コロナ騒ぎで美術館がのきなみ休館になって、当面の間、ささやかな楽しみがなくなってしまった。まあおっそろしく感染力の強いウイルスだから仕方がない。特に東博は、どんどん来館者が多くなってたもんなぁ。半数くらいは外国からの観光客なんじゃないかと思う日もあった。あ、外国人がウイルスを運んでいると言っているわけじゃありませんよ。日本人プラス観光客で、あんなに広い東博が〝密です密です〟になっていたのだから休館もやむなしでしょうね。
で、外出自粛で思い出したのが露天市である。骨董は骨董屋で買うことが一番多いわけだが骨董市もある。東京開催だと平和島の東京流通センタービルや東京ドーム、晴海の東京国際フォーラムの大骨董市などが有名だ。こういう骨董市に出店しているのはたいてい店舗を構える骨董屋で全国から集まってくる。ただそのほかにも公園や神社の境内などで開催される青空露天市がある。
露天市に出店しているのは東京だと関東近郊の業者が多い。昔はハタ師とかうぶ出し屋と呼ばれた人たちだ。民家をたんねんに訪問してブランドバックや洋服、着物、本、レコード、骨董品などありとあらゆる古物を買い出してきて、ほとんどは仲買業者が集まる市場で売るが、骨董品などは自分で土日開催の骨董市で売ったりするのである。店を持たない業者が大半である。
骨董を買い始めの頃、週末には必ずと言っていいほど露天市に出かけていた。一つでも珍しい骨董を見たい、手に取りたいというのが露天市に通った一番大きなモチベーションだが、掘り出し物があるのではという下心もあった。まあ当然だが店を構えている骨董屋が扱う品物はそれなりの値段である。露天市ならもっと安いのではという下心だ。なんでも鑑定団でよくあるビギナーズラックですな。
世田谷のボロ市は一度行ったきりであまりの人の多さに辟易して行かなくなったが、花園神社や大鳥神社、乃木神社などの露天市は一時期かなり通った。仕事で京都に行ってたまたま北野天満宮や東寺の弘法市などが開かれていると、早く仕事が終わってくれないかなぁとジリジリしていた。お尻フリフリぴよぴよで、毎週のように露天市に通っていたわけである。
ただ数ヶ月も露天市に通っていると、露天市の楽しみ方がわかってくる。露天市に店を出しているのは無店舗とはいえプロの骨董屋である。まともな骨董を扱っていてもそんなに安く買えるわけではない。掘り出し物探しは早々におやめにした。
露天市の醍醐味は真作・贋作取り混ぜてごちゃごちゃっと骨董が並んでいることにある。中には骨董とまでは言えないが、明治から昭和の初めくらいまでに作られたちょっとセンスのいいグラスや皿などもある。最初のうちはそういうセミ・アンティークをぽちぽち買っていた。が、ある日はたと気づいた。普段使いの骨董は、見る物触れる物すべてが珍しい最初心者の頃に買った中途半端な伊万里や唐津、李朝などがいくらでもある。これ以上増やしてどうする。そう気づいてから露天市で物を見る目が変わっていった。骨董の本筋から言うと、目線が下がっていったと言った方がいいかもしれない。
メアリー王女のロイヤル・クリスマス・ギフト・ボックス
一九一四年 黄銅製
縦八・四×横一二・七×高二・八センチ 著者蔵
露天市は面白いなと思ったのはこのロイヤル・ギフト・ボックスを買ってからだった。誰かがイギリスの蚤の市で買って日本に持ち帰り、業者に売ったのだろう。ボックスの中に一九八四年十一月二十四日発行の雑誌〝Country Life〟の一ページが入っていた。
それによるとウインザー家初代国王ジョージ五世と妻メアリーの一人娘、ややこしいが母親と同じ名前のメアリー王女が、第一次世界大戦に従軍する兵士たちに贈ったクリスマス・ギフト・ボックスである。メアリー王女は慈善事業に熱心で、看護師の資格を取って病院で勤務もした。一九一四年に王女は十七歳だったが、「一人の兵士も忘れられるべきではない(Not a man forgotten)」と言って戦地の兵士全員にクリスマス・ギフト・ボックスを贈ることを提案したのだった。
当時のお金で十万ポンドが集められ、一九一四年のクリスマスに兵士全員にこのボックスが配られた。中にはメアリー王女の写真と紙巻きタバコかパイプ用の刻みタバコ、それにライターとパイプが入れられた。タバコを吸わない看護師や、当時イギリス植民地で基本的にタバコは吸わないヒンドゥー教徒のインド人兵士にはチョコレートなどのスイーツが入ったボックスが配られた。
箱表にはメアリー王女の横顔が浮き彫りにされ、周囲に当時の大英帝国の同盟国の国名が刻まれている。左上から時計回りにベルギー、日本、ロシア、モンテネグロ、セルビア、フランスである。日英同盟は明治三十五年(一九〇五年)に締結され大正十年(一九二一年)に失効した。ワシントン海軍軍縮会議の際に調印された四カ国条約成立に伴う失効だが、この条約は明治三十七年(一九〇四年)の日露戦争後に満州進出の意図を露わにし始めた日本を牽制するために、アメリカ主導で結ばれたものだった。
こんな小さな箱からも当時の国際情勢が伝わってくる。イギリスはロシアの極東進出を懸念して日英同盟を結んだわけだが、日露戦争勝利後に日本のプレゼンスが増すと、今度はロシアと同盟を結び二股をかけたわけである。まあ昔からイギリスはイギリスですな。
島国イギリスは、今に至るまでヨーロッパのパワー・オブ・バランスの要である。ヨーロッパ大陸中原の大国はフランスとドイツであり、この二カ国がヨーロッパ大陸全域の征服を目論んで争ってきた。イギリスはフランスの国力が増すとドイツと結び、ドイツが強大になるとフランスと共闘した。ヨーロッパは国々の勢力が拮抗している時が平和なのである。
しかし大航海時代以降に大国になってもイギリスはヨーロッパ本土に領土的野心を持たなかった。ヨーロッパ本土の国々が衝突を繰り返すのを尻目に植民地の拡大で巨万の富を得た。面倒なヨーロッパ大陸よりも肥沃で征服しやすい植民地というわけである。この功利主義は現在のユーロ離脱まで続いている。イギリスは自国にとって損だと思えば同盟などあっさり反古にする。
夏目漱石は日英同盟が結ばれた一九〇五年にイギリス留学中だったが、「この同盟事件の後、本国(日本)にては非常に騒ぎおり候よし、かくのごとき事に騒ぎ候はあたかも貧人が富豪と縁組を取結びたる喜しさのあまり鐘太鼓を叩きて村中かけ廻るようなものにも候わん。固より今日国際上の事は道義よりも利益を主にいたしおり候へば」云々と義父・中根重一に書き送った。また晩年の講演『私の個人主義』で「元来国と国とは辞令はいくらやかましくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンにかける、滅茶苦茶なものであります」と語っている。
今に至るまでまったくもって漱石の言うとおりである。国際舞台では軍事・経済力で圧倒的優位に立つ国が結局は自国の国益を押し通す。漱石はこういった冷徹な認識を長年にわたる英文学研究と実際に目にしたイギリス留学経験から得た。英文学者ならではの物言いで、日本のフランスやドイツ文学研究者(文学者)はこういった身も蓋もない言い方をあまりしない。
では冷たいまでの国際認識を持っていた漱石は日露戦争当時なにをしていたのか。ユーモア小説『吾輩は猫である』を書き、「余の如きは黄巻青帙の間に起臥して書斎以外に如何なる出来事が起るか知らんでも済む天下の逸民(ヒマ人)である」とうそぶく学者を主人公にした『趣味の遺伝』を書いていた。
これは考えさせられる文学者のあり方である。言葉は悪いが阪神淡路大震災は甚大な被害をもたらしたとはいえ天災として捉えられた。しかし福島原発の放射能事故が起こった東日本大震災はあたかもアポカリプスのように受けとめられた。地震被害より放射能事故の方がウエイトが高く、かなりの数の小説家や詩人がそれを直接的な作品主題にした。東日本大震災直後に文芸誌は盛んに〝震災後の文学〟といった特集を組み、震災前と震災後で文学は変わったと書いた批評家も多かった。しかしそれは早くも忘れ去られようとしている。
時事ネタに飛びつけば状況的関心によって時に話題になることはある。だが作品の質が保証されるわけではない。新型コロナが猛威をふるう現在はカミュの『ペスト』がよく読まれているそうだが、あの小説のペストは一つの喩である。ペストの悲惨を描くのを目的とした作品ではない。そうでなければ文学作品として傑作にならない。『ペスト』末尾でカミュは「人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストがふたたびその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差向ける日が来る」と書いている。
日露戦争当時の漱石の切迫感は『吾輩は猫である』などにはっきり表現されている。今も昔もほかに例のない写生文による長編小説である。この写生文の方法を漱石は親友・正岡子規の写生俳句から得た。子規写生俳句は作家主体の自我意識を可能な限り縮退させ、自我意識を負の焦点(鏡)と為して世界を複雑なら複雑なまま、単純なら単純なまま冷徹に描いてゆく(写生してゆく)方法である。同時代小説に背中を向けた明確な方法の援用が漱石の時代的切迫だった。日本の自然主義文学などがヨーロッパ小説の移入、ローカライズ小説であったのに対し、写生文小説は世界に誇れる日本独自の小説形態だと漱石は胸を張った。
また『猫』時代の思いきった自我意識の縮退が、逆に自我意識の肥大化に苦悩する主人公が登場する『行人』『心』などの小説を生んでいる。このあたりのことは拙著『夏目漱石論』で書いたので是非読んでみてください。
話がわき道にそれてしまったが、メアリー王女のギフト・ボックスを買ってから、ぽつりぽつりと露天市で戦争関連の古物を買うようになった。ただ僕は戦争反対だが特定の政治的主義主張を持たないノンポリである。ミリタリー・グッズ好きじゃないので実際に軍人さんたちが使った物は買っていない。
針金細工の飛行機
針金製 昭和初年代(一九三〇年代頃)
縦一九・五×横一四・一×高八・三センチ(いずれも最大値)著者蔵
針金細工の飛行機は「んとねぇ君」から買った。しょっちゅう露天市に行っていると馴染みのお店ができてくる。最後まで名前を聞かなかったが、僕よりだいぶ年下で横に大きい方の巨漢の店主がいた。ひげ面で顔も身体もいかついのだが、この店主、言葉の最初にほぼ必ず「んとねぇ」を付ける。それがおかしくて秘かに「んとねぇ君」と呼んでいた。
「これはなに?」
「んとねぇ、針金のヒコーキ。あ、日の丸がついてる。零戦じゃないんですか?」
初めて自分が買ってきた物をちゃんと見た「んとねぇ君」が言った。
「いくらですか?」
「んとねぇ、一つ一万円」
「高い。その針金細工、全部買うからもっと安くしてください」
「じゃ一つ四千円」いきなり値段が半額以下に下がった。
「それにしてもこれはなんだろうね。オモチャっぽいけど」
意外と精巧にできていて、プロペラは固定されているが前後の車はちゃんと動く。
針金細工を弄り回していると、たまたま店に来合わせていた老紳士が「そいつはさぁ、昭和大恐慌の後にお祭りの縁日なんかで売られてた子供のオモチャよ」と教えてくれた。
老紳士によると、昭和五年(一九三〇年)の昭和恐慌で多くの労働者が失業した。その中で手先の器用な職人が道ばたで露店を開き、また縁日などで針金細工の子供用のオモチャを作って売っていたのだという。最盛期にはかなりの数がいたそうだ。実演販売で子どもたちは職人技に目が釘付けだったという。「立派なのはおっきな戦艦とかもあってさぁ、高っけぇんで買えなかったけどね」老紳士は歯切れのいい下町言葉で説明してくれた。
一九二九年(昭和四年)にアメリカ端を発した世界恐慌はすぐに日本に伝播した。長谷川利行が盛んに描いた白々とした街に表象される切迫した世相である。多くの失業者が一攫千金を夢見て朝鮮や満州に渡った。本国よりも植民地の方が仕事があったのである。一等国を称していたが戦前の日本は貧しかった。
いつの時代でも政治と経済は連動している。大恐慌で混乱するアメリカの隙を突いて、日本は一気に満州での利権確保に動いた。満州事変、別名柳条湖事件は昭和六年(一九三一年)に起こった。そこから第二次世界大戦、というより太平洋戦争までは一直線である。
(後編に続く)
鶴山裕司
(図版撮影 タナカユキヒロ)
(2021/04/23 13枚)
■ 大川周明関連の本 ■
■ 鶴山裕司さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■