今号は第65回角川俳句賞の発表号である。新人賞とは銘打っていないが、新しい才能を発掘するための賞だ。毎年楽しみな号である。
角川俳句賞では、応募者の年代や男女比が掲載されている。それによると50、60、70代の応募者だけが3桁に届いていて、合計374人である。応募総数は576人なので、全体の65パーセントを占める。10代から40代の、若手と呼べる人の応募総数は全体の24パーセントだ。男女比は男性56パーセントに対し女性44パーセント。やや男性の方が多いが、年代別ほどの偏りはない。
人生100年時代に近づいているので、50代から70代の応募者が多いのはちっとも不思議ではない。子育てや仕事に一定の句切りがついた年齢から俳句を始める人も多いだろう。ただ新しい才能を発掘する新人賞ということであれば、それでは済まない面がある。
新人賞に応募する理由は人それぞれである。軽い腕試しで応募する人もいるだろうし、新人賞をゴールとみなし、受賞というトロフィーが欲しい人もいるはずだ。ただ新人賞本来の目的から言えば、個人的欲望で受賞したいというだけでは不十分である。
新人賞は本来、新たな作品で俳句界に新風を吹き込む才能を発掘するためにある。また作品だけでなく、いずれは俳句界全体に寄与できる人間的魅力のある人材を発掘する目的もある。後者は新人賞の付帯的目的だが、作品の魅力に裏付けられた強いリーダーシップを持つ人材を育てていかなければ、壇と呼ばれる集団を維持することはできない。これは俳壇以外の文学ジャンルでも同じである。
新人賞の選考に関わった方は思い当たる節があるだろうが、この新人賞の二つの要素を50代以上の〝新人〟に求めるのはなかなか難しい。50代になるまで何をしていたのか、なぜ頭角を現すのが遅れたのか、その理由がハッキリしていないと面倒なことになりやすい。
ウブな高齢新人は危うい。受賞で勘違いした若手は叱り飛ばせばいいが、高齢者はそうはいかない。逆に怒り始めたりする。気に染まないと「俺は、わたしは会社では偉かったんだぞ」と言い出す人もいる。手におえない。50歳以上のいい年なら新人賞は通過点だということくらい理解していてほしいものだが、そういう人は少ない。新人賞で若手を選びたがる理由はそんなところにもある。
もちろん角川俳句賞は若手俳人を発掘するための賞ではない。そのため50代以上の俳人が受賞することも多い。ただ高齢で受賞した俳人が、その後俳壇で大活躍するケースは少ない。高齢になって新人賞を得て、さらに活躍するためには、よほどの地力が必要だ。
今回はちょっと例外的で、二人受賞なのだが抜井諒一さんが昭和五十七年(一九八二年)生まれの三十七歳、西村麒麟さんが五十八年(八三年)生まれの三十六歳である。未知の可能性を期待できる若手の年齢で、例年になく華やかな受賞になった。
春の日のこころの軽くなる匂ひ
一枚の闇に隠れてゐる椿
チューリップ午後の床屋に子の多し
壊すだけこはして石鹸玉に飽き
蛙鳴き止みて四方より水の音
みな遠き山を見てゐる鯉のぼり
海原の泳ぎ疲れてより暗し
灯取虫闇の中より止めどなく
夜の闇の中かいつぶり潜る音
陰りたるよりの明るさ冬紅葉
遙かなる富士まで何もなき冬田
凍滝の中を流るる水明り
泥水の氷に泥の無かりけり
抜井諒一「鷲に朝日」より
抜井諒一さんは俳句同人誌「群青」で櫂未知子さんと共同代表を務める。少しも奇をてらった表現はないが、鮮やかな句だ。明暗に敏感だということがわかる。「一枚の闇に隠れてゐる椿」「陰りたるよりの明るさ冬紅葉」といった句からは色が見えてくる。音にも敏感だ。「蛙鳴き止みて四方より水の音」「夜の闇の中かいつぶり潜る音」は優れた音感の持ち主であることを示している。「凍滝の中を流るる水明り」には視覚と音の両方がある。感覚表現に優れている。
「みな遠き山を見てゐる鯉のぼり」「遙かなる富士まで何もなき冬田」といった句は秀句だろう。俳句は作者の思想感情を直截に表現するための器ではないが、「みな遠き」からは作者の高い志を感じ取ることができる。ただあくまで俳句表現の中に収まっている。俳句の思想は無と紙一重ということである。「遙かなる」の句がそれをよく表している。
平成は静かに貧し涅槃雪
白魚の上を白魚流れをり
口開けて大黒天や春の山
花守の弁当箱を覗きけり
鶴来るや記憶の底の青々と
雪吊りの三つほどあるのが遠し
西村麒麟「玉虫」より
西村麒麟さんは俳句結社「古志」同人。角川俳句ではもう何度もお名前を見たことのある俳人である。俳壇ではすでに一定の評価を得ておられる。
ただ今回の受賞作「玉虫」連作はピンと来なかった。「平成は静かに貧し涅槃雪」が初句で自信作なのだろうが、「平成」が「涅槃雪」でいいのだろうかと思ってしまった。涅槃雪は春に降る名残雪のことだが、涅槃=入滅という観念に掛かった言葉でもある。「貧し」とあるからには観念表現でもあるが、やはり「平成」は弱い。それは他の句にも言える。
「白魚の上を白魚流れをり」「鶴来るや記憶の底の青々と」といった句は何か言いたげだ。しかし意外と底が浅いのではないか。つまり連作全体に、句を余韻に流す手慣れのようなものが垣間見える。
ほどほどに詰まらぬ話ところてん
川蟹をぱちんぱちんと切る鋏
虫売りの荷が上下して来たりけり
鯛焼きをかたかた焼いて忙しき
炬燵より出て丁寧なご挨拶
同
これらは句で表現された意味内容そのままである。これを余韻に流した句が、「玉虫」連作の中の割といい句になっているように思う。また風景写生ではなく句はいわゆる人事である。人事を詠むならもっと決定的な何かが欲しい。ちょっと落ち着きすぎ、老成しすぎではあるまいか。若手ならやはり、なんらかの形で冒険している句を読みたい。
副葬の太刀に王の名ひこばゆる
蜥蜴出て針より細き指ひらく
さへづりや神に供へて鍬と斧
亀といふ象形文字や春深し
ぬばたまの暗き社なり川蜻蛉
谷に日の深く差しくる芒かな
秋の夜の森に鳴りたる蜘蛛の糸
岩激る垂水の上の七竈
魔法堂出て坂の道行きばんば
金山桜子「森の記憶」より
候補作では金山桜子さんの「森の記憶」が意欲的で攻めていると思った。昭和三十四年(一九五九年)生まれで六十歳の俳人である。俳句結社「運河」同人。「森の記憶」は古墳とそこからの出土物を題材にした連作である。ただ背伸びしているという印象は否めない。初句は「副葬の太刀に王の名ひこばゆる」で「蘖ゆ」=芽が出るという古語を使っているわけだが、「王の名」とあるからには連作全体にもっと強い観念軸が必要だ。しかし「亀といふ象形文字や春深し」「魔法堂出て坂の道行きばんば」といった句で露わになっているように、いわくありげな「象形文字」や「魔法堂」という単語に頼っている気配が強い。
作家の資質はむしろ「谷に日の深く差しくる芒かな」といった素直な表現にあるだろう。攻めの姿勢は素晴らしいが、それには言葉のインパクとだけでなく、表現全体を裏付ける観念が必要である。
岡野隆
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