縦一四×横八・三×幅七・四センチ(いずれも最大値)著者蔵
新年最初の『言葉と骨董』なので、ちょっと目出度い感じの作品を。赤ん坊か幼児の土偶である。お尻をついて座った姿で、ぶちゅっとした顔がなんともかわいらしい。明らかにわたしたちと同じモンゴロイド系だ。この子供、たぶん、オルメカ。「たぶん」というのは世界は広うござんして、よほど典型的な作品でなければ完全には作られた場所や時代を特定しにくいからである。
ただ確か先代瀬津雅陶堂主人・瀬津巖さんの古美術本『掌の美』に類品が写真掲載されていた。哲学者で骨董好きでもあった谷川徹三さん(詩人の谷川俊太郎さんのお父様)の『黄塵居清賞』にも、オルメカ系の翡翠作品が掲載されていたと思う。オルメカは骨董好きの興味をいたくそそる古代文明なのだが、日本ではいまひとつポピュラーではない。
オルメカは南北アメリカ大陸で最も古い文明だが、日本で人気がないのは文脈を辿りにくいからである。直接の人的交流はなかったが、正倉院御物を見ればわかるように日本はシルクロードを介して遠くヘレニズム世界(ギリシャ、ローマ、ペルシャなど)と繋がっていた。ユーラシア大陸は地続きだから、池に小石を投げ入れて波紋が拡がるように、極東の島国日本まで文化が伝播していたのである。
その証左はいくらでもある。平安から鎌倉の鏡には嘴に松の枝をくわえた松喰い鶴の模様が鋳造されているが、起源はヘレニズム世界だ。『旧約聖書』にはオリーブの葉をくわえた鳩が登場する。それがヘレニズム世界で吉祥として図案化され、中国で花喰い鳥となり日本で松喰い鶴模様になった。
しかし古代から現代に至るまで、日本が南北アメリカの古代文明から影響を受けた形跡はまったくない。日本だけではない。北米ではイギリス人を中心とした白人が、中南米ではスペイン人やポルトガル人が先住民族を制圧して植民地化した。西部劇に描かれているように、北米の白人たちは先住民族を厄介な敵としてしか認識していなかった。中南米も同様で、スペイン人たちはゴールドなどを先住民から奪うのに忙しかったが、彼らの文化にはほとんど興味を示さなかった。
ヨーロッパ人は自らの文化的起源であるギリシャ・ローマ文明に強い関心を持ち、エジプト文明にも一定の興味を払い続けていた。しかし先住民族と直接交流した彼らにとっても南北アメリカ文明は異質だった。自らの文化に繋がるような接点を見出せなかったのである。そのため古代アメリカ文明に対する研究は遅れに遅れた。十九世紀半ばになってようやく学術調査が始まり、本格的な研究が開始されたのは二十世紀に入ってからである。ちょっと乱暴な言い方になるが、取るに足りない未開文化として打ち棄てられていたのだった。
よく知られているように、一四九二年にコロンブスが中央アメリカの西インド諸島に到達してから南北アメリカは〝新大陸〟と呼ばれるようになった。西インド諸島という呼称やインディアン(英語)、インディオ(スペイン語)という呼び名が生じたのは、コロンブスが死ぬまで船が着いた島をインドの一部だと誤認していたためである。
今日では北アメリカでインディアンは差別用語であり、ネイティブ・アメリカンが正式名称である。また先住民族の民族・文化意識の高まりによってコロンブスによる〝新大陸の発見〟も見直されている。当たり前だが先住民から見れば南北アメリカは〝発見〟されたわけではない。そのため現在では「キリスト教徒のヨーロッパ人が初めてアメリカ大陸に到達したのが新大陸の発見」だと主語を明確にするようになっている。
それはともかくとして、人類はアフリカで約二十万年前に発生したのが定説で、現代人の祖先は約十四万年前に生まれたと考えられている。人類はアフリカから世界中に拡がっていったわけだが、ユーラシア大陸の端に辿り着き、氷結したベーリング海を横断してアメリカ大陸に到達したのは約一万五千年前頃だと推定されている。もちろん時期もルートも諸説あるのだが、アメリカ大陸が人類史上でかなり新しい居住地であるは間違いない。そのため今では新大陸という言葉に、〝人類が比較的最近になって移住した大陸〟という意味が付加されるようになっている。
日本を含むユーラシア大陸の文明は、多かれ少なかれエジプトやギリシャ、ローマ、メソポタミア、中国などの古代文明の複合と変奏である。遠く離れた場所で生まれた文明が、長い時間をかけて網の目のように広がり絡まり合っている。しかし南北アメリカ大陸の文明は、ほとんどアフリカやユーラシア大陸の影響を受けていない。
わたしたちはユーラシア的な、石器→青銅器→鉄器という文明の発展順序に慣れている。しかし南北アメリカには当てはまらない。南北アメリカの文明は独自の道筋で発展した。それは高度な文明だったが、異質の文明との衝突をまったく知らなかったという点で脆くもあった。あっけなくヨーロッパ列強に征服されてしまった理由である。
アフリカやユーラシア大陸と比べると、南北アメリカ文明は外部と隔てられた無菌室で生まれ育ったようなところがある。それゆえヨーロッパ人にとっても、日本を含むアジア人にとっても自分たちの文明とはかけ離れて見えたりする。しかし一方で南北アメリカ文明は、文明というものがどのように生じてゆくのかを教えてくれる。地理や気象条件はもちろん、様々な偶然が重なり合って文明は生まれる。南北アメリカ文明は巨大な島国文化なのだ。
アメリカ大陸は今のカナダ、アメリカ合衆国を中心とした北米、メキシコからパナマあたりの中米(中央アメリカ)、コロンビアからアルゼンチンにかけての南米に大別される。先住民族より北米インディアンの方がわかりやすいので便宜的に使用すると、北米インディアンは狩猟・漁労・採集民族だった。一部で農耕も行っていたが小規模なものに過ぎなかった。多民族(部族)で言語も違い、民族ごとに多様な文化を持っていたが、国家やそれに準じる大きな集団にはならなかった。アフリカやユーラシアの狩猟・漁労・採集民族と同様に、広大なエリアを移動しながらそこから得られる自然の恵みで生活していた。
それに対して中南米では早くから大規模な農耕が発達した。中南米の古代文明はマヤ・アステカ・インカがよく知られているが、その代表というだけである。学問の世界では中央アメリカのメソアメリカ文明と、南アメリカのアンデス文明に分けるのが一般的だ。
アンデス文明は現在のペルーを中心とした太平洋沿岸と、内陸のペルーからボリビアにかけてのアンデス中央高地で栄えた文明である。インカ帝国は十三世紀に前身となるクスコ王国が成立し、一五五三年にスペインに滅ぼされるまで約二〇〇年間続いた。世界遺産に登録された、十五世紀にアンデス山脈高地に作られたマチュ・ピチュ遺跡で有名である。インカでは皇帝を始めとしてミイラ作りが盛んだったが(ミイラ展参照)、南米で人工的にミイラを作ったのはインカ(アンデス文明)だけである。
メソアメリカ文明は、今のメキシコ北部からグアテマラ、ベリーズ、エルサルバドル、ホンジュラスにかけて栄えた。メソは「中央」の意味で、北アメリカと南アメリカ大陸を繋ぐ細長く伸びたあたりである。世界地図だと狭く見えるが、約百万平方キロメートルにも及ぶ広大なエリアだ。その歴史はアンデス文明(インカ帝国)より遙かに古く、紀元前一二〇〇年頃から、スペインによって征服された紀元後一五〇〇年頃まで実に三千年近く続いた。
マヤ遺跡見学などで実際に現地を訪れた方はおわかりだろうが、メソアメリカはものすごく起伏に富んだ土地だ。標高五七〇〇メートルのシトラルテペトル火山を始めとして、いくつもの高い山(火山)がある。当然場所によって寒暖差などの気候条件も大きく異なり、密林や砂漠、温暖な平坦地が混在している。メソアメリカでは山や密林によって分断された土地にいくつもの文明が花開いたのだった。
「メソアメリカの5地方」
伊藤伸幸著『世界の考古学24 中米の初期文明オルメカ』(同成社刊)
メソアメリカで大きな文明が生まれたのはメキシコ湾岸低地、オアハカ盆地、メキシコ中央高地、マヤ地域の四つである。最も古い文明はメキシコ湾岸低地のオルメカで、紀元前一二〇〇年頃から三〇〇年頃まで九〇〇年近く続いたと考えられている。隣接するオアハカ盆地ではサポテカ、ミシュテカ文明が、メキシコ中央高地ではテオティワカン、トルテカ、アステカ文明が生まれた。少し離れたマヤ地域でマヤ文明が生まれたわけだが、紀元前六〇〇年頃からスペインに滅ぼされた一五〇〇年頃まで、二千年以上の長きに渡って存続した。そのほかにも各地で小規模な文明が栄えたことがわかっている。
メソアメリカはマヤ、アステカという中央アメリカを代表する二つの文明を生んだわけだが、両者は百キロ以上も離れており、民族はもちろん使っていた言葉や政治・経済体制、美術様式も違う。そのためそれぞれ独自の文明として扱うのが一般的である。しかし共通点もたくさんある。最古のオルメカ文明がその基盤となった。
「巨石人頭像」
縦二六九×横一八三×奥行一〇五センチ、重量約二〇トン
『特別企画展-古代メキシコ- オルメカ文明展』(埼玉県立博物館)
オルメカは中央アメリカ先住民族のナワ族が話すナワトル語で「ゴムの人」の意味だが、オルメカ人がどのような民族で、どんな言葉を話していたのかはわかっていない。ただオルメカ人は中南米で初めて石彫を行った。巨石人頭像が最も有名で、今のところ十七体が確認されている。最初から首から下はない頭だけの像である。正装した厳めしい顔つきで像ごとに顔が違うので、王といった高位の権力者だと推測されている。
ただオルメカ文明の中心地メキシコ湾岸低地では巨石は採れない。そのため遠く離れた山岳部から運んだわけだが、メソアメリカには馬や騾馬といった重い荷物を運ぶための大型家畜はいなかった。牛や豚、ヤギ、羊、鶏なども飼育しておらず、家畜は犬と七面鳥の骨くらいしか出土していない。オルメカ人は人間の力だけで巨大な石を運んでいた。
石の彫刻方法も独特だ。オルメカ人は青銅器や鉄器を持っていなかった。より固い石を使って巨大な石を削り彫刻を施していた。紀元前一二〇〇年前の古代文明なのだから当然と言えば当然なのだが、オルメカ以降のメソアメリカ文明も青銅器や鉄器を知らなかった。うんと時代が下る十五世紀のインカ帝国は青銅器を持っていたが、鉄器はやはり使っていない。また青銅器の使用も盛んではなく、武器や狩猟用の鏃や刀などの大半を石器でまかなっていた。鏡は石を磨いて作っていた。石の文化が中南米文明の大きな特徴である。
「耳飾り」
縦八・一×横七・五×厚さ〇・九センチ
『特別企画展-古代メキシコ- オルメカ文明展』(埼玉県立博物館)
メソアメリカでは翡翠を宝石(宝物)として珍重したが、翡翠を加工して様々な装飾品を作ったのもオルメカが最初である。翡翠はグアテマラ高地でしか産出されないので交易によって入手していた。耳飾りや首飾りのほか、人物、動物などを象った様々な翡翠製品が作られた。タイルのように複数の翡翠を組み合わせて王の顔を作り、副葬品にした例もある。
コロンブスは中央アメリカに着くとほぼ同時に、大航海のパトロンだったスペインのイザベル女王宛に「もうすぐ黄金がみつかります」という内容の手紙を盛んに送っている。実際スペイン人たちはインカ帝国が金を所有していることを知るとそれを奪い始めるのだが、メソアメリカ文明は金や銀を持っていなかった。ヨーロッパ人がメソアメリカに興味を持たなかった大きな理由である。
考古学や人類学以前の探検は手っ取り早く金銀財宝を得るのが目的だった。エジプト学が早くから発達したのは、発掘すれば金銀宝石といったユーラシア大陸共通の財宝が見つかったからである。日本のアイヌも金銀宝石をまったく所有しておらず、それがアイヌ研究が遅れた大きな要因の一つになっている。
メソアメリカに限らないが、世界中で古代人は石に神秘的な力を感じていた。ヨーロッパではケルトの石造遺跡がよく知られている。古代中国は玉を珍重した。日本では縄文時代から勾玉などの石製品が作られている。翡翠を素材にすることも多かった。産出地は限られているので日本でも交易によって翡翠などを入手していた。地球上のどの場所でも古代から交易が行われていた。
ただ情報伝達手段が貧弱だった古代に、古代人が石に関する観念を共有していたはずがない。人間の生命のはかなさに対する石の不朽性が、世界各地で同時発生的に石信仰・崇拝になったのだと考えられる。世界中で暴風雨や雷、地震、火山の噴火に対する恐れが神話や物語などになっているが、同じ理由である。
しかしメソアメリカでは古代的な石信仰・崇拝の後に、金や銀といった貴重な鉱物、産出量の少ない宝石を珍重する文明が現れなかった。交易は基本的に物々交換で、貨幣経済社会も生まれていない。アフリカやユーラシア大陸共通の富の概念が、南北アメリカ大陸には伝わらなかったのである。
「土偶」
縦三〇・二×横二四・五×厚さ一六センチ
「土器」
縦二二×胴径一〇・七センチ
『特別企画展-古代メキシコ- オルメカ文明展』(埼玉県立博物館)
オルメカでは陶芸も盛んだった。土偶は縦三〇センチ近い大型のもので、恐らく高位の神官などの大人だろう。丁寧な作りであり、元は服を着せていたのかもしれない。陶器も精巧な作りで表面を研磨して黒の釉薬を掛け、線刻模様を施している。
ヨーロッパでは古代ギリシャで完成度の高い陶器が作られたが、ローマ時代には技術が衰退した。ギリシャ陶器は赤っぽい土の上に、焼くと黒くなる鉄釉をかけて人や物の模様を表現した。それがローマ時代に入ると黒一色の陶器(テラ・ニグラ)と赤一色の陶器(テラ・シギラータ)に分裂する。オルメカなど古い時代のメソアメリカの陶器にはローマ時代のテラ・ニグラと非常に似た遺物があり、ほとんど見分けがつかないこともある。土偶も古い物になると日本を含むアジアで発掘される物に雰囲気が近い。
ではアジアやヨーロッパから製陶技術が伝わっていたのかという疑問が湧くが、石文化と同様、メソアメリカで自然発生的に生まれた技術だと言っていい。粘土質の土の上で火を焚くと土が固くなる。それを発見したことから土器作りが始まったのだろう。インカ帝国のミイラと同じである。
南北アメリカ大陸には砂漠などの乾燥地帯があり、そこで亡くなった人の遺体がミイラ化して発見されることが今でもある。これを自然ミイラというが、インカ帝国の人工ミイラは自然ミイラを見つけたことから始まっている。エジプトも砂漠に囲まれており、ミイラ作りはやはり自然ミイラが端緒になっている。ミイラとセットで語られるピラミッドも同様である。
「ラ・ベンタ遺跡」
オルメカ文明の拠点遺跡。先古典時代~中期
伊藤伸幸著『世界の考古学24 中米の初期文明オルメカ』(同成社刊)
ラ・ベンタはオルメカ文明後期の遺跡だが、土を盛り上げた巨大なピラミッド型の神殿がある。他のメソアメリカ文明と同様にオルメカでは太陽信仰や祖先信仰が盛んだった。インドなどの南アジアから極東にかけてのユーラシア大陸文明と同じく多神教で、雨やトウモロコシなど豊穣を約束してくれる神々を祀り、このエリアで最も獰猛な大型動物ジャガーを崇拝した。ジャガーは王の権威を際立たせる動物でもあった。ジャガー信仰はメソアメリカ文明共通だが、オルメカがその始まりである。多くの石版や石像にジャガーの姿が刻まれた。
オルメカより時代が下るアステカやテオティワカン文明では、最盛期に巨大な石造建築が出現した。テオティワカンには世界遺産に登録された太陽のピラミッドと月のピラミッドがある。さらに時代が下るインカ帝国(アンデス文明)でも巨大ピラミッド造られた。エジプトのピラミッドと同じ四角錐状で、パッと見るとよく似ている。しかし異文化から伝えられた(真似た)建築様式ではない。より太陽に近い高い場所で太陽信仰の祭祀を行うための塔だった。中南米のピラミッドは墓ではなく基本的に祭祀施設である。オルメカの土のピラミッドがその初源だ。
中央アメリカのメソアメリカ文明も南米インカ帝国(アンデス文明)も鉄器を知らず、金銀宝石もそれほど珍重しなかったことは、南北アメリカ文明が〝遅れていた〟という印象をわたしたちに与えがちだ。しかしオルメカは古代から整然とした都市や集落を造っており、測量技術なども発達していた。
またユーラシア大陸的常識で文明の指標となるのは暦や文字である。今のところオルメカで暦と文字が使われていた証拠は見つかっていないが、オルメカ末期に現れたサポテカ文明は暦と文字を持っていた。暦はその後メソアメリカで一般的になる二六〇日暦(メソアメリカ独自の神聖暦)と三六五日暦(太陽暦)が併用されていた。太陽信仰だったオルメカが既に暦を知っていた可能性はある。文字も同様で、サポテカ文字はオルメカに遡ると考える研究者もいる。オルメカ文明が研究対象になったのはつい最近の一九四二年なので、さらなる発掘調査で新たな発見があるかもしれない。
「石碑」
コパン遺跡出土/古典期前期 高一七七×幅五五×奥行き三七センチ
『神秘の王朝 マヤ文明展』(国立科学博物館)
メソアメリカ文明でわたしたち日本人が最も興味を惹かれるものにマヤ文字がある。漢字と同じ象形文字だ。漢字を知っているから簡単にマヤ文字が理解できるわけではないが、文字ごとに複数の意味と音素を表しているのは漢字と同じである。メソアメリカにはマヤ文字のほかにもたくさんの文字が存在したが、いずれも象形文字である。マヤ文字は、文字が自然界に存在する動植物の象形から発達したことをはっきり示している。オルメカ文明が文字を使っていたとしても象形文字だったろう。
ユーラシア大陸では古代から様々な民族が衝突して勝者が敗者の富を奪うのが常だった。富の中には文字も含まれており、話言葉が違う勝者側の民族が敗者民族の発達した文字を使ううちに初源の象形を失い、抽象的な表音文字になっていったと考えられている。中国や日本で原始的な象形文字が残ったのは、ヨーロッパや中東と比較すれば東アジアから極東では異民族の衝突が少なかったからである。
ではマヤ文字(メソアメリカの文字)が漢字の影響を受けているのかというと、まったくそんなことはない。マヤはメソポタミアと並んで0(ゼロ)の概念を知っていた世界最古の文明だが、マヤよりもずっと建築や天文技術が発達したインカ帝国は無文字だった。文字は必須ではなかったわけで、中南米ではユーラシア大陸のような形では文明が発展していない。インカは文字なしで広大な帝国を統治できるシステムを持っていた。
ユーラシア大陸的な常識では遅れているように見え、よく検討すると実に高度だった中南米の文明は、ちょっと奇妙な言い方だが〝少数民族〟の概念を援用するとわかりやすい。南北アメリカの先住民族はモンゴロイドで、遺伝子研究では遠祖は中央アジアあたりだとも言われる。アメリカ大陸へのメイン流入ルートが氷結したベーリング海だったのも確かだろう。アイヌを始めエスキモー、イヌイットなどのモンゴロイド系少数民族がシベリア、北海道からサハリン、千島列島、北極圏で生活している。彼らは南北アメリカ大陸へのモンゴロイド系人類移住の痕跡だと言える。
シベリアなどに居住する北方少数民族・ナナイ族の研究で知られるロシアの民俗学者A・V・スモリャーク女史は、北方少数民族は絶滅しつつあるのではなく、太古の昔から少数民族だったのだと書いている。寒冷地は食料に乏しいので土地のポテンシャル以上の人口を養えない。ただ温暖な地域も多いのに、北米インディアンは――北方少数民族ほどではないが、比較的少数の民族(部族)に分かれて広大な大陸に点々と居住していた。狩猟・漁労などで十分生活していけたのである。
これに対して中米や南米は熱帯や亜熱帯に属し、農業も行われていた。都市の人口も多かった。しかし意外に平坦地が少なく、山やジャングルで隔てられている中南米では、北方や北米とはまた違う民族の分断が起こっていた。
民族独自の言葉や文化習俗は一定地域に人が住み、さしたる外敵の侵入を受けることなく数百年、場合によっては数千年に渡って孤立した生活を営むことで生まれる。人口が増え力を蓄えた民族はやがて共同体から出て外部に進出するが、独自の言語・文化を持つ異民族と接触すると時に戦争になり、勝者が敗者を飲み込んで巨大な国家へと成長してゆく。
中南米でもそのような形で複数の民族が生まれた。しかし土地は広大だが高低差が激しく、鬱蒼としたジャングルも多い中南米では――北方とは比較にならないほど多くの人が生活していたが――北方と同じような民族の孤立化が起こっていた。また異民族(文明)との衝突も、同じモンゴロイド系ということもあり、ユーラシア大陸ほど熾烈ではなかった。
マヤなどの石碑には捕虜を従えた王や処刑された捕虜の姿が彫られている。そのためわたしたちはメソアメリカでは残虐な殺戮が行われていたと考えたりするが、実際はその逆だろう。メソアメリカもインカ帝国(アンデス文明)も鉄器や火器(火薬や鉄砲)を知らなかった。馬も飼育していない。彼らは殺傷能力の高い武器を持っていなかったのであり、石器中心の戦争で膨大な死傷者が出たとは考えにくい。モニュメントに捕虜の姿が描かれていることはその数が少なかったこと、貴重な捕虜として認識できる限られた数だったことを示唆している。生け贄となる捕虜の供出が戦争終結の儀式だった可能性もある。
大量消費社会に懐疑の目の目が向けられるようになると、『ダンス・ウィズ・ウルブス』(ケビン・コスナー主演・監督、一九九〇年)など北米インディアン文明(共同体)を一種のユートピアとみなす映画が現れた。また中南米文明が広く知れ渡ると、日本でも欧米でも遙か古代に遠い宇宙から飛来した宇宙人がピラミッドやナスカの地上絵を造った(描いた)といった珍説が唱えられるようになった。いずれも根拠のない夢想だが、南北アメリカ文明にはそういった夢想が生まれる素地が確かにある。
ほぼまったくアフリカ・ユーラシア大陸文明の影響を確認できないメソアメリカ・アンデス文明は、世界のどのエリアでも見られる太陽信仰から暦と数の概念を生み出し、高度な石造建築物を造った。それは人類の根源的能力を示している。人類は誰に教えられることもなく農耕や儀式のために暦を作り出し、数の概念を得るとそれを使って商取引や建築などを行うようになるのである。
その一方で中南米文明は、文字を生み出したが重視しなかった。今では正確なことはわからないが、高い記憶力と簡単な記号で経済活動を行い政治上の指示を伝達していた。またある民族が他民族を殲滅させた凄惨な戦争の痕跡は確認できない。メソアメリカでは自然環境の変化や病気の蔓延などで、長い時間をかけて一つの文明が衰退し新たな文明が勃興している。ユーラシア大陸とは異なる道筋で発展を遂げた中南米文明に、わたしたちが突飛な夢想を抱いてしまう理由である。
ただ純粋培養的な中南米文明は実に脆かった。スペイン人らによってあっという間に征服された。逆に言えばヨーロッパ人が十五世紀末から始まる大航海時代で世界各地の土地を植民地化できたのは、彼らが古代から続く熾烈な異民族との争いを経験していたからである。
今回紹介した土偶はオルメカによくある両足を左右に開いた姿だが、顔はのほほんとしている。恐らくオルメカ文明初・中期の作品だろう。頭頂部や腕に空いた穴がなければ日本の縄文土偶にとてもよく似ている。日本の縄文時代は紀元前一万年ほど前から始まるのでオルメカの方が八千年ほど新しい。しかし幼児の生命力を神聖なものとする感性は共通している。
日本では紀元前四百年頃から弥生時代が始まり縄文文化は急速に消滅していった。騎馬民族制圧説は極端だが、弥生時代に大陸から大勢の異民族が日本列島に流入し、原日本人と習合して新たな政治・文化形態を生み出したのは間違いない。弥生土器はモダニズム建築のようにすっきりしているが、逆に言えば機能重視社会となり為政者による統制が厳しくなったことを示している。日本人が縄文時代にユートピアを夢想するのは、リーダーはいただろうが共同体の締めつけがまだ緩かったことが土器などの遺物からわかるからである。
絶対他者としての異文化に接触しなければある文化共同体は強さを持ち得ず、さらなる文化的発展も望めないのは人間存在にとって冷酷なひとつの真実である。独自の発展を遂げた中南米文明は、スペインによってほとんど完膚なきまでに破壊された。しかし二十世紀になってラテンアメリカは、ボルヘス、オクタビオ・パス、ガルシア=マルケス、コルタサル、バルガス=リョサといった世界的作家を生んでいる。
スペインに征服されてもその文化的遺産が存続したのはラテンアメリカも同じである。ラテンアメリカの作家たちが表現の核として追い求めたのは、ほとんどDNAに刻み込まれたかのような中南米の古代文明の記憶だろう。そこまで意識を下降させたラテンアメリカ最良の文学は、新たな文明の発生に似た神話的なものである。ただいくら学問的な考察を重ねても、どうやって新たな文明が生まれるのか、その機微はわからない。そこにはいくつもの大きな飛躍がある。芸術が明らかにするのは決して理性だけでは把握できない文明発生の機微であり、創造の神秘である。
それは骨董にも当てはまる。骨董の世界はデータベースだから、研究者はもちろん骨董好きだって好き勝手に想像力を羽ばたかせることはできない。茫漠とした夢を語りたいなら、浜辺でわけのわからない形になった漂着物でも拾っていればいい。骨董はわたしたちがほとんど無意識領域にまで精神を下降させてある文化の本質を探ろうとするとき、少しだけマジカルな触媒になる。
鶴山裕司
(図版撮影 タナカ ユキヒロ)
(2020 / 01 / 21 27枚)
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