大谷弘至さんの「宇宙のなかの孤独―近代人一茶」が連載されていて、今回で十回目である。大谷さんは昭和五十五年(一九八〇年)生まれで三十九歳とまだお若いが、長谷川櫂さんの後を継ぐ俳誌「古志」主宰である。主宰就任時は俳壇で一番若い主宰だったようだ。ただそれは伊達ではなく、連載を読んでいても腰を据えた仕事ができる方だということがわかる。
日本の詩は短歌、俳句、自由詩だが、特に句誌と自由詩の詩誌(数は少ない)は思いつきの書き捨て散文が多い。これにははっきりとした理由がある。俳人たちは「俳句とは何か?」という問いかけを放棄している。俳句は「五七五に季語形式で日本で一番短い詩である」というお題目を繰り返しているだけだ。なぜ「五七五に季語形式で日本で一番短い詩である」のかを探求しなければならないのに、そういった視点が一切ない。
自由詩の詩人たちも、同じく「自由詩とはなにか?」という問いを欠落させている。自由詩は内容的にも形式的にも制約のない表現形態だが、なにをもって散文に近い表現(日常言語で書かれた言葉の連なり)が詩に昇華されるのかを把握している詩人はいない。そのため詩人たちは詩に対する主観的思い入れを適当に書き綴ることになる。一ヶ月か二ヶ月前にメディアからお題を与えられた散文を詩論だと勘違いしているわけだ。しかし思いつきの書き飛ばし原稿は、当たり前だが優れた詩論にならない。埋め草原稿で退屈な人生のひとときをやり過ごしているだけである。
もちろん詩に対する問いかけには様々な方法がある。ただ自然発生的に成立した詩のジャンルの根本を理解するのは簡単ではない。抽象的に考えるにせよ具体例を掘り下げるにせよ時間がかかる。自分は天才だとうぬぼれている人には付ける薬はないが、ほとんどの場合労作でなければ読むに耐えるものにならない。認識の基盤になるような材料を集め、直観を働かせるのが基本だ。適当な材料しか集めていないなら適当な直観にしかならない。
大谷さんにはすでに『小林一茶』の著作があるが、今回の連載は一茶の近代性に焦点を当てたものである。江戸と明治の精神風土は基本的に大きく違う。封建社会と、君主制ではあるが立憲民主制の違いだ。ただ杓子定規な歴史概念ではなく社会の機微を見てゆけば、何が持続していて何が変わったか、よりはっきり把握できるようになる。
江戸社会は意外なほどリベラルである。これは幕府が絶対君主制ではなく、老中を中心とした実質的な合議制で政治経済を動かしていたことに起因している。あからさまな反体制だけが社会的自由ではない。政治とは無縁のところで大きな枠組みである政治体制を換骨奪胎するような人間の営みが、本質的な位相で人間の自由意志を育むのである。
幕末の芸術にははっきりと明治維新以降の近代的自我意識の萌芽が見られる。強権的な絶対君主制しか知らなかった東アジアの国々に先駆けて日本が比較的スムーズに民主国家に移行できた理由である。混乱を最短最小限に抑えた明治維新(一種の革命)は、封建社会の限界を察知していた人間の自由意志がなければそもそこ起こらなかった。
小林一茶も幕末の自由思想の持ち主の一人である。「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」が代表句として人口に膾炙しているが、そこには一茶の強い意志がある。そういった意志を捉えて大谷さんは「近代人一茶」の姿を明らかにしようとされている。
連載は「煎茶の近代性―一茶、樗堂そして漱石」まで進んでいる。幕末には煎茶が大流行した。もちろん利休以来の抹茶も盛んだったが、多くの文人たちが煎茶を好んだ。煎茶の流行は言うまでもなく中国の影響だ。中国には煎茶しかない。幕末文人たちは中国をリアルタイムで捉えようとしていた。それは同時に日本文化の特質を把握しようという知性に繋がっていった。
また幕末文人たちのネットワークは驚くほど広く密接である。簡単には対面できない時代だからこそ、著作や手紙を介して異なる思想・感受性の持ち主を深く理解しようという力が働いた。漢詩漢文に堪能だった一茶がその主要な表現として俳句を選び、漢文体ではなく平仮名を重視したのも一つの意志的選択だということである。
昔々、清き泉のむくむくと湧出る別荘をもちたるものありけり。
たやすく人の汲みほさんことをおそれて、井筒の廻りに覆いおほひを作て、倩年をへたりける程に、いつしか垣も朽ち、水もわろくなりて、茨・おどろ(藪)、おのがさまざまにしげりあひ、蛭・孑孑ところ得顔にをどりつつ、つひに人しらぬ野中のむもれ井とぞなれりける。
此道こころざすも又さの通り、よりより魂の醭を洗ひ、つとめて心の古みを汲みほさざれば、彼の腐れ俳諧となりて、果は犬さへも喰らはずなりぬべき。
されどおのれが水の臭きはしらで、世をうらみ、人をそしりて、ゆくゆく理屈地獄にくるしびまぬがれざらんとす。
さるをなげきて籠山の聖人、手かしこく此俳崛をいとなみ、日夜そこにこぞりて、おのおの練りだせる句々の決断所とす。
春の始めより入り来たる人々相かまへて、其場のがれの正月のこと葉など、必ず、のたまふまじきもの也。
文化七年十二月日 しなのゝ国乞食首領一茶書
一茶が下総守谷(茨城県守谷市)にあった鶴老住持の西林寺に滞在していた時に書いた文章で、後に一茶自選集『我春集』の序文として再録された(生前未刊)。一茶の数少ない俳論として知られる。「清泉を人に汲まれるのがイヤで何重もの垣根で囲った人がいたが、いつしかドブ水になってしまった。俳句も同じである。常に水を汲み替え新たな刺激を求めなければならない。こんなよくある失敗を避けるために、西林寺の鶴老住職が俳句道場をお作りになった。春から始めるが、皆ありきたりの正月の挨拶など述べずに俳句に精進されたし」という大意である。
この散文について大谷さんは、「一茶にとって当時の俳壇は汚れた水であり、世の中にあふれる句は犬も食わない腐れ俳諧であった。一茶はそうした状況に反発し、一茶なりに新を求めていた」と批評しておられる。「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」の優しい句の作家とは似ても似つかない苛烈さである。ただ文学史上に名前が残っている作家はおしなべてこんなものだ。作品は平明で優しくてもその精神は苛烈であることが多い。作品の上っ面を撫でるのではなく、作家の内面まで本気で探ってみなければそういった機微はわからない。
もちろん一茶は自身の結社(座・講)を持っていた。江戸の中央俳壇の動きを気にする人でもあった。ただ一茶俳句は本質的に芯が通っており、他者の評価もリベラルである。
俳句の結社、あるいは句会といったものは、それ自体が利権団体と化して現世利益を得るためにあるわけではない。俳句は「わたしがわたしが」の自我意識表現ではなく、日本的世界観を的確に表現するための無意識的修辞によって成立する。それを探るためには集団的営為が効率的だというだけのことである。俳句では優れた作家は必ず同じ認識地平に到達する。お世話になった師や仲間を大事にするのは当然だが、同じ俳句認識を共有できるという意味で俳壇自体が一つの結社だとも言える。
香水やをとこばかりのエレベーター
揺るるのはわたくしなのか夏蝶か
紙挟みはさむものなし終戦日
(美輪初子「はさむもの」)
角川俳句の巻末には、「今日の俳人 作品七句」が掲載されている。新人俳人たちの作品である。七句といってもそれぞれに厳選した作品だが、意外なほど新鮮な句が多い。気負いもなくスラリと俳句を読んでいる。しかし俳句を量産し、句集をまとめる段になると初期の爽やかさはあっさり失われる。修辞的に凝ったとしても、たいていはすでに誰かがやっている。
むしろ初発の爽やかさを維持することの方が大事なのだが、これが難しい。子どもの頃は新鮮で伸びやかな絵を画けるのに、大人になってそれができるのは大画家だけというのに似ている。最高の表現は拙に見えるということでもある。一茶もまたそういった大俳人の一人だった。
岡野隆
■ 大谷弘至さんの本 ■
■ 小林一茶の本 ■
■ 金魚屋の本 ■