角川短歌の巻末の方に収録されている歌壇時評を毎号楽しく読んでいます。毎月刊行されている歌集などを全部読むわけにはいきませんから歌壇時評がそれを知る拠り所になるのです。時評というくくりでありかつ比較的若い歌人が書いていることが多いので必然的に同世代くらいの歌人の動向に敏感です。ただ岡目八目で見ていると歌壇時評は若手歌人たちの不満のガス抜き場という側面がなきにしもあらずですね。
歌壇・俳壇は結社誌や同人誌がその細胞ですから狭い世界に閉じやすいものです。商業歌誌・句誌は本来的にはそういった仲間内コミュニティから抜け出してリベラルに議論を戦わせ創作を競い合う場としてあります。いわば歌壇・俳壇のセンター雑誌の役割を担っているわけです。ただしセンター雑誌として機能しているのは歌誌だけです。商業句誌は俳人たちが文学としての俳句を探求する場ではありません。ひたすら初心者創作者のために存在しています。商業句誌の〝刊行目的〟は初心者創作者の獲得であり俳人たちは黙々とそれに従っています。
ではセンター雑誌には何が求められるのでしょうか。まず全体を満遍なくリベラルに把握していること。角川短歌ではベテランから中堅若手作家の作品が順繰りに掲載されます。「これは続くかな」と危惧してしまうような新たな試みに対しても寛容です。対比させると句誌は有季定型以外の作品をほぼ掲載せず有季定型の中でも実験的な試みに目配りすらしないという点ですでに失格です。特定の作風の作品しか掲載しなければ雑誌がマンネリ化してしまうのは当然です。作家も読者も概ね公平だと感じなければセンター雑誌ではありません。
次に文学としての短歌を論じる腰の据わった批評が必要です。歌誌・句誌では創作指導ページは必須ですがそれで全てのページを埋めてしまったのではセンター雑誌足り得ないのです。執筆者は「水は高い所から低い所に流れる」という信念を持って〝文学〟に資するような評論を書く必要があります。ものすごく単純に言うとプロと素人の違いは技法・思想両面での圧倒的な力の差です。それが伝わって来るのがセンター雑誌というものです。
最後に必要なのは状況誌としての役割です。詩に限りませんが文学の世界では――大物作家の物故を除けば――一ヶ月単位で大きな事件が起こることはありません。しかし商業誌は毎月違う特集を組んでいます。つまり〝刻々と変化している状況はある〟という前提で刊行されているのです。この状況は長い時間をかけて作り上げるしかないものです。編集部が作家たちの新たな試みに細かく目配りしてそれを的確に取り上げなければ状況は生まれません。歌誌ではそれがとても上手く行っています。ニューウェイブや口語短歌などの新たな動きを取り上げそれに対する批判などをバランスよく掲載しています。毎月刊行される商業誌では状況作りが一番重要でしょうね。
定番の添削指導を除けばセンター雑誌には①公平な作品掲載②短歌文学論③状況論の三つの役割が求められるのですが歌壇時評は最後の状況論に属します。言ってみれば状況を泡立たせるための時評です。なので雑誌への批判や他者の作品や評論に対する批判も威勢よく書いていいページです。作家に一種の文学的スキャンダルを引き起こしてもらい編集部がそれを拡大再生産することで状況は生まれます。文学の状況などそんなものです。ジャーナリズムが状況を作り出すのです。
ここまで書くと勘の良い方は状況論を書く際の作家のリスクがおわかりになりますよね。結社誌や同人誌の上位に君臨するセンター雑誌に書くのは作家にとって名誉なことです。ただし常に上には上があり下には下があることを肝に銘じておかねばなりません。無意識にであれ作家が時評の状況的役割を感受していれば批評内容は自ずと過激になります。しかしいくら威勢のいいことを書いてもセンター雑誌に書いている時点で所詮は体制内反体制。体制を揺るがすつもりで体制に上手く利用されてしまうということがしばしば起こります。
政治と同じで野党は必要です。そうでなければ〝壇〟は活気づかない。作家や編集部に「面白かったよ」と誉められたとしても「面白かった」の意味を考えなければなりません。あらゆる新たな試みは批判意識から生じます。これは違うのではないかという違和感が新たな試みの原動力になるわけです。時評はそんな新たな試みの質を見極めるための試金石です。
時評=状況論は作家にとって一種のテストです。批判意識があるのは大いにけっこう。そうでなければ変化し続けねばならない歌壇の将来はありません。ただし時評を読めば作家の批判意識がその場限りのものなのか将来的に影響を与え発展してゆく可能性を有しているのかどうかは概ねわかります。年長者に微妙におもねりながら同世代と文学ジャーナリズム全体の動向を必死に追っているような時評はジャーナリズム小僧が書くその場限りの状況論に過ぎません。現状に違和感を持ち一通り批判を終えたらNoではなく自分が考えるYesを作品や評論として書けなければ作家は次のステップに進めません。万年野党と同じで批判するだけなら簡単なのです。
そういう意味では角川短歌の最初から半ばくらいに掲載されている作家の作品や評論・エッセイは与党のものと言うことができますね。センター雑誌に乗っかってしまった以上巻末の野党ではなく与党になろうとするのはそれはそれで一つの覚悟です。また外野から見ていると編集部の若手作家の扱いはすでにもう違っています。威勢よく文学スキャンダルを起こしてくれる要員といつの間にか真ん中あたりで活動している若手作家に分かれています。時評で思い切った批判を書いているつもりでも編集部はその効果と限界を見切っています。オトナはズルイものです。
不満を書けば若手作家の鬱屈は多少は晴れますし批判をぶつけられた側はカリカリ来ます。それを掬い上げるのがジャーナリズムというものです。しかしそんな小さな波風はいつの時代でも起こっています。状況はいつだって必要ですからジャーナリズムが若手作家を煽って書かせている面もあるわけです。だけどそれでは本当に仕事をしたことにはならない。作家は冷静に自分の立ち位置を確認する必要があります。
それはさておき、私には、今の「若い世代」の歌はなんとなく、抜群にセンスはいいけれど淡くて繊細で体温のない作品だという偏見がある。一人一人、一首一首はとてもいいのに、顔が見えないというか、作者ごとの作風の違いが不明瞭というか。それがあえて自分自身から距離をとったり、より繊細な感覚を描こうとしている結果だとすれば、そこを意識してもっとちゃんと読んで見たいと思った。
(富田睦子「歌壇時評「「私」という武器」)
富田睦子さんは四十代くらいの歌人のようです。作家によって批評スタイルも様々ですが富田さんは共感型ですね。他者の作品や評論を読んでまず違和感を覚えるのではなく「ああなるほどそうだよねぇ」と共感してしまうタイプだと思います。包容力があるわけで結社などに所属しておられるならまとめ役にうってつけです。
今回の時評は「私」がテーマです。富田さんはそれを「短歌にはいくつかの結論の出ない話題があって、「短歌における私」はその最たるものだと思う。それは短歌の根源に関わる問題だからで、「人はなぜ生きるか」「幸せとはなにか」などと同じように考え続けることに意味がある話題なのかもしれない」と書いておられます。
平安の昔から短歌は「私はこう思う」「こう感じる」の自我意識文学として発展してきました。そして私が際立つためには社会との対立軸が必要です。明治になり四民平等の自由主義社会になったにも関わらず封建社会の遺風で女性たちは抑圧され続けました。明治大正期に女性たちが魅力的な歌を詠んだのは言うまでもありません。戦後の一時期もそうですね。戦前の皇国主義の抑圧が霧散した社会で歌人たちは解き放たれたように私を歌いました。言語実験であっても確固たる私が感じ取れる歌が多かったのです。
しかし現代では自由は人間の基本的権利です。もはや自由のために戦う必要はありません。最初から自由な人間は自分の自由の範囲を狭めることでしか自我意識を発揮できないのです。しかし自由――無限に有していたはずの可能性――を狭めるのはそんなに簡単なことではありません。
強い強い私の自我意識を表現することは近代から戦後にかけての歌人がもうやりました。しかしかつてのように社会のある一点に根を下ろして強い自我意識を表現する方法はどう考えても現代的ではありません。では今までとは違う方法で私を表現するにはどうしたらよいのか。その試行錯誤が「私には、今の「若い世代」の歌はなんとなく、抜群にセンスはいいけれど淡くて繊細で体温のない作品だという偏見がある」という富田さんの批評になっているのだと思います。大文字の私を表現しないのなら修辞を凝らして微細な私を表現することになるわけです。しかし修辞で作家の独自性を表現するのは難しい。
家々を追はれ抱きあふ赤鬼と青鬼だつたわれらふたりは 小佐野彈『メタリック』
乞ふべきか乞はざるべきか いや、やはり乞はざるべきだ 赦し、なんか
むらさきの性もてあます僕だから次は蝸牛として生まれたい
確固たる理想くづれてなほ僕を赦せるらしい 母といふ人
男同士つなげば白いてのひらに葉脈状のしみがひろがる
梅林を駆ければおまえ戦火とは濡れているあの火のことですか 大森静佳『カミーユ』
遠い秋の遺跡のようにふかぶかと声ふとらせてひとりを呼べり
鳶、ゆけ。ふかぶかとゆけ。その人の棺をえらぶきみのこころへ
細部を詠めという声つよく押しのけて逢おうよ春のひかりの橋に
肉体の曇りに深く触れながらカミーユ・クローデル火のなかの虹
富田さんが時評で引用した短歌を読むと彼女が何を言いたいのか少しわかってきます。小佐野彈さんはゲイだそうですがゲイだとわかる歌は「男同士つなげば白いてのひらに葉脈状のしみがひろがる」くらいでそれも示唆されている程度です。またゲイであることの社会的抑圧は現代では強いようで弱い。その気になれば抑圧されたと声をあげることで社会的弱者から強者に変わることもできます。つまりゲイであることはかつてのような決定的文学主題ではありません。読者の心を抉るほどの私は表現されていないのです。むしろこの先どこに行くのだと期待させる序章の感じです。
大森静佳さんの歌はさらに抽象的です。歌集のタイトルは『カミーユ』でカミーユ・クローデルに思い入れがあるのでしょうがそれが十全に表現されているのかどうか。「細部を詠めという声つよく押しのけて逢おうよ春のひかりの橋に」の歌にあるように細部から視界が開けた外部に出ようという意志はあるのですが具体的な手がかりを得ているとは思えません。大森さんの歌も序章という感じがします。
こういった歌は修辞的には工夫が凝らされています。しかし若手でも昔ながらの私を歌う歌人の作品ほどには評価されないだろうと思います。新しい短歌のあり方を模索しながらまだそこに到達できていないからです。では口語短歌等々はどうなのか。
二十代半ばから三十代前半の若い歌人たちが、「私」を武器に凝り固まった世界と戦っている様子はワクワクして頼もしい。そうこなくっちゃ、と思う。なによりそれぞれがそれぞれの向き合う先を見定めていることが素晴らしい。かつて若い歌人を虜にした前衛やライトバースなどのムーブメントは、時を経て数人に集約されて残りはいなかったことにされてしまったんだから。
(同)
富田さんが今回の時評で唯一露わにした他者批判の箇所です。「前衛やライトバースなどのムーブメントは、時を経て数人に集約されて残りはいなかったことにされてしまった」のかどうかは知りませんがもしそうなら堕落が始まったと言っていいでしょうね。また富田さんは元々「前衛やライトバースなどのムーブメント」に違和感を覚えているので「私」という主題を持ち出されているのだと思います。
短歌は究極を言えば私の表現から逃れられないと思います。また前衛と言いますか確信犯の口語短歌歌人はかつての私を解体するためにあえて口語というより話し言葉を用いて微細な私を表現したのだと思います。しかしそれだけが私の解体方法ではありません。またそもそも私を解体する必要はないのであって現代に即した私の表現方法があるはずです。それが富田さんの言う「「私」という武器」なのだと思います。
もちろんオルタナティブな私の表現方法はまだ見出されているとは言えません。しかしこういった未来に続く議論が出続ける限り歌壇は活気ある場所であり続けるでしょうね。
高嶋秋穂
■ 富田睦子さんの本 ■
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