帰っていった。その後ろ姿には、場違いなたとえだけど、立ち合いに赴く武士のような毅然とした風情があった。
お母さん、ちょっと来て、早く早く来てよ。
庭が大変!
(同)
小説のクライマックスは、主人公の知花が、夫の思い人であるみちるの家を訪ね、その母親と話すパートである。知花はすでに離婚を決心し両親と息子といっしょに東京に転居することになっているが、その前にコトの真相を確かめるためにみちるの母を訪ねたのだった。
この訪問で知花はみちるの母親から、亡くなったみちるへの義妹・秋美への思い入れが強すぎて、ありがたいのだが困惑しているという話を聞く。また夫の智之はみちると恋人だったわけではないことも明らかになる。智之がみちるのことが好きで、義妹の秋美がみちるの友達だったのは事実だが、何十年も思い続けるような関係ではなかったのである。
また夫の実家ではみちるが描いた鶏頭の絵を、まるで宝物のように大事にしていた。その絵についても、みちるの母親から「娘は、鶏頭の花が嫌いだったんです」「みちるはあのとき、怖いものの絵を描こうとしていたんです」という話を聞く。母親の、みちるは「自分が不気味だと思う素材を描い」たのだという話は、そのまま小説のテーマの解題である。
鋏利し庭の鶏頭刎ね尽くす 宮部みゆき
「ぼんぼん彩句」連作には、毎回必ず扉に宮部さんの俳句が掲載されている。自作の俳句を元に小説を発想し、あるいは小説を書き終わった後に俳句をお作りになったのだろう。「利し」の読みは「とし」=よく切れるである。主人公の知花は夫とその家族から、長年に渡って受け続けた理不尽な扱いに対するささやかな「意趣返し」として、義母が庭に植えた鶏頭の首を鋏ですべて切り落として東京に旅立ったのだった。
で、「鋏利し庭の鶏頭刎ね尽くす」が良い句なのかと言えば、微妙である。まあ遠慮なく言えば秀句ではない。小説を読まなければ、なぜ鶏頭の首を鋏で切り落としたのかわからない。一句で独立しておらず、景色が見えてこない。
ただ小説家の新たな試みとしては意欲的である。「鋏利し」の句は作家の強い自我意識が表現された作品だが、『源氏物語』が語りの後に和歌で一場を完結させているように、「ぼんぼん彩句」でも句が小説の重石になっている。特に連作[2]はそうである。一応の謎解きは為されているが、それでも主人公知花の夫の家族の言動は不可解だ。そのモヤモヤを振り払う浄化の役割を俳句が担っている。
俳句には文人俳句と呼ばれる小ジャンルがある。漱石や芥川龍之介が代表格で、久保田万太郎を文人俳句に分類する人もいるが、作品のレベルから言って「それはないんじゃないの」と思う。文人俳句は俳人の側から言うと、本業の傍ら俳句を書いた作家のことである。もっと言うと、俳句はあまり上手じゃないけど、小説などの他ジャンルで名を挙げた有名人だから、俳句の末席に加えましょうといった感じだ。万太郎を文人俳句に加えるのに首をひねるのはそのためである。
宮部さんは俳句を好んでおられるが、いつも「鋏利し」のような句をお詠みになるわけではない。素直な写生句も詠んでおられる。今回は商業句誌からの小説依頼であり、それを踏まえ、さらに作家としての新たな試みとして、きっちり俳句を織り込んだ作品をお書きになっている。自我意識の強い俳句はそれゆえである。まあ紫式部の和歌も似たようなものですな。式部はあまり和歌が得意ではなかった。
流行作家でありながら新たな試みとして俳句に興味を持ち、それをキチンと自己の創作に取り入れた作家の姿勢は賞賛に値する。また参考にもなる。俳人は傲慢なのか卑屈なのかよくわからない人たちだ。有名人が俳句を詠むのはwelcomeだが、専門俳人でないというだけで、どこか蔑んで下に見ているところがある。しかし文人俳句という特別席を設けた時点で勝負はついているではないか。口惜しければ狭い俳壇を抜け出すことだね。
岡野隆
■ 宮部みゆきさんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■