今回の角川短歌賞は近年稀にみる豊作であり受賞作だけでなく次席や佳作も含めて歌壇の勢いを感じ取れる作品群でした。文学の世界全体を見回してもこれは大変珍しいことです。文学は明らかに斜陽産業になっていてどのジャンルでも優秀な人材の新規参入が少なくなっています。SNSなどで盛んに自己発信(自己主張)する人は多いのですがそれは他者と比較され鎬を削ることを避ける創作活動と紙一重のところがあります。しかし歌壇は違います。作風や応募者の顔ぶれを見ていると歌壇がとても風通しの良い場所だということがわかります。角川短歌に限ったことではありませんが歌壇はとても健全に機能しています。
起き上がるときするすると流れ出す頭に淀みゐたりし水は
つぶれたる理髪店あり通学路なりし小道の曲がり角には
飛びさうで飛ばぬ羽虫が公園のベンチの隅にのたうち回る
葬列の過ぐればすずし曇天の無人プールのうすきあを色
ぶらんこは錆ぶ 鎖されし保育所にふたつまとめてねぢり上げられ
剥がれかけのポスター並ぶ通りには春の終はりの風吹き抜けぬ
街宣の叫びの遠く聞こえ来て坂を下れり名のなき坂を
軋みながら駅を離るる急行が長きトンネルに入りてゆきたり
でこぼこの路面に張り付くさくらばなを踏めばしづかに空ぞくづるる
表面に幾何学模様を刻まれて下水のふたは闇を押さへぬ
解体のつづく屋根の骨組みに降り始めなる雨は注げり
どろどろと肥ゆる代田に囲まれて休耕の田は緑なりけり
湿る裾 傘を打つ音 靴底に捨つれど溜まる砂利のざらつき
校庭はぬかるみてぬかるみてゆく 知らざることの多さを思ふ
ひらひらと紙なるわれは彼方より伸びて来る手にたたまれ眠る
(受賞作 山川築「オン・ザ・ロード」)
受賞作は山川築さんの「オン・ザ・ロード」ですが最初に読んだ時には「なんでこんな平凡な作品が受賞したんだろう」と思いました。しかしそこはさすが角川短歌。選考委員の先生たちは信頼できます。「オン・ザ・ロード」は修辞的に上手いとは言えますが人の耳目を驚かすような派手さは一切ありません。しかし本質的に新しい短歌の姿を示唆しているかもしれません。
「オン・ザ・ロード」には作家の強い自我意識が表現されていません。連作ですがそれは最初から終わりまで一貫しています。表現されているのは外界の写生によって呼び起こされる作家の内面です。「表面に幾何学模様を刻まれて下水のふたは闇を押さへぬ」「どろどろと肥ゆる代田に囲まれて休耕の田は緑なりけり」などの歌が典型的です。作家は内面に闇を抱え休耕田でありながら瑞々しい緑の草を茂らせています。
短歌は「わたしはこう思う」「こう感じる」の自我意識文学です。この原点から短歌は決して逃れられないと思います。歌壇を抜けて一般読者をも魅了する歌は絶唱に近い自我意識表現なのです。
近年歌壇を席巻したニューウェーブや口語短歌は戦後的な強い「私」表現に対する反措定だと言えます。高度情報化社会の到来で生活はもちろん思想・感覚両面で確たる拠り所を持たない世代が拡散し続ける私を表現するために見出した書き方です。それは短歌表現の裾野を大きく拡げました。しかしそれだけが戦後的あるいは短歌伝統的私の超克方法ではありません。
山川さんの「オン・ザ・ロード」はもしかすると新しい私表現かもしれません。古典的な顔つきをしていますが「ひらひらと紙なるわれは彼方より伸びて来る手にたたまれ眠る」にあるようにニューウェーブや口語短歌歌人が大好きなエクリチュールの独自性といったものも表現されています。山川さんは紙に書かれた文字そのものなのでありそれは彼方から伸びて来る手――短歌伝統の逃れがたい富であり呪縛でもあるもの――に畳まれるのでしょう。
この作家はミニマルな「私」に閉じきることでさらなる新たな表現を生み出す可能性を秘めていると思います。小さな自我意識の私の内面は外界描写によって初めて言語化されるわけですが私の内面と外界の豊穣さはリンクしています。より不気味にもより晴れやかにもなり得る短歌の方法でしょうね。
前髪に鋏を入れる バスタブに淡雪に似た音のかそけさ
打ち抜いたピアスの穴に咲くダリヤ誰のものにもなれないままで
胎動の足掻きのように揺れ動くカーセックスにラジオが洩れて
去勢手術受けたる向かいのラッキーの遠吠え朝の滲みに響く
銀色に尾びれをたててタクシーは濡れた舗道をゆっくり泳ぐ
薔薇色の香りに飢えた傷兵の集まるようなスターバックス
バスを待つ眼みひらきそれぞれに乾いた蝶の標本を飼う
服を脱ぐ何千枚も服を脱ぐあなたは桜吹雪のように
詫び言の代わりに身体を重ねれば布団より出る足の冷たさ
舌さきに金平糖をころがして棘の甘さをゆっくり溶かす
(佳作 平井俊「蝶の標本」)
性別は書いてなかったと思いますが佳作の平井俊さんは女性でしょうね。山川さんとは逆にパッと読むと目を引く作品です。「銀色に尾びれをたててタクシーは濡れた舗道をゆっくり泳ぐ」「服を脱ぐ何千枚も服を脱ぐあなたは桜吹雪のように」といった喩の使い方はこなれています。ただどこかツクリモノという感じがしてしまう。またこういった喩の使い方は平井さんが初めてではありません。新鮮なようで既に読んだという既視感があります。シュルレアリスティックな遠いモノの連結といった喩の使い方は少し前の短歌では新鮮でしたがほとんどの喩がそうであるようにそれらは一瞬で既知のものになってしまうのです。
また「胎動の足掻きのように揺れ動くカーセックスにラジオが洩れて」「詫び言の代わりに身体を重ねれば布団より出る足の冷たさ」といった歌はドキリとしてしまうところがあります。女を利用していると言う人もあるでしょうが女性作家ならどんどん女性性を活用すべきです。ただそこはかとなくあざとさを感じてしまう。「バスを待つ眼みひらきそれぞれに乾いた蝶の標本を飼う」が表題になった歌でしょうがこのツクリモノ感がどこに向かおうとしているのか今ひとつわからない。喩などの技法を極めるのではなくむしろ抑えることでより明瞭に作家の生地が表れるかもしれません。上手いし目を引くのに佳作という評価は納得できます。
木蓮はモクリョンと呼び寒蘭はハンランと言います私の国では
結婚を恐れる私が君と逢うチルレコッパッ野茨の花壇
憧れと嫉妬と忍耐だったのか君を因数分解すれば
からくれないの口紅くっきりつけてから帰っていこう母の住む国へ
カンさんは在日ですか?違います。ニューカマー、いえ異邦人です
殴り合うだけの世界に差別などないと在日のボクサーは言う
下腹が膨らみ始めて生理らしい 残った卵子また一つ減る
深夜二時コンビニに寄る私たち磁石が引き合うように孤独だ
がら空きの座席ですすり泣いててもバスは止まらず東京にひとり
静やかな日本庭園の庭に立ち名を残している朝鮮燈籠
(佳作 カン・ハンナ「千百キロメートルの因数分解」)
カン・ハンナさんは韓国人で確か日本の大学に在籍しておられたと思います。既に角川短歌の座談会などにも出席しておられますがそういった作家が角川短歌賞に応募なさっているのは歌壇の風通しの良さを象徴していますね。
歌壇は狭い場所です。主要な作家は顔が見える距離で仕事をしています。そういった狭い世界では才能ある作家を芽のうちから大事にした方がよい。また作家の方も過剰に権威に臆する必要はありません。この場合の権威とは新人賞などのことです。
小説文壇などでは新人賞を受賞しなければ作家の卵としてすら認知されないという不文律があります。しかし歌壇では才能があれば賞を度外視して執筆者として登用しています。作家の方も賞を絶対的な敷居とせず欲しければすでに名前が知れていようと何度でも応募していいという風通しの良さです。
こういった風通しの良さの必要性は新人賞を始めとする権威に凝り固まった小説文壇にもいずれは及ぶでしょうね。小説でも才能はもちろんまともに努力できる新人の参入が年々少なくなっています。贅沢に取捨選択できる時代ではありません。ジャンルを問わず歌壇のようなフレキシビリティを持たなければ文学の世界は衰退するでしょうね。
さてカンさんの作品ですがなかなか難しい所に差しかかっていると思います。杓子定規な日韓関係の険悪は多少であれ個人にも及ぶわけで在日ではなく韓国人でしかも日本最古の古典文学である短歌を自己の表現として選択したカンさんの立ち位置はなかなか微妙だと思います。
「憧れと嫉妬と忍耐だったのか君を因数分解すれば」という含みのある歌が表題作になっていますがこの内実を露骨に表現すべきか否か。同化と異和がカンさんが差しかかっている難所だと思います。日本文化に同化してしまえば彼女のアイデンティティは失われます。かといって自らのアイデンティティを過剰に主張すれば歌は社会的あるいは政治批判的な文脈で読まれてしまう可能性が高い。第三の道を模索しておられることがよくわかる作品です。異文化の相互理解と理解不可能性という大きな課題はカンさんのような作家の肩にかかっているのかもしれません。
November 雪待月と訳したり あなたの誕生日、とも迷い
水槽の中で泳いでいることを分かっているのかイワシの大群
六時間目の数学カーテンを開けたなら空には白く太陽がある
水道管凍りて星を映しおり睦月尽日刺すような風
冬風が空を洗える木曜日君には君の僕には僕の
リビングの明かりが漏れてくる 僕は守られている 守らせている
マークシート埋めていく僕君が知らないことをいくつ知っている
木に花に自転車にその制服に春はひそかに降ってくるもの
明日も君の鎖骨に光降るだろう 見るのが僕でないとはしても
受験生ではなくなった日につけた人差指の傷も消えおり
(佳作 渡邊新月「冬を越えて」)
渡邊新月さんは平成十四年生まれとありますから角川短歌賞に応募した作品は十七歳以前に書かれたということになります。「マジっすか」と驚いてしまうような早熟ぶりですね。一九六〇年代から七〇年代なら一発で正賞受賞だと思います。またその頃なら作家の方もなんらかの飛び道具を用意したでしょうね。
「冬を越えて」には高校生の淡い恋愛幻想のようなものが表現されていますがもっとドラマチックな出会いと別れが架構されたかもしれません。しかしそうであれば過去の作品をなぞったという感じが強くなる。淡々とした書きぶりが渡邊さんのフレッシュさを際立たせています。
ただ正賞ではなく佳作としたのは正解のような気がします。一九六〇年代から七〇年代頃と現代が大きく違うのは若手作家の進むべき道がほとんど白紙であることです。かつては既存のレールを捉えてそこに飛び道具のような驚きを乗せるのが若手歌人デビューの道筋でした。しかし現代の若手歌人は自ら道を切り開かなければなりません。渡邊さんのような新たな才能を見逃す手はないのですが大事に育てるという意志が佳作になったような気配です。貴重な若手だからこそ勘違いしない人材かどうかまで見極める必要があるでしょうね。
東京の無限の光も照らさないアイスホッケーへの道をえらぶ
体育系に詩歌は無理と揶揄されてジャージで短歌講座に臨む
半歩だけ反応鈍り老いを知る趣味テーピング、二十九歳
常日頃は会話すらないプロたちと阿吽の呼吸でパス回し合う
ドーピングにならぬ眠剤処方する医師だけが知るぼくの不眠を
「このままでは廃部だ」という恒例の檄は本社の業績問わず
今という時を砕けよ 振り抜いた一年ぶりの決勝ゴール
将来はプロ転向か問いたがる同期の記者の年収を聞く
「ホッケーも新聞もじき滅ぶから」記者はきっぱりサワーを掲げ
わたしにもホッケー捨てる日があるか朝霧夜霧濃い北の街
(佳作 小野田光「ホッケーと和紙」)
小野田光さんは東京出身で北海道あたりでホッケー選手として活動しておられることが歌を読んだだけでわかります。「体育系に詩歌は無理と揶揄されてジャージで短歌講座に臨む」とあるように短歌講座に通って歌を始められたようです。
小野田さんの作品を読んでいると短歌が必ずしも技巧によっていい作品になるわけではないということがよくわかります。また彼のような作家が新規参入してくるところが今の短歌界の盛り上がりをよく示しています。奇貨居くべしの人材です。もちろん歌人としても期待できます。
高嶋秋穂
■ 金魚屋の本 ■