「本当はどこにある? 幸福論」という特集である。読んでいて思ったのは、男と女では幸福のありかのイメージが違うな、ということである。
萩原浩「プラスチック・ファミリー」は、51歳の男が主人公である。「結婚するやつは馬鹿だ」と信じ、荒れた気持ちでいる。男が出会うのは忘れられない誰かである、という物語だ。
男にとっては幸福とは、女の存在と無縁のものではないらしい。逆に言えば、すでに女と出会い、女と暮らしている男が「幸福ではない」などという設定は、どこか憚りがあるということになろうか。
なぜならそれは、その女を完全に否定することになってしまう。世間体ばかり気にして、男の気持ちを顧みない女。他に男を作り、主人公の男を財布としか見なさない女。自分のことばかり考えて、男を所有物と思っている女。それらがもし「男」なら、普通の小説としてよくあるパターンだ。そういうつまらない男に悩まされている女が主人公なら、読者の共感は集まりやすい。
それは小説の読者の大半である女性たちに、作家が媚びているということでもないだろう。一緒にいる女が男を幸福にしてくれないとすれば、それは男の方にも原因があるのだ、と一般にも考えられがちなのだ。女は、男の何かが不満で、そういった行動に出ているのだろう、と。女というのは常に同情されるべき事情を抱えた、複雑な存在なのである。もし単純に悪い女だったとしても、わざわざそんな女を選んだ男にも問題があるはずだ、と。
そもそも男とは自ら幸福をつかみ、女を幸福にすべき存在なのである。そしてそれがそう上手くいかないところからしか、小説は始まらない。
不幸の原因が女にあり、その詳細について余すところなく残酷に描かれているのは、サスペンス小説しかない。自己中心的で男を不幸にする女は、ほとんど殺人の原因となるくらい怖ろしくなければならないのだ。そこまでひどくて初めて読者は男の主人公に共感する気になり、男の「内面」が描かれる。それも、この女を殺してやりたいといった、幸福になるためのアクションに結びつくような。
不幸の原因が男にあるのは、ごくありふれたことで、「お約束」のように一言書くだけでも女の状況は読者に伝わる。そこからいきなり女の内面を描いてよくて、そもそも男と一緒にいる女の方が内面的になるので、小説の主人公には向いている。男のいない女はただ、きょろきょろしているだけだ。
男がいて、なおかつ不幸な女はいっそう内面的となり、女の存在が大きく膨らんでゆく。女とは、ただ男を求めてきょろきょろしたり、悪者として全否定されるべき存在ではない。そういった単純で浅い役割は、男の方が似合う。
内面を膨らませた女は、どこか彼岸を見つめ始める。同時に現世を手放すまいと、手元の「生」を握りしめようとする。原田マハの「月夜のアボカド」にも、朝倉かすみの「その日、その夜」にも、食べ物が出てきてキーワードになっている。根源的な、最後のよりどころ、ということか。
長岡しおり
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