今月号の特集は「大特集 詠み方がわかる! 大景の句と身辺詠の違い」である。ほんとにまあよく飽きないよなぁと思う。結局「詠み方」。手っ取り早く俳句を詠むことができればいいわけだ。そういった読者をターゲットにしているから原稿の書き方がステレオタイプになる。
世界で一番短いといわれる俳句だが、その十七音の表現しうる世界は広い。
今回は、雄大な景色を十七音に詠み込む「大景の句」と、身のまわりのできごとが詩になる「身辺詠」に着目し、名句を通して、それぞれの魅力を再発見したい。
(藺草慶子「総論 大景の句と身辺詠 それぞれの魅力 十七音の醍醐味」)
今回の特集の総論は藺草慶子さんが書いておられる。決して藺草さんを批判しているわけではないが、角川俳句の特集では典型的な文章だ。まず「世界で一番短いといわれる俳句」という枕詞が出る。しかしそれが常識なら省いた方がいい。俳人は人生が尽きるまで、世界の終わりが来るまで俳句は五七五に季語の形式で、世界で一番短い詩だと言い続けるつもりだろうか。さすがにうんざりする。
で、内容だが当然「大景の句」と「身辺詠」が論じられる。というか代表的な句が例示される。まず「大景の句」から。
■江戸以前■
荒海や佐渡によこたふ天河 芭蕉
雲の峯幾つ崩て月の山
菜の花や月は東に日は西に 蕪村
■明治以降■
極寒の塵もとゞめず岩ふすま 飯田蛇笏
滝落ちて群青世界とゞろけり 水原秋桜子
大いなるものが過ぎ行く野分かな 高濱虚子
谺して山ほととぎすほしいまゝ 杉田久女
赤蜻蛉筑波に雲もなけりけり 正岡子規
たんぽぽや長江濁るとこしなへ 山口青邨
■現代■
摩天楼より新緑がパセリほど 鷹羽狩行
新宿ははるかなる墓碑鳥渡る 福永耕二
水の地球すこしはなれて春の月 正木ゆう子
虫の夜星空に浮く地球かな 大峯あきら
■著者の好み■
雪解川名山けづる響かな 前田普羅
茅枯れてみづがき山は蒼天に入る
霜つよし蓮華とひらく八ケ岳
駒ケ岳凍てて巖を落しけり
茅ケ巌霜どけ径を糸のごと
奥白根かの世の雪をかがやかす
次いで「身辺詠」。
■江戸以前■
物いへば唇寒し秋の風 芭蕉
此秋は何で年よる雲に鳥
■明治以降■
秋風の吹きくる方に帰るなり 前田普羅
囀やピアノの上の薄埃 島村元
元旦や鼻の先だけ暮れ残る 芥川龍之介
燈籠にしばらくのこる匂ひかな 大野林火
羅や人悲します恋をして 鈴木真砂女
■現代■
春の波みて献立のきまりけり 大木あまり
さやけくて妻とも知らずすれちがふ 西垣脩
雲の峰一人の家を一人発ち 岡本眸
藺草さんが総論で引用なさった「大景の句」と「身辺詠」の俳句をすべて列挙した。ただし「江戸以前」「明治以降」「現代」「著者の好み」に分類している。角川俳句の評論は一刻も早く俳句を書きたい読者をターゲットにしているのでこういった構成になる。
まず「江戸以前」の押しも押されぬ名句が例示される。「明治以降」→「現代」→「著者の好み」になるにつれ、誰もが知っている俳句ではなく知る人ぞ知る俳句になってゆく。藺草さんにそういった意図はまったくないが、著者によっては「江戸以前」「明治以降(昭和初期あたり迄)」の有名句を例示して、それらと並べることで、著者の「好み」の友人知人の「現代」作家の作品を喧伝することもある。
多少の変化を持たせることはあるが、たいていの評論がこんな構成だ。俳句は詩だという免罪符を最初に大きく掲げ、名句から現代まで句を並べてその行間を散文解説で埋める。もちろん読者は俳句を詠みたいわけだから、名句秀句を読んで散文は読み飛ばしてゆく。それならなぜ毎号古典から現代俳人までの特集を組み、名句秀句のアンソロジーを作らないんでしょうね。
角焼きを了へて冷えゆく牛と我
仔牛待つ二百十日の外陰部
牛の乳みな揺れてゐる芒かな
牧牛の自由は霧の柵の中
ストーブを消せばききゆんと縮む闇
雪の汽車吹雪の汽車とすれちがふ
涅槃雪牛の舐めゐる牛の尿
母胎めく雪解朧に包まるる
まひるまや陽炎を吐く牛の口
牛死せり片眼は蒲公英に触れて
横臥せる牛みな牛の目をして春
それぞれの青を雲雀と風と牛
発情の声たからかに牛の朱夏
遠くばかり見て夏草を踏む仕事
干草の深さを猫の眠りけり
(鈴木牛後 角川俳句賞・受賞作品「牛の朱夏」より)
今号は第64回角川俳句賞の発表だった。角川俳句では応募者数だけでなく、年代別応募者が一覧になっている。応募総数は五六七篇で、一番多いのが六十代の一五三篇だった。十代から四十代までは一四一篇で、六十代の応募よりも少ない。俳壇では六十代くらいでも中堅あるいは駆け出しと見なされることがあるが、若い作家の応募者が少ないのはちょっとマズイでしょうね。四十代までと五十代以降に二分して二篇受賞にした方がいいかもしれない。
それはともかく受賞の鈴木牛後さんの「牛の朱夏」を読んで、「この手があったかぁ」と思ってしまった。もちろん鈴木さんには関係のない話である。ただこういった生活俳句は強い。強靱な説得力を持っている。また「雪の汽車吹雪の汽車とすれちがふ」「それぞれの青を雲雀と風と牛」「遠くばかり見て夏草を踏む仕事」といった作品を読めば明らかだが、鈴木さんの句は平明だがテクニシャンだ。受賞の言葉で鈴木さんは、
受賞の知らせを受けて以来、頭のなかのかなりの部分を占めていた俳句がやすやすと追い出され、代わって仕事の困ったあれこれがその空隙を満たした。(中略)俳句と生活が私のなかで不可分に結びついているなどとは軽々しく言えないということを、わたしに知らしめることとなった。これからも俳句と生活を絡ませたり解いたりしながら、生きていくことになるのだろう。
と書いておられる。実に正直でいい文章だ。この方は賞の受賞くらいで何かを勘違いすることはないだろう。賞が鈴木さんを見出したというより、鈴木さんが応募してくれたことに賞の方が感謝した方がいいかもしれない。
人の家ぜんぶが春で残される
触ってもいいとこさわる春の風邪
どんたくと言うと傾く体かな
大きさを手で表して夏に入る
誰もいないけどたぶんいる扇風機
(井口可奈「夢の中では話し足りない」)
予選通過作では井口可奈さんの「夢の中では話し足りない」が清新だった。誰が読んでも危うい俳句である。しかし魅力がある。その魅力を信じ切れなければ受賞にはならないだろうが、作家とともに冒険することも時には必要かもしれない。
岡野隆
■ 藺草慶子さんの本 ■
■ 鈴木牛後さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■