今号では「大特集 推薦!令和の新鋭 U(アンダー)39作家競詠」が組まれている。総論を対馬康子さんが書いておられ、「この二十四名は主宰から結社の若手代表として選ばれ、見開き写真付き大特集に作品発表をする貴重な機会を得た」とある。有名結社主宰が推薦した若手俳人の特集である。「U(アンダー)39作家競詠」とあるのは、推薦された俳人の最長年齢がたまたま三十九歳だったということだろう。
俳壇では昔からこういった結社主宰推薦のアンソロジーなどが出版されてきたので、今回の特集は珍しくない。ただやはり活気がない。活気とは何かと言えば〝今現在新鋭特集を組むことの意義〟である。結社内での新人俳人のランク付けはともかくとして、結社を束ねその上位から俳壇を客観的かつ公正に取り扱っているというタテマエの商業句誌では、新人特集を組む意義が求められる。そうでなければ毎月雑誌を出している俳句ジャーナリズム誌の存在意義が揺らぐ。結社主宰に丸投げではそれは得られない。
(前略)AIが、ことばの組み合わせの偶然から、結果として真の俳句らしきものを表出したとしても、それは心ないAIの作った定型短表現でありデータである。それを詩と認めるかは「ひと」としての俳人であり、AIはあくまで下書きをしてくれているのである。
結社というのはいろいろな形態が考えられるが、要は、主宰が句会などの神聖な人間同士の修行を通して、「物と心の新しい関係性」を、直接人として伝え合い鍛え合う場である。(中略)結社は、「人間のみができる発見」を「人間が受け止める場」であるので、多くの作品がAIに基づいて作られるようになった場合には、その作品が、真に「人によってつくられたか」という、オリジナル性の真贋判定の根拠としても期待されるかもしれない。
(対馬康子「期待を担う選士」)
対馬さんの総論は、少なくとも特集を結社主宰に丸投げした編集部の姿勢よりも刺激的である。対馬さんは「一茶くん」というAIが「かなしみの片手ひらいて渡り鳥」という句を詠み、それが俳壇で話題になったことを踏まえてAIと俳句について書いておられる。
AIは学習コンピュータだから、歳時記などの俳句過去作品をデータベース化して用語などを登録し、俳人たちが俳句ノウハウ本で書きまくっている作句法を文法化すれば、秀句・名句を生み出す可能性がとても高い。もちろんAIには今のところ人間的な心はないわけだが、俳句を有季定型写生と定義して取合せと切れ字を主要俳句構成要素にすれば、今現在書かれている大多数の俳句と遜色のない俳句が生まれるだろう。作家名を隠せば、まずAIが詠んだとはわからないはずである。文学ジャンルの中で一番AI化しやすく、かつ優れた作品が生まれる可能性が高いのは俳句である。
また俳句は詠む半分、選ぶ半分の文学だから、AIを作家主体とし、その句を人間が秀句・名句と認知すれば少なくとも〝作品〟としては完全に成立する。AIは人間ではないが、人間がその句を立派な作品と認知すれば俳句として成立するということである。ある詩が詩として成立するためには人間の関与(同意)が必要だということだが、それが対馬さんが説くように〝だから結社が必要〟という論に飛躍してしまうのはいささか無理がある。
対馬さんが書いておられるように結社が貴重な人間的交流の場であるのは確かである。ただAIが作ったものであろうと作品は原則的に独立しており、独立した表現であればあるほど「人によってつくられたか」どうかは分別し難い。AIが名句を生み多くの人がそれを名句だと認めればそれは名句である。
簡単に言えば、対馬さんは人間が作った俳句が真で、AIを含む機械が作った俳句は偽だという昔ながらの論を主張しておられる。しかし人工知能技術が発展し続けている現代では一昔前のような稚拙な模倣ではなく、それなりに修練を積んだ俳人くらいの俳句を簡単に作れてしまうからAI俳句が気になるのである。ただ対馬さんがAIが発展した現代において、俳句の「オリジナル性」とは何かを問うているのは考察に値する。
虚子的な花鳥諷詠を絶対的規範としないまでも、有季定型写生を前提とすれば、AIが凡百の俳人の作品に追いつき追い越す可能性は極めて高い。取り合わせと切れ字でオリジナリティを出そうとしている限り、間違いなくAIにはかなわないからである。近い将来、目立ちたがりの若い俳人の中からAIが作った俳句を取捨選択し、少しだけモディファイして自分の作品だと言って発表する俳人が出て来るかもしれない。その作品は俳人が頭から尻尾まで自分で考えた俳句と遜色ないだろう。有季定型写生俳句はAIにかなわない。少なくとも肩を並べられてしまう。
もし生身の俳人が生み出す俳句のオリジナリティを考えるのなら、まずはAIには絶対にできないことを探るのが普通だろう。それを探求し始めれば有季定型写生という型は少しだが決定的に変わるはずである。人間の能力の源泉は想像力にある。妄想のような想像から数々の新たな発明が為された。コンピュータもその一つである。俳句である限り自ずと制限はあるが、写生といってもその質が変わる可能性はある。現実が多層化するわけである。
おほいなる空おほいなる海の春
啓蟄や高鳴る山の心の臓
たんぽぽにいのちの風や絮の旅
金の鈴ふる天にふる揚雲雀
うららかや海にまたたく昼の星
むらさきの雲撫ぜる波春の雁
あん摩さんたびたび見やる春火鉢
鞦韆の宙ゆさぶりて星よ降れ
靴底の蟻一匹に喚ばれけり
(葛尾さとし「金の鈴」)
肝心の新鋭特集では葛尾さとしさんの「金の鈴」が秀作だった。新人が商業誌に作品を発表する時は緊張するだろう。しかし葛尾さんの作品にはほとんど気負いがない。むしろあっけらかんとしたおおらかな句である。文学における気負いは自意識過剰の一種だが、葛尾作品には自我意識の主張がほとんどない。「たんぽぽにいのちの風や絮の旅」にあるように自意識はふわりと流れ、「靴底の蟻一匹に喚ばれけり」と足元の蟻と同化する。俳句の一つの在り方だろう。
俳句のような短い表現でも数十句、あるいは句集一冊を読めば作家性は浮かびあがる。それがAIとの違いだと言えるかというと、これもまた難しい。確か星新一に特化したショートショート生成AIがあったはずで、作家の好みもまたインプットできる。では将棋やチェスだけでなく、人間は創作でもいずれAIに追い越されるのだろうか。そうだとも、そうでないとも言える。人間的営みをどう定義するかによるからである。それは変化させ更新することが可能である。
ただし有季定型写生でAIに決定的な差をつけるのは難しいでしょうな。しかしAIに圧迫されて、百年一日の如く旧態を墨守し、原理に基づく新たな表現であっても前衛をことごとく潰してきた俳壇が少しでも変わるなら、AIに感謝すべきだろう。
岡野隆
■ 対馬康子さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■