今号は第九回北斗賞の発表号である。北斗賞は俳句界版元の文学の森主催で、応募要項は四十歳未満で俳句百五十句、俳句は既発表、未発表を問わない。副賞は文学の森からの句集刊行である。北斗賞HPには並製四六判百五十句収録で初版三百部(印税なし)とある。俳句に限らないが詩書の出版環境は厳しいから、自著を刊行してもらえるのは新人俳人にとってなにより嬉しいだろう。今回の受賞者は諏佐英莉さんで、一九八七年生まれなのでまだ三十代前半である。
そのプリンわたしのプリン春の昼
花林檎まづは名前を褒めにけり
失恋ややどかりにやどかりの夜
夏めくや黄色の絵の具買ひ足せば
紙袋いつぱいにパン大夕焼
友達の友達が来た心太
トマト煮て愛の終はりのやうな物
マニキユアの蓋開いてゐる熱帯夜
橙ややさしきひとにやさしくす
ゆびさきの塩舐め取つて秋思かな
海老にわた人にかなしみ星冴ゆる
今日死ねば今日が命日毛糸編む
卵から生まれたかつた寒牡丹
(諏佐英莉「やさしきひと」)
新人俳人の作品にはかなりの確率である傾向がある。「そのプリンわたしのプリン春の昼」「夏めくや黄色の絵の具買ひ足せば」などの作品が典型的だが、ちょっとした日常を詠んでいる。しかもそれははっきり〝作家の日常〟だとわかる。俳句はまず、ささやかな作家の感情や感覚を表現するための器であるわけだ。
このようなささやかな感情・感覚を表現する作家の自我意識は小さい。社会に向けて大声で自己の思想や主張を喧伝したりしない。心臓がドキリとするような重大事を考えたとしても「今日死ねば今日が命日毛糸編む」と淡々と表現される。
ただ俳句を書き続け、だんだん技術的に上達してゆくとともに、俳句で表現される自我意識は大きく強く、そして確信的になってゆく。作家としては当然の道行きではある。しかしそれが俳句文学にとって最良の道かどうかはちょっと考えてみる必要がある。わたしたちは新人俳人の作品にある純粋さを感じ、それは俳句の純な部分だとも考えるわけだが、その純な部分が失われてゆくということでもある。
諏佐さんはまったくの俳句初心者というわけではない。連作は「そのプリンわたしのプリン春の昼」で始まるので口語でゆくのかなと思わせる。しかし表記にはそれなりに工夫が凝らされている。けり、かな、やの切れ字はもちろん、ゐなどの旧字も使っておられる。促音も大文字表記だ。
こういった俳句技術は無意識的に選択されたものだろう。表現史は積み重なってゆくものである。比喩的に言えば一昔前のヘプバーン俳句のような口語俳句は終わった。もしくはその可能性が試し尽くされた。文語体は単に昔の言葉ではなく、作品を永遠に属させる効果を持つ表記である。短歌・俳句でそれを手放すことは表現の半身を失ってしまうことに近い。作者の今現在の表現欲求は現在形にあるが、書き続けるための〝次〟が技法として選択されているということである。
ただ何も考えずに次のステップに進んでゆくと、ほとんどの場合俳句は型にはまる。作品は量産できるようにはなるが表現内容は平板になる。技法の安定とともに現在形で揺らいでいた作家の表現内容も安定してしまうのである。いっけん自信がついたように見えるが、それは俳句の型にはまったことによる効果という面が強い。考えものである。
だから私には、現代俳句の未来が次のように見えている。
① 俳句は「伝統」と「反伝統」のせめぎ合いの中で存在しなければならない。
② その際、「反伝統」は永遠に前の者を乗り越えなければならない。例えば(金子)兜太の向こう側に、未来の反伝統俳句は存在する(兜太を否定しているのではない、兜太をよく理解した上で、と言う意味である)。
③ もうひとつ、「反伝統」が存在するためには「伝統」がはっきりと存在しなければならない。伝統は反伝統の永遠の敵である、しかし伝統なくして反伝統は存在し得ない。従って「ホトトギス」((稲畑)汀子氏のいう伝統俳句)は永遠に不滅でなければならないのである。
(筑紫磐井「巻頭言」)
今号では特集「「ホトトギス」は永遠に不滅です」が組まれていて、筑紫磐井さんが「巻頭言」を書いておられる。お書きになっていることはそれなりに筋が通っているが、あまり実効性はないように思う。俳句の理念と現実俳壇という、問題の審級が入り交じってしまっている。
俳壇外の人に、「俳壇には「ホトトギス」という結社誌があって、高濱虚子から四代に渡って世襲されているんだよ」と言うと皆一様に驚く。お茶やお花の習い事ならともかく、文学の世界で世襲があるとはどういうことか、ということである。こういった場合はグチャグチャ考えずに二項対立を援用するのが基本である。文学は世襲できない。従って世襲可能な俳句は文学ではないということである。
もちろんこんなことを書くと、ほとんどの俳人が「それは言いすぎだ」と言うだろう。それもその通り。世襲されている「ホトトギス」といわゆる伝統俳句は切り離して考えるべきだということである。「ホトトギス」世襲は高濱―稲畑家のお家の事情であって、文学の問題ではない。筑紫さんは「「ホトトギス」((稲畑)汀子氏のいう伝統俳句)は永遠に不滅でなければならない」と書いておられるが、現実の「ホトトギス」と伝統俳句に二股がかかっている。特集で「巻頭言」を書く以上、前者が永遠だというのはリップサービスとして必要だ。しかし本当に主張したいことは別だろう。
俳人は俳句に一所懸命になり、俳壇という場所を強く意識すると同時に、ほとんど本能的に俳壇内で少しでも日の当たる場所に自分の居場所を確保しようとする。複雑に入り組んだ俳壇の現実利害関係にどっぷりと巻き込まれてしまうわけだ。この状態で理論を考えると、必ず現実俳壇の諸勢力に足を引っ張られる。力のある結社や俳人に思い切り配慮しながら理論を貫き通すことは難しい。
いわゆる伝統俳句を俳句だと考え、それに疑いもなく従属してしまうと俳句は平板になる。俳句は文学ではなく世襲可能な習い事お遊び芸になるということである。初心者俳人が清新な表現欲求を持ちながら、伝統俳句に添い寝するといつしか誰が書いてもいいような俳句になってしまうのと同じである。
この習い事お遊び芸を脱却するために数々のいわゆる「反伝統」俳句が生み出されてきた。しかしこの場合、超とか反とか博打のような二項対立が有効かというと、過去の試みがそれはことごとく失敗に終わると証明している。筑紫さんの「俳句は「伝統」と「反伝統」のせめぎ合いの中で存在しなければならない」という言葉は正しいが、それは過去の前衛俳句の主張の祖述の域を出ない。
「ホトトギス」の特集で巻頭言を書いた以上、「伝統は反伝統の永遠の敵である」という立場を名実ともに貫くのは不可能である。また実際にはそんなことはムダだと考えておられるだろう。対立ではなく内実を考えなければ俳句を泡立たせ、新たな表現を生み出すことはできない。伝統と呼ばれている何事かを理論としてどう定義できるのかということである。過去の伝統と反伝統は俳壇勢力争いとしても存在してきたが、俳壇勢力争いは頭から取り除いた方がいい。伝統俳句の理論がはっきりすれば、無意味な俳壇勢力争いは霧散するはずである。
岡野隆
■ 筑紫磐井さんの本 ■
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