今号には特別寄稿として川名大さんの「俳句の「語り手」と「視点」――誰が、どんな視点から語るのか――」が掲載されている。三十枚近い労作なのだが、どうもピンと来なかった。「作者」と「語り手」は別だということを俳句作品に即して論証しようとなさっているが、大元になる前提が腑に落ちない。
今日、語り手や語り手の視点を採り入れた近代小説の構造分析は広く共有されているが、他方、同様の方法を採り入れた俳句の構造分析はほとんど定着していない。小説と俳句はジャンルは異なっても、同じく創作であるからには創作者としての作者と、作者がいわば黒子として作り出した語り手(発話者)との違いはジャンルを超えて存在すると考えるべきだろう。(中略)以下、改めて語り手・視点・時間などを採り入れた俳句の構造についての考察を試みてみたい。その際、「語り手」(発話者)とは、作者が作り出した黒子としての「私」であり、その「私」が三人称として神の視点になりすましたり、様々な人物になりすましたりして語るのだ、という基本概念を前提としたい。
川名大「俳句の「語り手」と「視点」――誰が、どんな視点から語るのか――」
川名さんが俳句の作者と作中の語り手はイコールではないという論をお書きになった理由は、「「俳句はフィクションを許さざるものなり」(石田波郷・秋本不死男)、「俳句は私小説である」(石田波郷)、「一句の主人公は常に『われ』」(同)――こうした言説が俳句の世界では長い間、神話化されてきたからである。(中略)もちろん「俳句はすべてフィクションである」(富澤赤黄男)という明晰な認識を持った俳人もいたが、それは例外的存在、作者と主人公と作品の世界を一枚に重ね、同一視する理解が一般的」だからである。
俳句は作者の自我意識表現としての私的世界、というのが俳壇の主流の考え方である。それはまあ当たり前のことですね。文学は個の創作活動であり、俳句に限らず全ての文学ジャンルの表現は作者の自我意識に基づいている。私的な表現でなければ作品と作家名を結びつけて語れないわけだ。
ただ一九六〇年代に全盛期を迎えた記号論と構造主義の時代になると、この作者=作品(世界)という考え方が変わってきた。正確に言うと、この絶対的認識に揺さぶりがかけられるようになった。観念論と唯物論の対立に似ているが、人間の認識は言語によって形作られるわけだから、言語中心に人間認識の発生を考える方向に向かったのである。
初期はソシュールの言語論やレヴィ=ストロースの民俗学的構造主義がその牽引力になった。勉強なさった方には説明不要だし、これから勉強なさる方は面倒だろうから簡単に説明すると、構造主義は多様な現実に惑わされず、あらゆる事象の中に抽象的かつ本質的構造を見出す学問である。もちろん現実は言語で表現(認識)されているので言語論は重要だ。
この構造主義は大別すれば二つの方向性に分かれる。一つはほぼ純粋に構造自体を探求する学問である。ソシュールの記号論が代表で、言語の生成構造を可能な限り分析した。もう一つはレヴィ=ストロースから始まる流れで、多様な現実事象の中に共通の構造を見出し、それが何を意味するのかを明らかにした。
言葉がなければ人間存在の発展がないのは言うまでもない。文学・哲学だけでなく数学や科学(化学)もまた言葉によって発展した。十九世紀までは、人間が言葉を含むすべての知を生み出し統御しているという人間至上主義が主流の考え方だった。それが二十世紀に入ると――人間が言葉を作ったにせよ――心理学の発達もあいまって、意識だけでなく無意識層を含めた言葉の自律的働きを総体的に捉える必要があるという思考が生まれた。構造主義はその代表である。つづめて言えば、人間中心思想から、言語的構造(無意識的構造を含む)が人間の思想を作り出しているという主客の逆転が起こったのである。
構造主義の発端は十九世紀末のニーチェあたりで、サルトルの実存主義を経て生まれた思想である。構造主義の基盤にあるのは〝神の不在〟である。全能の神が不在だと仮定すれば、その似姿である人間存在の特権性は失われる。世界は人間を含む諸存在の関係性総体になる。この関係性総体に内在する構造を探求したのが構造主義である。
この構造主義を世界そのものの発生にまで援用してゆくと根底の不在に行き着く。言語を例にすると、構造的に分析していってもその始源は決して特定できない。始源(根底)という空虚な中心の周りに無限の関係性が生まれ、膨張し続けている。関係性を一定の構造で把握することはできるが、構造は可変的である。構造は関係性総体から無限に生み出し続けられているわけだ。簡単に言えば、このように世界を関係性総体として捉える思想がポスト・モダニズムである。
ポスト・モダニズム思想のわかりやすい例がインターネットである。ネット上にはあらゆる情報が溢れており、膨大で無限の情報の関係性が広がっている。多くの人がSNSで情報を発信しているがそのエリアは意外なほど狭い。発信者は自分に興味のあるジャンルを世界の中心として捉えているが、そのような中心点は世界に無数に存在する。リゾームの突起点に大小、軽重を付けられないことはないが、不動の中心は存在しない。
インターネットが現代社会の絶対的インフラになった現在では、ポスト・モダニズム思想は常識と言っていい思想である。では十九世紀末から続いた神の不在を前提とした思想は一つの結論に行き着いたのだろうか。そう簡単ではない。ポスト・モダニズム思想のポストと言うとややこしいが、思想パラダイムは新たなフェーズに入っている。
この二十一世紀初頭の思想パラダイムとは、神という絶対的中心が不在で世界は無限の関係性総体であるとしても、なぜ世界は無秩序な混乱に陥らないのかという問いかけである。欧米ではここから新たな神(神的求心力)が生み出される可能性がじゅうぶんにある。また欧米一神教世界と比較すれば無神論と言える日本や中国などの文化圏の世界認識は、元々中心のない(神のいない)関係性世界に極めて近い。二十世紀末頃から日本と欧米文化がほぼ完全に肩を並べた理由もここにある。日本の哲学が大発展したわけではなく、欧米思想がポスト・モダニズムによって東洋思想を取り込んだ(理解した)のである。
本題に戻ると川名さんの論考は、入沢康夫の『詩の構造についての覚え書』(昭和四十三年[一九六八年])をヒントにしている。「どんな作品においても《詩人》(作者)と《発話者》(語り手)は別である」という入沢の思想である。川名さんの論考には入沢康夫追悼の目的もあるのだ。ただし具体的方法はジェラール・ジュネット『物語のディスクール』の、「物語の語り手・視点・時間の考察」がベースである。では俳句で作者と作中の発話者は別だと論証できるのだろうか。当然できる。
■語り手「私」の一人称の視点からの語り■
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
■語り手「私」の三人称の視点からの語り■
桐一葉日当りながら落ちにけり 高濱虚子
■一人称的視点と三人称的視点の鬩ぎ合い、相対化■
黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ 林田紀音夫
■一人称の「私」から二人称の「あなた」への語り■
ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう 折笠美秋
川名さんの論考から、一人称、三人称などの視点で書かれている俳句を抜粋した。作者=作品中の語り手ではないという例はこのほかにもたくさん挙げておられるので、論証を含めた詳細は実際に川名さんの論を読んで確かめていただきたい。ジュネット『物語のディスクール』は小説分析の手法なので、俳句を物語として読み解いているきらいはあるが、川名さんの論考は筋が通っている。
ただ論理的整合性は取れてはいるが、モヤモヤを感じないだろうか。俳人なら私を主体に句を詠むこともあるし、ちょっと他人の視線になってみて句を詠むこともある。珍しいことではなく日常的に行われている。つまり作者と作中の語り手は必ずしもイコールではないという例をあげて、川名さんが何を明らかにしたいのか今ひとつわからない。また川名さんの例示によって、俳句は作者(私)の表現であるという波郷らの主張と、私の思想・感情表現ではなくフィクションだという赤黄男の主張に決着がついたわけでもない。
長々と構造主義からポスト・モダニズム思想の流れについて書いたのは、思想とは大きな社会変化に呼応して、新たな世界認識を得るための人間の営みだからである。しかし日本では欧米思想を絶対かつ静止的思想として受容する傾向が強い。なぜ実存主義や構造主義、ポスト・モダニズム思想が生まれたのかを理解することなく、その思想的方法論を額面通り受け取ってしまうのだ。
そもそも論になるが、明治維新を契機に文化的規範を中国から欧米に大転換した日本では、欧米に追い越せ追いつけが急務だった。欧米文化は日本人にとって馴染みの薄い新たな文化だったのだから当然だ。この流れは一九八〇年代頃まで続いた。俗な言葉で言えば根深い欧米コンプレックスである。次々に流入する欧米文化を受容するのに手一杯で、思想の発生理由の理解まで手が回らなかったのである。川名さんは俳句で一種のパラダイム転換を目論んで構造主義的方法を採られたのだろうが、ならばまず俳句に即して従来的(思想)基盤を明らかにする必要がある。
欧米の神学に相当する俳句の基礎は写生である。俳句の嚆矢である芭蕉「古池」は言うまでもなく、今も俳句では写生が主流だ。つまり俳句では基本的に作家の強い自我意識は表現されない。希薄化した作家の自我意識が外界の事物を写生して間接的に自我意識を表現する。そうすると希薄化した自我意識にとって、作品の表現主体を私にするか、彼や彼女、あるいはその他の人称を仮構して表現するのかは大きな問題ではなくなる。希薄化した自我意識は動植物無機物と等価に人間存在の諸相を取り合わせて写生できるからである。俳句は私の表現かフィクションかという問いに関しては、どちらも正しいということになる。
また川名さんの論のきっかけになった入沢の、「どんな作品においても《詩人》(作者)と《発話者》(語り手)は別である」という論も、日本文学の思想史に即して理解する必要がある。入沢の言葉は当時の〝私の思想〟を絶対とする戦後詩に対するアンチテーゼである。また入沢個人の肉体に基づいている。
入沢は『わが出雲・わが鎮魂』など生まれ故郷出雲を主題にした作品を数多く書きながら、決してプライベートを明かさなかった。入沢詩には明らかに韜晦があり、それが作家と作品主体を別にし、作品で表現された思想感情と作家個人のそれは違うという詩論を生んでいる。『詩の構造についての覚え書』という詩論集は論理的に見ればかなり杜撰だが、切迫感があるのはそれが入沢の肉体的必要性に根ざしていたからである。
正直に言えば、作者と作品を別モノと考え、作品の構造分析によって作家が意図していなかった表現領域を探ろうとする構造主義的アプローチは、現在ではあまり有効ではないと思う。ポスト・モダン思想では作品も作家も等価に情報の関係性総体である。作家に特権的知性や感受性があるわけではなく、あらゆる表現は過去と現在の様々な情報の組み合わせで生み出される。二十世紀半ばまでの作家の天才(天から予め与えられた特権的才能)神話はすでに失われている。
作家も作品も情報の関係性総体だとすれば、その大部分、特に過去をデータベースにしたリメイクはコンピュータの発展によって、かなり高い精度で表現できるようになる。実際ビジネスの世界ではAIがすでに重要な役割を担っており、余技でAIで文学作品を作る試みも行われている。では文学は将来的にコンピュータ作品に置きかわるのだろうか。
そうだとしても、ますます狭く困難になってゆく新たな表現(試み)は人間によって創り出されるだろう。その基盤になるのは新たな世界に対応した新たな思想である。欧米的に言えば関係性世界を統御している何か、東洋的に言えば世界を調和させているある種の張力の考察が新たな思想パラダイムである。方法は方法に過ぎない。ある方法論を使って何を明らかにするのかという前提が明確でなければ、論理的に無矛盾の論証であっても世界に影響を与えることはできない。
岡野隆
■ 川名大さんの本 ■
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